第86話 六歩のあとで
星冠暦826年・霜降月5日・木耀日
午前のクラウゼル魔法具店では、工房の奥までまっすぐ床が見えていた。
オスカーが朝から片づけていたのである。作業台に広げていた工具を戻し、空箱を積み替え、通路に出ていた小さな腰掛けも壁際へ寄せた。今日は北門機巧工房から仕事用の部材を受け取る。置く場所はもう決めてあったが、手前の通り道を空けておかなければ、荷を奥へ運べない。
最後に床へ落ちていた細い木片を拾うと、表から声がした。
「オスカー、いるか」
店先にヘンリク・バウアーが立っていた。北門機巧工房で働く、かつての同僚だ。戸口の外には低い運搬台車があり、紐で留めた木箱が一つ載っている。
「早いな」
「別の用もあってこっちへ来た。先に渡しておこうと思ってな」
「助かる。ちょうど床を空けたところだ」
ヘンリクが工房を覗き、目を丸くした。
「お前のところ、こんなに広かったか?」
「広さは変わってない」
「床が見えると違うもんだな」
「褒めてるのか、それ」
返事の代わりに笑われ、オスカーもつられて笑った。
二人で木箱を台車から下ろし、工房の入口の平らな床へ置いた。中には加工用の金属輪や短い軸が、仕切りごとに収まっていた。オスカーは内容札と数を確かめて蓋を閉じ、受け取りを済ませる。
「奥の棚の下へ入れる。そこまでなら、歩み帯を使おうか」
「歩み帯?」
「箱を一歩ずつ運ぶやつ。前に長い紙巻きでも使ったんだ」
「じゃあ見せてもらおう。手伝いに来たつもりが見物になったな」
オスカーが棚から取り出したのは、濃い茶色の幅広い帯だった。木箱の底へ回し、四隅の踏み片が床を捉えられるよう整える。青い方位鋲を棚の方へ向けると、通路にもう一度目を走らせた。床に障害はなく、箱が左右へ張り出す余地もある。
「遅いぞ」
「急ぎの荷じゃないさ」
「それならいい」
二人は動く範囲から下がった。オスカーが前進を指示すると、踏み片が順に働き、帯の縮み目が木箱を少しずつ送った。
こそり。
木箱が一歩、前へ進む。
ヘンリクは口元を緩めた。
「なるほど。歩くと言われると、ちゃんと歩いて見えるな」
「足があるわけじゃないがな」
「車輪もないのに、妙に真面目な足取りだ」
こそり、こそり。
木箱は通路を進んだ。荷を揺さぶらず、青い方位鋲の向く方へ、決まった幅ずつ移る。六歩目でぴたりと止まったので、ヘンリクが顔を上げた。
「棚はまだ先だぞ」
「一度の指令で動くのは六回までなんだ。ここで傾きと進路を確かめる」
「六歩ごとに、人の番が来るわけか」
オスカーは箱を見回し、帯の掛かりと床の先を確かめた。異常はない。次の前進を指示すると、箱はまた静かに歩き始めた。
ヘンリクは横から眺めていたが、やがて腕を組んだ。
「北門でも、試験に使う荷をあっちへこっちへ運ぶ日がある。道具を動かすために、まず道を空ける仕事が増えるんだ」
「分かる。今日も運ぶより片づけの方が長かった」
「だったら二人で持った方が早かったか?」
「そうかもしれない。でも、せっかく通れるようにしたしな」
二人は、どちらからともなく笑った。作業の速さを競っているわけではない。木箱は人の話など知らず、一定の歩幅で奥へ進む。
棚の手前まで来たところで、オスカーは残りの動作を使わず停止させた。帯を外してから、ヘンリクと一緒に箱を床近くの収納場所へ滑らせる。内容札が手前から読める向きになっていることを確認して、二人は立ち上がった。
「これで引き渡し完了だな」
「ああ。帰りに持たせるものはないぞ」
「空箱ぐらい出てくるかと思った」
「それは次の片づけのときだ」
オスカーは歩み帯を巻いて元の棚へしまった。仕事は済んだ。ヘンリクも台車を取りに行こうとしたが、空いた作業台へ目を留めて立ち止まる。
「それにしても、まだ何も広げてないんだな」
「部材を受け取るまで空けておいたんだ」
「受け取ったぞ。今から使うのか?」
オスカーは棚に収まった箱と、作業台を見比べた。今すぐ加工を始めなければならないものはない。窓の外では、風見鶏通りを荷車がゆっくり通り過ぎていく。
「いや。茶でも飲むか」
「ここで?」
「椅子もあるし、机も空いてる」
ヘンリクは面白そうに笑った。
「それだけ条件が揃ってたら、断れないな」
オスカーが椅子を二脚並べ、湯を沸かした。杯を置いても、工具を退ける必要がない。ヘンリクはそのことをわざわざ確かめるように、机の端へ片手を置いた。
「広いなあ」
「さっきも聞いた」
「いや、座ると余計に分かる」
窓辺へ白い影が降りた。ルクスは二人へ挨拶するでもなく、窓枠へとまり、通りへ顔を向ける。ヘンリクも特に構わず、杯から上がる湯気を眺めた。
「この前、北門へ一緒に来た子は元気か」
「フィンか。元気だよ。学校が終わっても体を動かしたがる」
「そうか。顔と名前を覚えたところだったからな」
それからは、北門での仕事の進み具合や、店先を通る荷車の話になった。かつて同じ工房にいた二人は、今も同じ机に向かって働いているわけではない。だからこそ、相手の話に「そうなのか」と言うこともあったし、同じような忙しさに顔を見合わせて笑うこともあった。
途中でヘンリクが、店先の風見鶏の絵を見つけた。
「あれは?」
「ミアが描いたんだ。本人が選んだ一枚を飾ってる」
「いいな。通りから見える」
「そこが気に入ってるらしい」
オスカーは少し嬉しそうに答えた。ヘンリクはそれ以上尋ねず、もう一口茶を飲んだ。
杯が空になるころ、ヘンリクは立ち上がった。
「そろそろ戻る。届ける用も済んだしな」
「ありがとう。北門にもよろしく」
「お前も、空いた机をちゃんと使えよ」
「今使っただろ」
「確かに」
ヘンリクは笑い、空の運搬台車を押して通りへ出た。オスカーは角を曲がるところまで見送ってから工房へ戻った。
杯を洗い、椅子を戻す。さっきまで二人が座っていた場所には、もう誰もいない。作業台だけは相変わらず広く空いていた。オスカーは工具箱に手を伸ばしかけ、やめた。次に作業を始めるとき、必要な部材だけを取り出せばいい。
夕方、学校から帰ったフィンが工房を覗いた。
「父さん、なんか届いた?」
「北門から部材がな。ヘンリクが持ってきてくれた」
「あの人?」
「ああ。この前会った人だ」
フィンは棚の下の木箱を見てから、空いた作業台を見た。
「それで、今日は何作ったの?」
「まだ何も。運んで、茶を飲んだ」
「え、茶?」
「ヘンリクと二人でな」
フィンは一瞬きょとんとしたが、すぐに笑った。
「じゃあ、机を空けたの、役に立ったな」
「そういうことになるな」
オスカーも笑って、息子と母屋へ向かった。工房の通路に荷物はなく、届いた箱は奥の棚の下に収まっている。窓枠に残ったルクスは、二人が去ったあとも、空いた作業台を見下ろしていた。
「珍しいな。今日は杯を置くのに、図面をどけずに済んだ」




