第84話 水音がもう一度
星冠暦826年・霜降月3日・火耀日
リディアが保健院の窓から外を見たとき、午前中から石畳を濡らしていた細い雨は、もう上がっていた。
向かいの屋根にはまだ水が残り、軒先からときおり雫が落ちている。曇りがちな空の一角だけが明るく、そこから差す光が、濡れた石の表面を銀色にしていた。
午前の健康相談を終え、記録を所定の場所へ収めたリディアは、外套を羽織った。今日は短時間勤務の日である。帰宅してから夕方までは、少し自分の時間が取れそうだった。
家へ戻ったら、温かい茶を淹れよう。
そう考えてから、窓の外をもう一度見た。雨が上がったばかりの街を歩くのも悪くない。急いで帰る用事はなかったので、リディアは外套の前を合わせ、いつもより少しゆっくりと保健院を出た。
西工房区の通りには、雨の匂いが残っていた。
石畳の目地に細い水の筋ができ、店先の木製看板からは雫が落ちている。荷を積んだ浮走荷車が一台、車輪と推進術式の低い音を響かせながら通り過ぎた。路面の濡れた部分を避けて歩く人もいれば、気にせず進む人もいる。
リディアは店々の展示窓を眺めながら歩いた。
トビアス・ヘルンの紙店が見えてきたころ、どこかから小さな水音が聞こえた。
ぽたん。
雨上がりには珍しくない音だった。軒に残った水が落ちたのだろう。
ところが、二歩ほど進んだところで、もう一度音がした。
ぴちん。
先ほどとは少し違う、軽く弾けるような音である。
リディアが振り返ると、通りの端に浅い石鉢があった。近くの屋根から落ちた水を受けているらしく、鉢の中には薄く水が溜まっている。誰が何のために置いたものなのか、そこからは分からなかった。
ちょうど屋根の端に、新しい雫が膨らみ始めていた。
リディアは鉢から少し離れて立ち止まった。
雫が落ちる。
ぽたん。
水面に小さな輪が広がり、鉢の縁へ届いて薄くなる。
リディアが次の雫を待っていると、屋根からは何も落ちていないのに、水面の中央がふっと盛り上がった。
米粒ほどの水が、下から押されたように持ち上がる。
ぴちん。
小さな雫はすぐ鉢の中へ戻り、二つ目の波紋を作った。
「あら……」
リディアは思わず声を漏らした。
最初の水滴が落ちて、しばらくしてから別の水が跳ねた。普通に水滴が落ちた瞬間の飛沫とは、少し様子が違う。
次の滴が落ちるのを待った。
ぽたん。
今度は輪が広がっただけだった。どれだけ待っても、水は跳ね上がらない。
「毎回ではないのね」
そう呟いたところで、背後から声がした。
「何かありましたか?」
振り返ると、紙店の戸口にトビアスが立っていた。腕には大判の紙を巻いた包みを抱えている。店先へ出ようとしたところで、立ち止まっているリディアに気づいたらしい。
「こんにちは、トビアスさん。ちょっと、この水が面白くて」
「水、ですか?」
トビアスは包みを濡らさないよう店内の台へ戻してから、戸口を出てきた。リディアの視線を追い、石鉢を覗き込む。
「雨水が溜まっているだけに見えますが」
「ええ。私もそう思ったの。でも、一滴落ちたあと、別の雫が下から跳ねることがあるのよ」
「下から?」
トビアスが首を傾げた。
ちょうどそのとき、屋根から新しい滴が落ちた。
ぽたん。
二人とも黙って水面を見つめる。
波紋が広がり、消えかける。
ぴちん。
小さな水の粒が、鉢の中央で跳ね上がった。
「おお」
トビアスが目を丸くした。
「確かに。二度目は屋根から落ちていませんね」
「でしょう?」
リディアは少し嬉しくなった。
自分が見たものを、誰かも同じように見た。それだけなのに、奇妙な水音がさっきより面白くなった気がする。
トビアスは鉢と屋根の端を交互に見た。
「どういうことでしょうね」
「分からないわ。水の下で何かが起きているのかもしれないし、別の理由かもしれない」
「魔力の影響でしょうか」
「それも、今は分からないわね」
見たところ、鉢に動く仕掛けは見当たらない。だが、見えないから存在しないとも言えない。そもそも二人とも、鉢の中や石の下を調べたわけではなかった。
ただ、目の前では確かに不思議なことが起きている。
トビアスは鉢の横に立ち、屋根の端を見上げた。
「次が落ちますよ」
二人の視線が、膨らんだ雫へ集まる。
ぽたん。
今度は何も起きなかった。
「……鳴りませんね」
「ええ」
次の滴も、ただ水面へ落ちただけだった。
トビアスは少し残念そうに笑った。
「待っていると、案外鳴らないものですね」
「そうね。さっきは、待ってもいなかったのに」
リディアも笑った。
また一滴。
ぽたん。
しばらく何も起きない。
今度も駄目かと思ったところで、
ぴちん。
二人の声が重なった。
「あっ」
