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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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87/87

第87話 木箱の中の夕暮れ

 星冠暦826年・霜降月6日・金耀日

 金耀日の午後、エルナは学校からの帰り道で、小さな紙包みを一つ買った。

 リーデン市市場の売台に並んでいた、灰色がかった細かな粒。宵種である。

 夏の終わりにも、家族でこの種を使ってパンを焼いた。あのときは厚い雲が太陽を隠し、夕方を待つはずの生地が予定より早く膨らんだ。出来上がったパンは美味しかったけれど、今日のエルナが欲しいのは、夕食に並べる大きなパンではない。

 学校から帰ったあと、自分で焼いた小さなパンを、まだ温かいうちに食べたかった。

 それだけのために買ってきたのである。

 風見鶏通り17番地へ戻ると、エルナは玄関脇の一枚背板へ鞄を預け、手を洗って台所へ向かった。

 リディアは保健院の勤務を終えて帰宅しており、夕食の支度を始める前に棚を整理していた。

「おかえりなさい。何か買ってきたの?」

 エルナが紙包みを見せると、リディアは少し驚いた顔をした。

「宵種?」

「うん。小さなパンを一つ焼こうと思って」

「お夕飯に?」

「ううん。私のおやつ」

 そう答えると、なぜか少し照れくさくなった。

「今日は、ただ焼きたてが食べたくなったの」

 リディアは柔らかく笑った。

「いいわね。台所は空いているわよ」

「ありがとう。窯を使うときは声をかけるね」

 エルナは袖をまくり、浅いこね鉢を取り出した。

 小麦粉へ水を加え、塩と少しの油を合わせる。指先で混ぜると、粉は最初、小さな塊になってぽろぽろと崩れた。そこへ少しずつ水分を行き渡らせ、掌で押しては畳んでいく。

 次第に生地がまとまってきた。

 指へくっついた部分を剥がし、また折り込む。机に向かって文字を書いているときとは違い、手の中のものは押すたびに形を変える。力を入れすぎると横へ広がり、丸めたつもりでも一方だけが少し尖った。

「なかなか丸くならないな……」

 エルナが呟くと、隣で聞いていたリディアが笑った。

「何度か折り込んでみたら?」

「うん」

 もう一度、端を内側へ寄せる。

 今度は掌に収まる小さな丸になった。

 エルナはしばらくその形を眺めてから、満足そうに息を吐いた。表面には指で押した跡が少し残っているが、それも気にならない。

 焼き板へ載せた生地をほんの少し湿らせ、紙包みを開く。灰色の宵種を薄く振ると、粒は湿った表面へ貼りつき、それきり動かなくなった。

 残った粒も使い切り、空になった紙を畳む。

 ここからは、明るい場所で十分に休ませる必要がある。

 エルナは高さのある目の粗い覆いを焼き板へ掛け、台所の窓辺へ置いた。午後の光がよく届き、直接触れるものもない場所だった。

 窓の外枠ではルクスが翼を休めていた。

 焼き板が近くへ来ると、片方の目だけを開けて生地を眺める。

「今日は鳥の形じゃないよ」

 エルナが小さく笑った。

 夏にミアが作ったルクスの形の生地は、宵種が働いたあと、翼も頭もすっかり丸くなってしまった。あのときの本人の不満そうな顔を思い出す。

 ルクスは返事をせず、再び羽の間へ嘴を入れた。

 エルナは窓辺を離れ、居間へ戻った。

 机には、読みかけの本がある。くすんだ緑色の栞が、頁の間から少しだけ覗いていた。端にはミアの描いた黄色い丸も見える。

 本を開こうとして、手が止まる。

 今日は読書をするつもりで帰ってきたわけではなかった。

 だからといって、パンが膨らむまでずっと見張っている必要もない。

 エルナは長椅子へ腰掛け、窓から差す光の中で少しだけ背を伸ばした。学校のある金耀日の午後は、何かをしているうちにすぐ過ぎてしまう。今日は、その時間を焼きたてのパンのために使うことにしたのだ。

