第10話 真昼の影には輪がある
星冠暦826年・実成月21日・金耀日
午後の庭は、本を読むには少し明るすぎた。
エルナは卓の上へ開いた本を何度目か持ち上げ、白い頁へ斜めに落ちる日差しから逃がした。身体で影を作れば今度は文字まで隠れ、椅子ごと動けばしばらくして太陽の位置が変わる。
三度目に椅子を引いたところで、近くで水を飲んでいたフィンが笑った。
「姉ちゃん、朝からそこにいたみたいに見えるけど、けっこう移動してるよな」
「太陽が追いかけてくるの」
「たぶん姉ちゃんの方が逃げてる」
「分かってる」
エルナは本を閉じた。
軒下では昨日取り付けた継声石が静かに並び、その少し上ではルクスが羽を休めている。こちらの読書事情には興味がないらしく、白い頭は通りの方を向いたままだった。
そこへ離れからアルノがやって来た。
「光が強すぎるなら、ちょうど使えるものがあるぞ」
「日除け?」
「そこまで便利な物ではないのう」
持ってきたのは、掌ほどの黒い環だった。
同じものが三枚ある。
薄い輪の内側には細かな術式線が巡り、それぞれに小さな蓄魔石と解除紐が付いていた。アルノが離れで明るい魔法反応を観察するとき、目へ入る光を弱めるために使っている個人用の補助具だという。
店の仕事の合間に庭へ出てきたオスカーも、一枚ずつ状態を確認した。
低い木製の支持台へ一枚を固定し、エルナの本より少し高い位置に据える。
起動すると、輪の下に何かが現れたようには見えなかった。
布も板もない。
それでも頁へ落ちる日差しだけが、円く柔らかく弱まった。
「これ、いい」
エルナが本を戻す。
さっきまで白く照り返していた紙が落ち着き、文字の黒がずっと追いやすい。
フィンが横から手を入れてみたが、冷たくなったわけではないらしい。風も変わらず、指先に何かが触れることもない。
ミアも卓の向こうから覗き込んだ。
「ミアもここでかく」
いつの間にか、昨日までの「おえかきのおうち」から紙と色鉛筆を持ってきている。
フィンまで椅子を持ってきたので、一人分だったはずの読書場所はあっという間に狭くなった。
アルノの手には、まだ二枚の減光環が残っている。
「三枚とも使えばよかろう。重ねなければ、同じような明るさの場所を三つ作れる」
それなら話は早かった。
オスカーとアルノが支持台の位置を確かめ、三枚を少し離して並べる。環そのものより作用する円は広いため、三人が卓を囲むくらいなら十分だった。
ところが、三つの円を離してみると、その間だけ細い日差しが残る。
ミアはそこへ紙を置いてみて、すぐに顔をしかめた。
「ここだけ、まぶしい」
「じゃあ少し寄せようか」
エルナはオスカーに確認してから、木製の台をわずかに動かした。
二つの作用域の縁が触れる。
その瞬間、卓の上へ細い濃い帯が生まれた。
柔らかな陰りが二枚重なった場所だけ、急に一段暗くなっている。
フィンは手を伸ばしかけ、それを途中で止めた。
「……見る方が先だな」
今度は誰も触らず、二つの円を眺めた。
故障を示す音もなく、蓄魔石の光も安定している。
エルナはまだ固定していなかった三枚目へ目を向けた。
「もう一枚近づけたら、どうなるんだろ」
周囲に誰も手を入れていないことを確かめ、今度はアルノが三枚目の台をゆっくり寄せた。
三つの円の端が卓の中央で重なった。
真昼の中へ、小さな夜が落ちた。
完全な黒ではない。
けれど卓の木目が見えにくくなるほど濃い陰りが生まれ、その周囲だけを細い淡光が囲んでいる。
暗い中心と、明るい輪。
さっきまでただ眩しかっただけの庭に、そこだけ別の時間が丸く切り取られたようだった。
「まんなか、よるだ」
ミアは声を潜める必要もないのに、小さな声で言った。
ほどなくして、保健院の仕事から戻っていたリディアが冷たい果実水を庭へ運んできた。
卓へ置こうとして、彼女の手が止まる。
「ずいぶん不思議な読書場所になったのね」
エルナは少し気まずそうに笑った。
「本を読みやすくする途中だったんだけど」
リディアは中心の暗さより、その周りに出ている細い光を眺めた。輪の曲線を目で追い、頭上の三枚へ視線を移す。
「この明るい縁、三つの円が重なった場所と同じ形に見えるわ」
言われてみれば、その通りだった。
エルナは一枚だけを外へ動かしてよいか確認すると、支持台をゆっくり引いた。
三重だった中心の一部が二重になる。
そこだけ暗さが薄くなり、同時に光輪の形も崩れた。
さらに少し離すと、最初の柔らかな陰りへ戻っていく。
減光環は、光を消しているわけではなかった。
上から作用域へ入った可視光の一部を、円の外縁へ短い距離だけ移し、広く薄く放している。だから中央は眩しさが減り、外周には目立たない程度の光が返る。
一枚なら、それだけだった。
けれど独立した三枚が同じ場所へ作用すれば、中央を通る光は繰り返し減らされる。外へ移された光も似た場所へ重なるので、濃い中心と明るい輪が同時に現れたのである。
環は互いの存在を知らない。
本があることも、人が座っていることも知らない。
それぞれが自分の範囲へ来た光に、決められた作用をしていただけだった。
原因が分かれば、直すものはなかった。
三枚の支持台を離し、作用域の縁が重ならない位置まで戻せば、卓には穏やかな明るさの場所が三つできた。
その後の庭は、驚くほど静かになった。
エルナはようやく頁の続きを読み、向かいではミアが色鉛筆を動かしている。フィンも自分で持ってきた読み物へ目を落とし、ときおり吹く風だけが紙の端を揺らした。
先ほど真昼の夜があった場所には、もう光輪も濃い影もない。
それでよかった。
今日欲しかったのは珍しい現象ではなく、落ち着いて本を読める明るさだったのだから。
それでも、エルナはしばらくして本から目を上げた。
軒下にいたはずのルクスが、いつの間にか卓の端へ降りている。
三つの減光域からは少し外れていて、白い羽には相変わらず強い日差しが落ちていた。
エルナは何も言わず、自分の支持台をほんの少しだけずらした。
本の頁は陰りの中へ残したまま、その端だけがルクスのいる場所へ届く。
三枚を重ねたわけではない。
一枚分の、ただ眩しさが少し柔らぐだけの円だった。
ルクスは移動した光を一度見上げ、次にエルナを見る。
けれど飛び去らなかった。
十分の試験時間が終わりに近づくまで、頁をめくる音と色鉛筆の擦れる音のそばで、白い翼は同じ場所にあった。
やがて蓄魔石の光が弱まり、三つの減光域がゆっくり消え始める。
エルナが次の十分を起動しようと環へ手を伸ばすと、ルクスはその位置から動かないまま金色がかった目を細めた。
「三枚も重ねるから昼が夜になるんだ、一枚で足りる――その環は、もうそこから動かすな」




