第11話 後退印は帰り道を知らない
星冠暦826年・実成月22日・土耀日
午後の庭には、乾いた布の匂いが満ちていた。
物干しに掛けられた大きなシーツが風をはらみ、その下では何枚ものタオルが夏の日差しを受けて揺れている。
リディアは乾き具合を確かめながら、一枚ずつ底のしっかりした木編みの籠へ重ねていった。日の光を吸った布はまだほんのり温かく、畳む前から夏らしい匂いがする。
最後のタオルを外したところで、彼女は洗濯籠と母屋の戸口を見比べた。
持てない重さではない。
けれどいっぱいに入れれば前が見えにくくなる。
近くにいたフィンがそれに気づいて手を伸ばした。
「持とうか?」
「ありがとう。でも、その前に試したいものがあるの」
リディアが見たのは、工房の開いた戸口だった。
少し前、オスカーが木箱を床の上で移動させるとき、車輪もない箱を小刻みに歩かせていたことがある。
話を聞いたオスカーは、やがて濃い茶色の幅広い帯を持って庭へ出てきた。
「歩み帯か。籠の底がしっかりしてるなら使えるな」
ただし、工房の平らな床と庭の石畳では条件が違う。
いきなり洗濯物を載せて運ぶのではなく、まず空の籠で基本動作を試すことになった。
帯を籠の底へ巻くと、裏側の四隅に平たい踏み片が収まった。表には小さな蓄魔石と解除扣があり、その横から青い鋲が一つ突き出している。
エルナがそれを覗き込んだ。
「この青いのは?」
「方位鋲。歩み帯にとっての前だ」
四つの踏み片は、順番に石畳へ弱く固定される。その状態で帯の中に織り込まれた縮織節が縮むと、固定された片の方へ籠の底が引き寄せられる。固定を解いて次の片へ移れば、また少し進む。
車輪で転がるのではなく、帯そのものが籠を一歩ずつ運ぶ仕組みだった。
力は小さく、人が普通に歩くより遅い。籠が一定以上傾いたり、踏み片が硬い障害に止められて規定量動けなかったり、荷重が上限を超えたりすれば、その時点で動作をやめる。解除扣でも止められ、一回の指令で動けるのは六動作までだった。
子どもたちは進路から離れて見る。
ミアも言われる前に二歩下がった。
「ミア、ここでみる」
「うん。そこなら大丈夫」
リディアに言われ、満足そうに足をそろえる。
物干し近くの塀では、ルクスが羽を休めながら空の籠を眺めていた。
オスカーは試験用の指令片を取り出した。
工房でも、新しい床面で使うときには基本の動きをまとめて確かめるために使うものらしい。
「前進を三回。次に右へ四分の一だけ向きを変えて、それから後退を二回。これで六動作だ」
「いって、まがって、かえってくる?」
ミアが言う。
オスカーは少しだけ笑った。
「まずは見てみよう」
指令片が留め金へ差し込まれる。
小さな起動音のあと、一つ目の踏み片が淡く光った。
石畳へ吸いつくように固定され、帯が縮む。
籠が、ごそり、と前へ出た。
続いてもう一歩、その次にもう一歩。
滑るような動きではなく、地面を確かめながら身体を引き寄せているような進み方だった。
ミアが声を弾ませる。
「ほんとにあるいてる!」
三歩目が終わると、踏み片の働く順序が変わった。
籠はその場でゆっくり右へ向きを変える。
正面を向いていた青い方位鋲も一緒に回り、最初とは九十度違う方向を指した。
そこまでは静かな試験だった。
次の凹凸を帯が読み取る。
後退。
籠が一歩下がった。
ただし、出発地点の方へではない。
最初の進路から見れば、横へ進んだ。
「そっちなの?」
エルナが思わず声を上げる間にも、最後の一歩が始まる。
籠の先には、まだ取り込んでいない薄いシーツが一枚だけ残っていた。
裾は地面より十分高く、籠の上半分へ触れるくらいの位置で風に揺れている。
オスカーは解除扣へ手を掛けたが、籠の速度は遅く、人も進路から離れている。踏み片へ布が届く位置でもない。
そのまま最後まで見ることにした。
籠は白いシーツの下へ、のそのそと潜り込んだ。
布が縁を滑り、上からふわりとかぶさる。
その状態でもう一歩だけ進む。
庭に突然、四角い白い何かが歩き出した。
ミアは両手で口を押さえたものの、笑い声までは隠せなかった。
「おばけ……!」
そこで六つ目の動作が終わった。