 しばらくして台所へ戻ると、生地はまだほとんど変わっていなかった。

 それでよかった。

 宵種は、湿った生地の表面へ付いたあと、明るい場所で十分に休ませる必要がある。その後、暗さがしばらく続いたときに、一度だけ生地を膨らませる。

 夏の終わりには、雲が偶然その条件を満たした。

 けれど今日は、夕暮れも雲も待つつもりはなかった。

 エルナは棚から清潔な木箱を取り出した。焼き板を入れても周囲に余裕があり、生地が膨らんでも内側へ触れない大きさである。

 箱を置き、厚手の普通の布も用意した。

 魔法の箱ではない。

 ただ、中を暗くするための箱だった。

 窓辺で十分な時間が過ぎると、エルナは焼き板を静かに持ち上げた。生地を揺らさないよう木箱へ収め、上から布を掛ける。縁から光が入りにくいよう整えると、箱の中だけが暗くなった。

 窓の外には、まだ午後の日差しが残っている。

 その明るさと並んで、木箱の内側には小さな夕暮れができていた。

「何をしてるんだ?」

 工房から水を飲みに来たオスカーが、台所の木箱を見て足を止めた。

「パンを作ってるの」

「その箱で焼くのか?」

「違うよ。暗くしてるだけ」

 エルナは布の端を押さえながら笑った。

「宵種を使ったの。明るいところで休ませたから、今度は暗くしてる」

「ああ、なるほど」

 オスカーは木箱を覗こうとしたが、すぐに思い直したらしい。

「今は開けない方がいいな」

「うん。しばらくこのままにしたいから」

 父は頷き、水を飲んだ。

 それから二人で箱を眺める。

 木箱は動かない。音もしない。中の様子はまったく分からなかった。

「……もう膨らんでるかな」

 先に言ったのはオスカーだった。

 エルナは思わず笑った。

「お父さん、気になる?」

「そりゃあな」

「私も」

 二人は顔を見合わせた。

 普段なら、エルナは生地の変化を順に確かめたくなる。膨らみ始める瞬間や、その速さまで見られたら面白いだろう。

 けれど今日は、途中を見たいわけではなかった。

「開けるのは、あとにする」

 エルナが言うと、オスカーも笑って頷いた。

「分かった。じゃあ俺は仕事に戻るよ」

 少しして、オスカーはミアの迎えへ出かけた。

 エルナは居間へ戻ったものの、木箱のことが気になり、何度か台所の方へ目を向けた。中の暗さは変わっていないはずだし、箱が勝手に何かを知らせてくれるわけでもない。

 それでも、何も見えないところで生地が変わっているかもしれないと思うと、つい笑みが浮かんだ。

 やがて玄関の戸が開き、フィンが帰ってきた。

「ただいま!」

 背板へ鞄を預けたあと、手を洗って台所へ顔を出す。

「姉ちゃん、何か作ってる?」

「パンだよ」

「どこ?」

 エルナが木箱を指さすと、フィンは首を傾げた。

「なんで箱の中?」

「暗くするため」

「パンって、暗いとこで作るんだっけ?」

 宵種の話をすると、フィンは思い出したように頷いた。

「ああ、前に雲で膨らんだやつか」

「そう。それを今日は、自分で暗くしてるの」

「へえ」

 フィンは木箱を見つめた。

「もう大きくなったかな」

「それ、お父さんも言ってた」

「だって気になるだろ」

 エルナは笑った。自分も同じことを考えていたので、反論できない。

 しばらくして、オスカーとミアも帰ってきた。

 ミアは手を洗い終えると、台所の木箱を見つけた。

「これ、なあに?」

「お姉ちゃんのパンよ」

 リディアが答える。

「パンのおうち?」

「今だけね」

 エルナは笑った。

 ミアは木箱の前へしゃがみ、布の掛かった上面を見上げた。

「パン、ねてるの?」

「今は大きくなってるかもしれないよ」

「みたい!」

 そう言って手を伸ばしかけたが、エルナがまだ開けないと伝えると、すぐに引っ込めた。

