第9話 声の近道は順番を知らない
星冠暦826年・実成月20日・木耀日
昼を少し過ぎたころ、保健院から戻ったリディアが遅めの昼食を並べ始めた。
窓の外では、実成月の日差しが庭の石畳を白く照らしている。開け放した窓から入る風も生ぬるく、フィンは水差しから二杯目を注いだところだった。
食卓には一つだけ空席がある。
アルノは朝から離れにいる。
「フィン、おじいちゃんを呼んできてもらえる?」
「うん」
返事をして立ち上がったものの、庭へ続く戸口から流れ込む熱気に、足がほんの少しだけ鈍った。
行きたくないわけではない。
ただ、行って戻れば確実に汗をかく。
そんな顔を見ながら工房から出てきたオスカーは、笑う代わりに両手の上を少し持ち上げた。
そこには掌より小さな石板がいくつも載っていた。
「ちょうどいい。これを試してみるか」
ミアが椅子から降り、すぐに近寄った。
「いし?」
「継声石。家から離れへ声を送れるか、朝から調整してたんだ」
それを聞いたフィンの足取りは、庭へ向かうときより目に見えて軽くなった。
エルナも本から顔を上げる。
リディアは並べかけの皿と、空いたままの席を見比べた。
「試すのはいいけれど、お父さんのお昼が冷めないうちにね」
その条件で、昼食前の小さな実験が始まった。
オスカーが用意していたのは二通りの経路だった。
銅色の線が入った石は、母屋の軒下を伝い、庭の端を回って離れへ向かう。
銀色の点がある石は、仮の小さな台を庭へ置き、離れまでほぼまっすぐ進む。
継声石はどこへでも届くわけではなく、次の一枚が拾える距離には限りがある。遠回りする銅の道には五枚必要だったが、庭を横切る銀の道なら三枚で足りた。
家側には送信用の端末があり、離れには受信用のものを置いてある。
送れるのは短い声だけ。
音量は普段の会話より大きくならず、物を動かしたり熱を出したりする作用もない。端末の停止片を抜けば、それ以上新しい声は送り出されない。
そこまで確かめると、離れにいるアルノへ合図を送り、試験を始めた。
最初に送る役を任されたミアは、銅と銀の二つの起動部を前にして、ひどく真剣な顔をした。
「まず銅。それが終わったら銀な」
オスカーの説明にうなずき、ミアは銅色の印へ触れた。
淡い光が灯る。
「おじいちゃん、きこえる?」
声を入れ終えた直後、軒下の最初の継声石が光った。
その先が少し遅れて応える。
けれどミアは最後まで光を追わず、ほとんど間を置かずに銀の起動部へ指を移した。
「おひるだよ!」
今度は庭を横切る三枚が、順番に淡く光った。
二本の光が消えてしばらくすると、離れの扉が開いた。
アルノは庭を渡ってきながら、首を傾げていた。
「昼なのは分かったんじゃが、一つ妙じゃったぞ」
オスカーが手を止める。
「どう聞こえました?」
「先に『おひるだよ』、その後で『おじいちゃん、きこえる?』じゃ」
ミアが瞬きをした。
自分が言った順番とは逆である。
フィンは二つの起動部を見比べた。
今にも石を確かめに行きそうになったところで、その足が止まる。
「もう一回、触らないで見てみよう」
以前なら先に拾い上げていたかもしれない。
今はまず、動いているところを見る。
アルノにはもう一度だけ離れへ戻ってもらい、二度目はできるだけ短い声を使うことにした。
銅へ「いち」。
ほとんど間を置かず、銀へ「に」。
今度は家族の視線が、離れではなく途中の石へ向いた。
銅の道では、軒下の一枚が光り、少し間を置いて次が応える。
さらに次へ。
庭の端を曲がり、その先でも光る。
フィンは声に出さず、指だけで数えていた。
五回。
一方の銀は、庭の上を三回光っただけで離れへ届く。
エルナは石そのものではなく、一枚が光ってから次へ移るまでの間を見ていた。
どの石にも、ほんのわずかな待ち時間がある。