それが可笑しくて、また笑ってしまった。
次第に、トビアスは音の方へ耳を傾けるようになった。リディアは水面から目を離さず、雫が上がる瞬間を見ようとしている。
同じ鉢の前に立っているのに、一人は音を待ち、一人は形を追っていた。
「今のは、見えました?」
トビアスが尋ねる。
「ええ。でも、音を聞く前に消えてしまったわ」
「私は音だけでした。今度こそ見ようと思っていたのに」
そう言って二人で鉢を覗き込んだ直後、屋根から大きな滴が落ちた。
ぽちゃん。
ほかの滴より深い音がした。水面にはいくつもの輪が重なり、鉢の縁へ細かな飛沫が当たる。
さらに次の滴が続く。
ぽたん、ぽたん。
どの音が先ほどの水から生まれ、どれが新しく落ちた滴なのか、もう分からない。二人は思わず顔を見合わせた。
「これは、数えられませんね」
「私も、すっかり分からなくなったわ」
リディアが笑うと、トビアスも肩を揺らした。
水滴の数を確かめるつもりも、規則を見つけるつもりもなかったのに、気づけば二人とも、次はどうなるだろうと待っている。
やがてトビアスが、紙店の戸口へ目を向けた。
「そろそろ戻らないと。紙を出したところでした」
「まあ、私も。帰ってお茶を飲むつもりだったのに、すっかり立ち止まってしまったわ」
「オスカーさんなら、これを調べたがるでしょうね」
その言葉に、リディアは夫の顔を思い浮かべた。
水面を覗き込み、鉢の底を気にし、屋根の端まで確かめたくなるに違いない。何も分からなくても、きっと楽しそうに考え始めるだろう。
「ええ。まず、どこから調べようかって言いそうね」
「言いそうです」
二人は笑い合った。
リディアはもう一度だけ石鉢を見た。
屋根にはまだ雫が残っている。次の一滴が落ちれば、あの小さな水音が聞こえるかもしれない。
けれど、今はもう帰りたかった。
「それじゃ、トビアスさん」
「ええ。また」
トビアスは店内へ戻り、リディアも通りを歩き始めた。
数歩進んだところで、背後から水音がした。
ぽたん。
リディアは振り返らなかった。
少しして、もう一つ、小さな音が聞こえたような気がした。
ぴちん。
思わず口元が緩んだ。
風見鶏通り17番地へ戻るころには、空の雲もだいぶ薄くなっていた。
店先ではオスカーが棚の品物を整えている。通りから見える場所には、ミアの風見鶏の絵と古い記像板が並んでいた。
「おかえり。雨は大丈夫だったか?」
「ええ。途中で止んでいたわ」
リディアは外套を脱ぎながら、少し考えた。
「ねえ、オスカー。今日、面白い水を見たの」
「水?」
「一滴落ちて、少ししてから、もう一度だけ音がするの」
オスカーは棚へ戻しかけた小箱を持ったまま、妻を見た。
「二度目は何が落ちたんだ?」
「それがね、落ちたんじゃなくて、下から跳ねたのよ」
「下から?」
リディアが頷く。
「毎回じゃないの。何も起きないときもあったし、続けて鳴って、どれがどれだか分からなくなったときもあったわ」
オスカーはしばらく考えていたが、やがて小箱を棚へ戻した。
「それは面白そうだな」
「でしょう? トビアスさんと二人で見ていたの」
「何か分かったのか?」
「いいえ。二人とも、さっぱり」
リディアが笑うと、オスカーもつられて笑った。
どこにあるのかを尋ねられたので、紙店の少し手前だと伝えた。オスカーは興味深そうに頷いたが、そこから工房へ駆け込むことも、調べるための道具を探し始めることもしなかった。
代わりに、妻の顔を見て言った。
「それで、楽しかったか?」
「ええ、とっても」
リディアは迷わず答えた。
その返事にオスカーが笑ったので、彼女もまた笑った。
夕方には子どもたちが帰ってきた。
フィンは玄関で靴を脱ぎながら今日の学校の話を始め、エルナは鞄を背板へ預けてから居間へ向かった。ミアもオスカーと一緒に帰宅し、手を洗うと、いつものように母のいる方へやって来る。
家の中に、いくつもの声が増えていった。
リディアは温かい茶を淹れ、居間の窓辺へ腰を下ろした。昼間見た鉢の水面を思い出す。あの小さな雫は、今も跳ねているのだろうか。それとも、もう静かな水に戻っているのだろうか。
どちらなのかは分からない。
けれど、トビアスと並んで笑ったときのことは、よく覚えていた。
窓辺にいたルクスが、茶碗を置こうとするリディアを見て、わずかに身体をずらした。そこに空いた場所へ、彼女はそっと茶碗を置く。
外では、雨上がりの通りを荷運車が通り過ぎていった。
水音は、もう聞こえない。
それでもリディアは、もう一度あの音を聞けたような気がして、静かに微笑んだ。
ルクスは彼女を一瞥し、何事もなかったように羽を畳んだ。
「……今は茶を飲め。水音なら、昼に十分聞いてきたんだろう」




