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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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84/87

第84話 水音がもう一度

 星冠暦826年・霜降月3日・火耀日

 リディアが保健院の窓から外を見たとき、午前中から石畳を濡らしていた細い雨は、もう上がっていた。

 向かいの屋根にはまだ水が残り、軒先からときおり雫が落ちている。曇りがちな空の一角だけが明るく、そこから差す光が、濡れた石の表面を銀色にしていた。

 午前の健康相談を終え、記録を所定の場所へ収めたリディアは、外套を羽織った。今日は短時間勤務の日である。帰宅してから夕方までは、少し自分の時間が取れそうだった。

 家へ戻ったら、温かい茶を淹れよう。

 そう考えてから、窓の外をもう一度見た。雨が上がったばかりの街を歩くのも悪くない。急いで帰る用事はなかったので、リディアは外套の前を合わせ、いつもより少しゆっくりと保健院を出た。

 西工房区の通りには、雨の匂いが残っていた。

 石畳の目地に細い水の筋ができ、店先の木製看板からは雫が落ちている。荷を積んだ浮走荷車が一台、車輪と推進術式の低い音を響かせながら通り過ぎた。路面の濡れた部分を避けて歩く人もいれば、気にせず進む人もいる。

 リディアは店々の展示窓を眺めながら歩いた。

 トビアス・ヘルンの紙店が見えてきたころ、どこかから小さな水音が聞こえた。

 ぽたん。

 雨上がりには珍しくない音だった。軒に残った水が落ちたのだろう。

 ところが、二歩ほど進んだところで、もう一度音がした。

 ぴちん。

 先ほどとは少し違う、軽く弾けるような音である。

 リディアが振り返ると、通りの端に浅い石鉢があった。近くの屋根から落ちた水を受けているらしく、鉢の中には薄く水が溜まっている。誰が何のために置いたものなのか、そこからは分からなかった。