その長さは銅でも銀でもほとんど変わらない。
違うのは、その待ち時間を通る回数だった。
ほどなくアルノが戻り、二度目も「に」が先だったと告げるころには、家族の視線は二本の経路を行き来していた。
オスカーはそこで初めて、継声石を一枚手に取った。
送信端末の中には、小さな蓄魔石が入っている。
声を入れると、その空気の震えが短い共鳴の模様へ写され、一回分の波として送り出される。
途中の継声石が新しい魔力を作るわけではない。
飛んできた波を受け、一度自分の中で落ち着かせてから、刻まれた送り方向へ渡す。そのたびに波は少しずつ弱まり、今回の大きさなら五枚を越えるころには安定して次へ渡せなくなる。
「順番を入れ替えたわけじゃないんだ」
エルナが庭を見ながら言った。
先に出た銅の声は、五つの待ち時間を通った。
後から出た銀の声は三つだけだった。
短い方が、その二つ分の差で追いつき、先に離れへ着いたのである。
継声石自身は、二つの声が一続きの会話だとは知らない。
どちらを先に聞かせれば自然かも知らない。
自分へ届いた共鳴を、決められた向きへ渡しただけだった。
仕組みが分かると、次に考えるべきことは修理ではなく、どちらの道を残すかになった。
速さだけを見れば銀である。
三枚しか通らないぶん、返事を待つ時間も短い。
けれど、庭を眺めたリディアの目は別のところを見ていた。
銀の石を支える仮台は、花壇と母屋の間を斜めに横切っている。今は試験中だから誰もそこで遊ばないが、毎日置いておけば洗濯物を運ぶときにも、フィンが庭を走るときにも気をつけなければならない。
ミアの目線にも近い。
かといって銀の三枚をそのまま軒下へ移せば、曲がるぶんだけ石と石の距離が開きすぎて声を拾えない。
銅の五枚は遅い代わりに、人の通る場所から離れた軒下へ収まっていた。
リディアは庭の中央に残る仮台より、軒下の小さな光を長く眺めた。
「少しくらい遅くても、毎日邪魔にならない方がいいわね」
それで十分だった。
オスカーも、速い銀の道を改良し続けようとはしなかった。
今回欲しかったのは競争に勝つ道具ではなく、離れへ声が届く道具である。
昼食が本当に冷めてしまう前に銀の三枚と仮台は片づけられ、銅の五枚だけが残った。
アルノはようやく空いていた席へ着いた。
遠回りする声より、昼食を待たせた実験の方がよほど時間を使ったらしい。
それに気づいたオスカーが何とも言えない顔をすると、リディアは笑いながら温め直した皿を置いた。
午後には、銅の経路が軒下へきちんと固定された。
庭から見上げると、五枚の石は家の輪郭に沿うように離れまで続いている。人の通る高さには何も残っていない。
おやつの時間になると、ミアがさっそく送信端末の前へ立った。
今度は選ぶ道も、追い越す相手もいない。
「おじいちゃん、おやつだよ」
一息で入れた声が、軒下へ送り出される。
最初の石が淡く光り、それが消えかけるころに次が応えた。家の縁をゆっくりなぞる光は、昼の銀ほど速くない。それでも途中で迷わず、五つ目まで同じ調子で進んでいった。
少しして離れの扉が開く。
アルノが庭へ姿を見せると、待っていたミアが大きく手を振った。
食卓には冷やした果実が並び、窓から差す午後の光が皿の縁できらめいている。朝から何度も見上げられていた継声石も、今は次の呼びかけまで静かな石へ戻っていた。
軒近くで一連の試験を眺めていたルクスは、庭を渡ってくるアルノと、当然のように席を空けて待っている家族を順に見た。
最短の道でなくても、同じ場所へきちんと届く。
それをわざわざ口にするつもりはないらしく、白い翼を整えてから、いかにも呆れたように目を細めた。
「アルノ一人を昼飯に呼ぶだけで声を競走させるな――あいつは逃げないんだから、お前たちも同じ道を少しくらい黙って待て」