蓄魔石の光が消え、シーツを頭からかぶった籠が庭の途中で静止する。
塀のルクスが、その白い塊へ何とも言えない目を向けていた。
オスカーが動作終了を確認してから、リディアはシーツを持ち上げた。
下から現れた籠は、どこも壊れていない。
帯にも異常を示すものはなかった。
ミアは首を傾げる。
「まちがえたの?」
リディアはすぐには答えず、籠の来た方を振り返った。
石畳には乾いた土埃が薄く積もっている。
そこへ、四つの踏み片が押した小さな跡が点々と残っていた。
最初の三組は、物干しからまっすぐ伸びている。
その先だけ踏み跡の向きが変わり、籠がその場で回ったことが分かる。
そして最後の二組は、来た道ではなく横へ続いていた。
リディアは踏み跡の先にある籠へ戻り、青い方位鋲を見た。
今も鋲は、出発したときとは違う方向を向いている。
そこでようやく笑った。
「そういうことなのね。後ろへ進むのと、来た道を戻るのは別なんだわ」
歩み帯は、物干しがどこだったか覚えているわけではない。
家がどちらにあるかも知らない。
指令片の凹凸に従い、その時点で青い方位鋲が示している方向を基準に、決められた縮織節を動かしているだけだった。
最初の三歩が終わったあと、籠は右へ九十度向きを変えた。
だから、そのあとの「後退」も、向きを変えた籠にとっての後ろへ進んだ。
結果として、それが最初の進路から見れば横だったのである。
故障ではない。
むしろ六つの指令を、最初から最後まで律儀に実行していた。
リディアは踏み跡から母屋の戸口へ視線を移した。
今日したいのは、庭で籠を回したり来た道へ戻したりすることではない。
洗濯物を家へ運びたいだけだった。
「それなら、うちでは曲がる必要がないわね」
物干しから戸口までは、籠の向きを最初に合わせてしまえばほぼ一直線である。
オスカーも試験片の方を改造しようとはせず、工房から前進だけを五回入れた短い指令片を持ってきた。
今度は乾いたタオルを少量だけ籠へ入れ、帯の締まりと荷重を確かめる。
家族が進路を空けると、リディアが起動した。
歩み帯は先ほどと同じように、一歩ずつ石畳をつかんだ。
ただし今度は向きを変えない。
庭を横へ逸れもしない。
乾いたタオルを載せた籠は、陽の当たる石畳へ五組の小さな踏み跡を残しながら、ゆっくり母屋の戸口へ近づいていった。
それだけの動きなのに、シーツをかぶって横へ逃げていった先ほどより、ずっと道具らしく見える。
戸口の手前で最後の踏み片が離れ、籠は静かに止まった。
ミアは進路の脇からずっと歩数を数えていたらしく、五本の指をきれいに開いた。
「ちゃんとついた」
「ええ。今度はね」
リディアは籠の中の温かいタオルを撫でた。
速く運ぶためなら、人が持った方が早いかもしれない。
それでも、前をふさぐ大きな籠を抱えずに済むのは悪くない。
何より、道具が知っていることと、人間が勝手に期待したことの違いさえ分かっていれば、使い方はずっと簡単だった。
残りの洗濯物も荷重を増やしすぎないよう二度に分け、同じ直進片で運んだ。
二度目にはもう誰も「帰ってくるかな」とは言わなかった。
青い方位鋲を戸口へ向け、進路を空け、籠が歩き終わるのを待つ。
風に揺れる物干しの下へ残った踏み跡だけが、最初の奇妙な遠回りをいつまでも薄く描いていた。
夕方には洗濯物もすっかり畳まれ、歩み帯は工房へ戻された。
使い終わった籠だけが、居間の窓際に置かれている。
底には小さなタオルが一枚、取り忘れられたように残っていた。
そこへ、庭で一部始終を見ていたルクスが降りる。
縁へ片脚を掛けて中を覗き、しばらく考えたあと、白い身体を籠の中へ収めた。
日の温かさを残したタオルの上で翼を畳むと、思った以上に居心地がよかったらしい。
ミアがすぐに気づいた。
「ルーちゃん、そこすき?」
返事はない。
代わりに、ルクスの目が細くなる。
ミアはもう一度籠を見て、それから工房の方へちらりと視線を送った。
歩み帯が片づけられた場所である。
その一瞬だけで十分だった。
ルクスは籠から出るどころか、残ったタオルの上へさらに深く座り直した。
「後退印まで入れる必要はない。……今の籠はここが終点だ、ミア。勝手に次の道を作るな」




