第83話 ぐにゃりと曲がる午後
星冠暦826年・霜降月2日・月耀日
月耀日の朝、玄関脇の一枚背板には、三つの鞄が並んでいた。
ミアが自分の鞄を外すと、残る二つは何事もなかったように壁際へ預けられたままだ。背板の保持魔法は三系統に分かれているので、隣が空いても引っぱられたりしない。
「ミア、上着の留め具が一つ開いてる」
フィンに言われ、ミアは胸元を見下ろした。慌てて留め具を閉じる間に、エルナは自分の鞄を取って靴を履いている。昨日は休みだったのに、今朝は家の中の足音がいっぺんに増えたようだった。
「今日は何するんだ?」
登園に付き添うオスカーが尋ねると、ミアは鞄の肩紐を握り直した。
「わかんない。だから、たのしみ!」
オスカーは笑って、先に戸口を開けた。
花鈴幼年学舎では、午前の活動が終わるころ、クララ・ヴェントが浅い木箱と小さな板を工作台へ運んできた。木箱には柔らかな造形粘土が入っている。板には白い丸印が三つ並び、隅に小型蓄魔石と停止片が付いていた。
「今日は、しばらくの間だけ形を支えてくれる板を使います」
クララは粘土を細長く伸ばし、三つの印を横切るように置いた。子どもたちの手が離れたのを確かめて起動すると、印の真上に淡い光の受け座が現れる。粘土は三か所だけ低く持ち上げられ、間の部分が自分の重みで垂れた。
一本だった粘土に、小さな山が三つできた。
「へびみたい!」
「おやま!」
言い方がばらばらなのを聞いて、クララが笑う。
「板は粘土が何に見えるかは知りません。三つの印の上で、触れている部分を決まった高さに支えるだけ。印のないところは、自分の重みで曲がるのよ。支えは短い時間で消えるし、途中で止めることもできます」
クララが停止片を押す。受け座の光はゆっくり薄れ、山は低くなって、最後には机の上へ横たわった。子どもたちはその様子を見て、一斉に声を上げた。
「ねちゃった!」
ミアの言葉に、また笑いが起きた。
板が支える高さは低く、粘土が落ちても浅い工作台の中に収まる。形を変えるときにはいったん止め、再び起動するときは全員の指が板から離れたことを確かめる。クララはそれを見せたあと、子どもたちを順番に呼んだ。
ミアが組になった子は、大きな山を作りたがった。
「いちばん高いの!」
「ミアは、ながいさか!」
言い合いになりそうで、ならなかった。二人とも相手が何を作りたいのか気になり、まず粘土を工作台いっぱいに伸ばしてみた。けれど長くすればするほど、端が三つの丸印から遠ざかってしまう。
「ここ、ささえてくれないね」
相手の子が端を指さす。ミアは丸印を数え直し、長い粘土を少しだけ戻した。
「じゃあ、くねくねにする!」
二人は粘土を太くしたり細くしたりしながら、三か所に載る部分を決めた。高い山を作るには板の高さだけでは足りないけれど、端を少し寄せれば、間の曲がり方は変えられる。クララが手元を確かめ、二人が指を引いたところで板を起動した。
淡い光が、粘土の腹を三か所で支えた。
中央のくぼみが深く見える。左右はゆるやかに下り、その先で細い端が曲がっていた。相手の子が三つの高まりを順番に指さし、ミアはその間を縫う曲線を目でたどった。
「山が三つ!」
「つながってるから、おみちでもあるよ!」
作りたいものは違ったのに、今は一つの粘土の中に両方ある。二人は同じ板を覗き込み、顔を見合わせて笑った。
ミアは途中で、真ん中に丸い穴も欲しくなった。
「トンネルつくりたい」
「じゃあ、もう一回!」
クララが板を止め、光が消えてから二人は粘土を持ち上げた。中央の部分だけを丸く曲げ、両端を寄せて置き直す。穴は小さく、少し横長だった。それでも手を離す前には、向こう側の木目がちゃんと見えた。
再び受け座が浮き上がる。輪になった部分の下側が三つの印のうち一つに支えられ、穴は少し歪んだまま残った。
「あっ。できた!」
「お山のトンネルだ!」
ミアは頷いた。自分の坂も、相手の山も、どこへ行ったわけではない。二人で置いた粘土の中に、ちゃんと残っている。
クララが「そろそろ支えが終わるわよ」と声をかけた。二人は手を引き、机の縁へ顔を近づけすぎない位置で待つ。
光が薄れていくと、まず輪の上がゆっくり下がった。横長の穴が細い隙間になり、ついには閉じる。続いて左の山がつぶれ、右も机へ伏せた。最後に、曲げてあった細い端だけが、隣の部分に押されて一瞬つんと上を向き、ぱたりと倒れた。
ミアは目を丸くした。
「ぴょん、ぐにゃ!」
相手の子が吹き出した。
「山、全部ねちゃった!」
「でも、さいご、ぴょんってした!」
二人は止まった粘土を前に、しばらく笑っていた。もう山にもトンネルにも見えないのに、何がどの順番で潰れたかは二人とも覚えている。ミアが「こっちから!」と端を指すと、相手の子は「先に真ん中だよ」と言い、また二人で笑った。
次の組が使う番になると、クララは粘土を丸め直してよいか尋ねた。ミアは少し考え、隣の子を見る。
「いいよ。また、べつのになれるもん」
粘土は木箱へ戻った。三つの丸印も、今はただの白い丸に見える。ミアと隣の子は席へ戻る途中まで、小声で「ぴょん、ぐにゃ」と言い合っていた。
午後、迎えに来たオスカーは、娘がいつもより早口で話し始めたので、門を出たところで歩調を緩めた。
「お山がね、三つあって、トンネルもあって、さいごに、ぴょんぐにゃって!」
「ずいぶん忙しい山だな」
「ちがうの。お山が、ねちゃったの」
ミアは手で形を描きかけ、両手では足りないことに気づくと、今度は道の端へ並んだ三つの小石を指さした。
「三つ、ここにあるみたいに。ここだけ、まほうがささえたの」
オスカーは足を止め、石の位置を見た。娘が説明している間、先を急がず、そのまま聞いている。
「で、支えがなくなったら?」
「ぐにゃ!」
ミアが笑い、父も笑った。小石は動かない。粘土の山もここにはない。それでもオスカーには、娘が見たものが少しだけ分かった気がした。
夕方、リディアが居間へ戻ると、ミアは小さな紙に三つの曲がった線を描いていた。絵を見たフィンは「山ならもっと尖ってるだろ」と言い、エルナは「柔らかい粘土ならこうなるのかも」と首を傾げた。
「トンネルはどこ?」
リディアが尋ねる。ミアは真ん中の線を指さし、それから紙の余白へ小さな丸を一つ描いた。
「ここ。でも、さいごはなくなっちゃった」
その丸が、上から少し押されたような形になった。ミアは気にせず、横へもう一つ、ぐにゃりと曲がった線を足す。紙の上なら形はそのまま残るのに、さっきの粘土みたいに見せようとすると、どうしても少し違ってしまう。
ミアは描いたものを家族に見せてから、紙を机の隅へ置いた。丸めてしまうことも、きれいに描き直すこともしなかった。
窓辺ではルクスが、その小さな絵と、まだ喋り足りないミアとを交互に見ていた。ミアがまた「ぴょん、ぐにゃ!」と声を弾ませると、白い翼の先がほんの少し動いた。
「その柔らかいのより、ミアの話の方がよく伸びるな」