 ちょうど屋根の端に、新しい雫が膨らみ始めていた。

 リディアは鉢から少し離れて立ち止まった。

 雫が落ちる。

 ぽたん。

 水面に小さな輪が広がり、鉢の縁へ届いて薄くなる。

 リディアが次の雫を待っていると、屋根からは何も落ちていないのに、水面の中央がふっと盛り上がった。

 米粒ほどの水が、下から押されたように持ち上がる。

 ぴちん。

 小さな雫はすぐ鉢の中へ戻り、二つ目の波紋を作った。

「あら……」

 リディアは思わず声を漏らした。

 最初の水滴が落ちて、しばらくしてから別の水が跳ねた。普通に水滴が落ちた瞬間の飛沫とは、少し様子が違う。

 次の滴が落ちるのを待った。

 ぽたん。

 今度は輪が広がっただけだった。どれだけ待っても、水は跳ね上がらない。

「毎回ではないのね」

 そう呟いたところで、背後から声がした。

「何かありましたか?」

 振り返ると、紙店の戸口にトビアスが立っていた。腕には大判の紙を巻いた包みを抱えている。店先へ出ようとしたところで、立ち止まっているリディアに気づいたらしい。

「こんにちは、トビアスさん。ちょっと、この水が面白くて」

「水、ですか?」

 トビアスは包みを濡らさないよう店内の台へ戻してから、戸口を出てきた。リディアの視線を追い、石鉢を覗き込む。

「雨水が溜まっているだけに見えますが」

「ええ。私もそう思ったの。でも、一滴落ちたあと、別の雫が下から跳ねることがあるのよ」

「下から?」

 トビアスが首を傾げた。

 ちょうどそのとき、屋根から新しい滴が落ちた。

 ぽたん。

 二人とも黙って水面を見つめる。

 波紋が広がり、消えかける。

 ぴちん。

 小さな水の粒が、鉢の中央で跳ね上がった。

「おお」

 トビアスが目を丸くした。

「確かに。二度目は屋根から落ちていませんね」

「でしょう?」

 リディアは少し嬉しくなった。

 自分が見たものを、誰かも同じように見た。それだけなのに、奇妙な水音がさっきより面白くなった気がする。

 トビアスは鉢と屋根の端を交互に見た。

「どういうことでしょうね」

「分からないわ。水の下で何かが起きているのかもしれないし、別の理由かもしれない」

「魔力の影響でしょうか」

「それも、今は分からないわね」

 見たところ、鉢に動く仕掛けは見当たらない。だが、見えないから存在しないとも言えない。そもそも二人とも、鉢の中や石の下を調べたわけではなかった。

 ただ、目の前では確かに不思議なことが起きている。

 トビアスは鉢の横に立ち、屋根の端を見上げた。

「次が落ちますよ」

 二人の視線が、膨らんだ雫へ集まる。

 ぽたん。

 今度は何も起きなかった。

「……鳴りませんね」

「ええ」

 次の滴も、ただ水面へ落ちただけだった。

 トビアスは少し残念そうに笑った。

「待っていると、案外鳴らないものですね」

「そうね。さっきは、待ってもいなかったのに」

 リディアも笑った。

 また一滴。

 ぽたん。

 しばらく何も起きない。

 今度も駄目かと思ったところで、

 ぴちん。

 二人の声が重なった。

「あっ」

 それが可笑しくて、また笑ってしまった。

 次第に、トビアスは音の方へ耳を傾けるようになった。リディアは水面から目を離さず、雫が上がる瞬間を見ようとしている。

 同じ鉢の前に立っているのに、一人は音を待ち、一人は形を追っていた。

「今のは、見えました?」

 トビアスが尋ねる。

「ええ。でも、音を聞く前に消えてしまったわ」

「私は音だけでした。今度こそ見ようと思っていたのに」

 そう言って二人で鉢を覗き込んだ直後、屋根から大きな滴が落ちた。

 ぽちゃん。

 ほかの滴より深い音がした。水面にはいくつもの輪が重なり、鉢の縁へ細かな飛沫が当たる。

 さらに次の滴が続く。

 ぽたん、ぽたん。

 どの音が先ほどの水から生まれ、どれが新しく落ちた滴なのか、もう分からない。二人は思わず顔を見合わせた。

「これは、数えられませんね」

「私も、すっかり分からなくなったわ」

 リディアが笑うと、トビアスも肩を揺らした。

 水滴の数を確かめるつもりも、規則を見つけるつもりもなかったのに、気づけば二人とも、次はどうなるだろうと待っている。

 やがてトビアスが、紙店の戸口へ目を向けた。

「そろそろ戻らないと。紙を出したところでした」

「まあ、私も。帰ってお茶を飲むつもりだったのに、すっかり立ち止まってしまったわ」

「オスカーさんなら、これを調べたがるでしょうね」

 その言葉に、リディアは夫の顔を思い浮かべた。

 水面を覗き込み、鉢の底を気にし、屋根の端まで確かめたくなるに違いない。何も分からなくても、きっと楽しそうに考え始めるだろう。

「ええ。まず、どこから調べようかって言いそうね」

「言いそうです」

 二人は笑い合った。

 リディアはもう一度だけ石鉢を見た。

 屋根にはまだ雫が残っている。次の一滴が落ちれば、あの小さな水音が聞こえるかもしれない。

 けれど、今はもう帰りたかった。

「それじゃ、トビアスさん」

「ええ。また」

 トビアスは店内へ戻り、リディアも通りを歩き始めた。

 数歩進んだところで、背後から水音がした。

 ぽたん。

 リディアは振り返らなかった。

 少しして、もう一つ、小さな音が聞こえたような気がした。

 ぴちん。

 思わず口元が緩んだ。

 風見鶏通り17番地へ戻るころには、空の雲もだいぶ薄くなっていた。

 店先ではオスカーが棚の品物を整えている。通りから見える場所には、ミアの風見鶏の絵と古い記像板が並んでいた。

「おかえり。雨は大丈夫だったか?」

「ええ。途中で止んでいたわ」

 リディアは外套を脱ぎながら、少し考えた。

「ねえ、オスカー。今日、面白い水を見たの」

「水?」

「一滴落ちて、少ししてから、もう一度だけ音がするの」

 オスカーは棚へ戻しかけた小箱を持ったまま、妻を見た。

「二度目は何が落ちたんだ?」

「それがね、落ちたんじゃなくて、下から跳ねたのよ」

「下から?」

 リディアが頷く。

「毎回じゃないの。何も起きないときもあったし、続けて鳴って、どれがどれだか分からなくなったときもあったわ」

 オスカーはしばらく考えていたが、やがて小箱を棚へ戻した。

「それは面白そうだな」

「でしょう? トビアスさんと二人で見ていたの」

「何か分かったのか?」

「いいえ。二人とも、さっぱり」

 リディアが笑うと、オスカーもつられて笑った。

 どこにあるのかを尋ねられたので、紙店の少し手前だと伝えた。オスカーは興味深そうに頷いたが、そこから工房へ駆け込むことも、調べるための道具を探し始めることもしなかった。

 代わりに、妻の顔を見て言った。

「それで、楽しかったか?」

「ええ、とっても」

 リディアは迷わず答えた。

 その返事にオスカーが笑ったので、彼女もまた笑った。

 夕方には子どもたちが帰ってきた。

 フィンは玄関で靴を脱ぎながら今日の学校の話を始め、エルナは鞄を背板へ預けてから居間へ向かった。ミアもオスカーと一緒に帰宅し、手を洗うと、いつものように母のいる方へやって来る。

 家の中に、いくつもの声が増えていった。

 リディアは温かい茶を淹れ、居間の窓辺へ腰を下ろした。昼間見た鉢の水面を思い出す。あの小さな雫は、今も跳ねているのだろうか。それとも、もう静かな水に戻っているのだろうか。

 どちらなのかは分からない。

 けれど、トビアスと並んで笑ったときのことは、よく覚えていた。

 窓辺にいたルクスが、茶碗を置こうとするリディアを見て、わずかに身体をずらした。そこに空いた場所へ、彼女はそっと茶碗を置く。

 外では、雨上がりの通りを荷運車が通り過ぎていった。

 水音は、もう聞こえない。

 それでもリディアは、もう一度あの音を聞けたような気がして、静かに微笑んだ。

 ルクスは彼女を一瞥し、何事もなかったように羽を畳んだ。

「……今は茶を飲め。水音なら、昼に十分聞いてきたんだろう」


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