「じゃあ、まつ!」

 ミアは素直に立ち上がり、居間へ戻っていった。

 家族の声が遠ざかると、台所はまた静かになった。

 エルナは木箱を一度眺め、窯の準備を始めた。焼くときはリディアに確かめてもらう約束である。使うものを揃え、焼き板を置く場所を空けておく。

 準備が済んでも、箱は開けなかった。

 今は、暗いままでいい。

 やがて十分な時間が過ぎたところで、エルナはリディアへ声をかけた。

「そろそろ、いいかな」

「そうね。見てみましょうか」

 母が隣へ来るのを待ち、布を外す。

 木箱の中へ、台所の明るさが差し込んだ。

「あっ」

 思わず声が漏れた。

 焼き板の上には、一回りふっくらした生地があった。

 平たかった上面は丸みを帯び、表面が柔らかく張っている。指で付けた浅い跡も、広がってほとんど見えなくなっていた。

 エルナは顔を近づけすぎないようにしながら、その形をじっと眺めた。

 箱の中で何が起きていたのか、途中を見ることはできなかった。

 けれど、今は確かに大きくなっている。

「ちゃんと膨らんだわね」

 リディアが言う。

「うん!」

 エルナは嬉しくなり、もう一度頷いた。

 窓の外は、まだ明るかった。

 夕方を待つより早く、生地だけが焼ける準備を終えたのである。

 それからはリディアに見守ってもらい、窯で焼き上げた。

 時間が経つにつれ、台所に香ばしい匂いが広がっていく。表面が少しずつ色づき、やがて小さな丸パンが焼き上がった。

 熱い焼き板を安全な場所へ置き、エルナは手で持てる温度になるまで待った。

 居間にいたフィンが顔を出す。

「いい匂い。もう食べられる?」

「あと少し」

「一個だけなんだな」

「うん。今日はこれが食べたかったから」

 エルナが笑うと、フィンも笑って居間へ戻った。

 ミアは何度か焼き上がったパンを見に来たが、まだ熱いと聞いて、触らずに眺めていた。

「おねえちゃんのパン、おっきくなったね」

「うん。ちゃんと一個のままね」

 ミアはその答えが可笑しかったらしく、声を立てて笑った。

 やがてパンが食べ頃になった。

 エルナは皿へ載せ、居間の窓辺へ運んだ。

 午後の光は少し傾いていたが、空はまだ十分に明るい。窓を通った光が、小さなパンの焼き色を温かく照らしていた。

 エルナは両手でそっと持ち、真ん中から割った。

 ふわりと湯気が上がる。

 中は柔らかく、外側には薄い焼き色が付いている。

 小さくちぎって、口へ運ぶ。

 香ばしい。

 続いて、生地の柔らかさとほのかな甘みが広がった。

「……おいしい」

 自然と声が漏れた。

 誰かへ説明するためでも、出来栄えを評価するためでもない。

 ただ、自分が食べたかったパンが、ちゃんと美味しかった。

 エルナはもう一口ちぎり、ゆっくり食べた。

 居間ではミアが紙を広げ、フィンが何か話しかけている。台所からはリディアの支度をする音が聞こえ、工房の方ではオスカーが道具を片づけているらしかった。

 いつもの金耀日の夕方である。

 その中で、エルナは自分の小さなパンを食べていた。

 今日は誰かのために数を揃える必要も、焼き上がりを記録する必要もない。朝から読みかけだった本も、あとで開けばいい。

 エルナは残りのパンを眺め、最後の一口をゆっくり味わった。

 窓辺にはルクスがいた。

 白い翼を畳んだまま、エルナの皿と外の明るい空を交互に見ている。家族の誰も呼んでいないのに、焼き上がるころからずっとそこにいたらしい。

 エルナが空になった皿を持ち上げると、ルクスは短く言った。

「明るいうちに食うために、わざわざ暗くしたのか。……手間のかかる一個だな」


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