第二話 ペンキ塗れの白バラ②
「あの、この度は誠に申し訳ありません。イトウと申します。お怪我の具合はいかがですか?」
……なんだって?
恐る恐る目を開け、体を戻す。
白バラは一歩も動かず、俺に向かって深々と頭を下げていた。
「イトウ? イトウって、なに?」
「私の苗字ですが……」
イトウ……異頭?
苗字みたいな響きだが、見た目に応じた名前があるのか?
混乱する俺を横目に、冴木が「すみません、コイツまだ混乱してるみたいで」と苦笑している。
というか、なんで普通に話してるんだ?
幽霊じゃないの?
二人のやりとりを呆然と聞いていた俺は、彼女の深緑色の服を見てハッとした。
「もしかして、階段から落ちた方?」
「この度は申し訳ありません。何とお詫びすればよいか」
「お気になさらず。大事にならなくて良かったです」
そう言って笑ってみせたが、彼女は俯いたまま、しきりに手を揉んでいる。
「あの、治療費や入院中の生活費等は必ずお支払いしますので、少しだけ待っていただけませんか? その、恥ずかしながら貯蓄が……」
「お金は結構です」
「えっ」
「事故だったんですよね? 保険の手続きも面倒になりそうですし、今回はお気持ちだけで」
「でも、それでは申し訳が……」
声を震わせる異頭さんには申し訳ないが、俺の頭は他のことでいっぱいだった。
――彼女が花に見えているのは、俺だけかもしれない、という考えだ。
とはいえ、下手なことを言えば彼女を傷つけてしまうかもしれない。悩んだ末に、俺はすべてを飲み込むことにした。
何も言わなければ誰も傷付かないし、困らない。
花に見えるから何だ、綺麗なだけだ。
そう自分に言い聞かせ、彼女を見る。ふと、花弁の赤い部分に茶色い棒のようなものが付いていることに気付いた。
あれは、大きくて平らな筆……いや、刷毛か?
そこまで考えて、俺はハッとした。
「不思議の国のアリスだ!」
「えっ」
異頭さんが勢いよく頭を上げるのと、冴木が俺の肩を掴んだのは、ほぼ同時だった。
「お前はアリスじゃなくてパグだ。パグだよパグ、ほら鏡!」
そう言って女児用のコンパクトミラーを開き、冴木が強引に俺の顔を映す。顔の真ん中に貼られた大きなガーゼが見えて一瞬どきりとしたが、それだけだ。なのに、冴木が子供を言い含めるようにあだ名を連呼するので、だんだん俺までつられてきた。
「ちがっ、俺じゃない! 異頭さんの頭だよ」
「アリスは女の子だ、バラじゃない」
「作品名だよ! ハートの女王の、赤く塗られた白いバラ」
「……本当か? 自分が少女じゃないことは分かってるか?」
「だから、俺の自認がアリスなわけじゃないって! いいから早く鏡をしまえ!」
眉をひそめて俺を見る筋肉ダルマの腕を押し返し、じっとりと睨み返す。
というか、お前も異頭さんの頭がバラに見えていたのか。
言えよ! 事前に!!
心の中で歯軋りをしていると、抑えたような笑い声がした。
「仰る通り、これは不思議の国のアリスの白バラです。アリスお好きなんですか?」
「いや、偶然です」
「パグは物語に詳しいんです。娘が好きそうな童話をたくさん教えてくれたりして」
「余計なことを言うな!」
「ふふっ。あ、すみません」
異頭さんが慌てて頭を下げる。どう反応したらいいか迷う俺の隣で、冴木が穏やかに声をかけた。
「イトウさんは、アリスよりバラがお好きなんですか?」
「そうじゃないんですが、みんなに愛されるアリスより、過ちの象徴として塗られる白バラの方が、私にはお似合いかなって」
「えっと……」
「それにホラ、この誤魔化し方が許されるんだと思えば、大抵のことは何とかなる気がしてきません?」
笑い声をあげる異頭さんに返す言葉を冴木が選び損ねて、病室に沈黙が流れる。肩を落として項垂れていく白バラが忍びなくて、俺は明るい調子で自分の足を指差した。
「異頭さんが白バラなら、俺はフラミンゴの木槌かな。両足のギプスがグリップみたいですし」
「……なんか痛そうで嫌だ」
渋い顔をする冴木の顔を無視して、俺は異頭さんに笑いかける。
これで話は終わり。
そう思ったのは、どうやら俺だけだったらしい。
「あの、私にできることは何かありませんか?」
控えめな声が病室に響く。俺は冴木と顔を見合わせると、苦笑しながら異頭さんを見た。
「大丈夫ですよ、すぐに退院しますから」
「でも、お医者さんは四週間入院と仰ってましたよね」
「聞いてらっしゃったんですか……」
どうしたものかと宙を見る俺に向かって、異頭さんがずいっと身を乗り出す。勢い余って白いバラの花弁が揺れ、キャラメルのような匂いが鼻先を掠める。俺は彼女と距離を取るように少しだけ身を引いた。
「お金はありませんが、手伝えることは何でもします。買い出しとか、病室移動時の荷運びとか、できることがあれば仰ってください」
「いや、初対面の女性にそんなことを頼むわけには……」
「入院するほどの怪我をさせておいて何もしないのは、流石に申し訳がなさすぎます」
「でも」
「お願いします」
異頭さんは頭を下げると「お願いします」と繰り返し訴える。とはいえ、彼女に頼めるようなことなど何もない。とりあえず頭を上げるよう促していると、冴木が俺の肩をポンと叩いた。
「パグは甘党だったよな? 二階にある院内カフェ、入院患者は付き添いがいないと利用できないらしいぞ」
「何の話だよ」
「一人だと移動するのも大変だろうし、お詫び代わりに時々カフェに付き合ってもらったら?」
名案とばかりに冴木が指を立てる。
予想の斜め上をいく発言に絶句した俺は、慌てて彼の腕を掴んだ。
「は、はぁ!? お前、セクハラだぞ!」
「ただの提案だよ、嫌なら断っていい。でも、これならイトウさんの負担も少なくて済むかなって」
そんな訳ないだろ!
肩をすくめる冴木の態度に苛立ちを抑えられず、俺は思わず声を荒げる。
「彼女の負担が少ないわけないだろ! 相手は俺で、お前じゃないんだぞ!?」
「そうか?」
「そうだよ! 現にほら、異頭さんも反応に困って――」
「待ってください!」
異頭さんの声が鋭く病室に響く。彼女は右手を高々と掲げると、まるで選手宣誓でもするかのように声を張った。
「行きます」
「えっ」
「お茶、行きます。行かせてください!」
覚悟のきまった声に、冴木が拍手を送る。
熱い二人のやりとりを他人事のように聞きながら、俺は現実から逃げるように天井を見上げた。
俺に拒否権はないらしい。
――こうして、三日後に彼女と院内のカフェへ行くことが決まった。




