第81話 指先に残る一回転
星冠暦826年・紅葉月31日・土耀日
土耀日の朝、フィンは庭へ出るなり、石畳を軽く蹴ってみた。
木耀日に降った雨はもう上がり、乾き始めた地面に薄い日差しが落ちている。昨日まで学院へ通っていた足は、休みの日になるとじっとしていられない。フィンが門の方を見ていると、居間の窓からミアが顔を出した。
「おにいちゃん、どこいくの?」
「まだ決めてない。でも、どこかへ歩きに行きたいんだ」
「ミアもいく!」
行き先がないのにもう靴を探し始めた妹を見て、フィンは笑った。工房から出てきたオスカーに相談すると、昼食のあとなら一緒に出られるという。
「広場の方へでも行くか。何か買う予定はないけどな」
「歩くだけでもいいよ」
「ミア、いっぱいあるく!」
ミアは張り切って足踏みしたが、昼食まではまだ時間がある。フィンが「今からじゃないぞ」と言うと、今度は両足をぴたりと止めた。
午後、西工房区の通りへ出ると、広場へ向かう石畳はよく乾いていた。小さな荷運車がゆっくり横切り、買い物籠を提げた人たちが互いに道を譲る。ミアは父と手をつなぎ、フィンの少し前を歩いたり、思い出したように兄の隣へ戻ったりした。
広場の端から、こつ、こつ、と乾いた木の音が聞こえた。
低い卓を一つ出した売り手が、木の独楽を並べている。赤い線を巻いたもの、青い点を三つ描いたもの、木目をそのまま残したもの。卓の中央には丸い囲いのある小さな台が置かれ、底の平らな輪の内側で一個の独楽が回っていた。
「こま!」
ミアが近づこうとすると、オスカーはつないだ手を軽く引いた。卓に手が届かないところで足を止め、三人で売り手へ挨拶する。
「見ていってください。こっちは回るのを少し手伝う仕掛けなんです」
売り手が示した独楽には、胴を取り巻く細い金属輪がある。台の縁には導魔路と小さな蓄魔石、それに起動片と停止片が収まっていた。
売り手はいったん動作を止め、独楽が静止してから軸をつまんだ。囲いの中央へ置き、台の印が示す方向へ指で回してから起動片を押す。台の決まった範囲にある金属輪へ、あらかじめ定められた向きの弱い力が加わった。台がしているのは、その力を短い間だけ与えること。独楽の色も、誰が楽しんでいるかも知らない。時間が来るか停止片を押せば補助は切れ、そのあと独楽自身の回転もやがて弱まる。
赤い線が回り、やがて一本の赤い輪に見えた。
「わあ、まるになった!」
「最初から一本の線なのに、見え方が変わるんだな」
フィンは囲いから身を離したまま、目の高さを変えてみた。横からは赤い帯のようで、少し上から見ると木目がちらりと現れる。ミアは反対側へ回り込み、同じ独楽を覗いていた。
「おにいちゃん、まるはどこいったの?」
「どこにも行ってない。……あ、でも、今は丸く見えるんだよな」
フィンが言い直すと、オスカーは笑った。目の前の独楽は何も変なことをしていない。それでも、見る場所を変えるたびに別の形が現れる。
やがて補助の時間が終わり、赤い輪がほどけるように見え始めた。独楽はまだ少し回っていたが、軸の先が小さな円を描き、最後は木の台へこつんと倒れた。
「まだ動いてたのに、急に寝たな」
「最後だけ、ぐらぐらしてた!」
フィンが次の独楽に目を向けたとき、親に手を引かれた小さな子が卓の脇へ来た。売り手はその子にも見えるよう、普通の独楽を一個取った。フィンは半歩下がり、ミアも兄の隣へ寄る。
今度は青い点が三つある独楽だった。金属輪はついていない。売り手が台の補助を使わずに回すと、三つの点は細い青い輪へ変わった。けれどほどなく軸が傾き、輪は途切れて三つの点に戻っていく。倒れたときには、また元の模様だった。
「さっきのより短い」
「でも、最後の三つが見えたね」
フィンの言葉に売り手が頷いた。小さな子は止まった独楽をしばらく眺めてから親と歩き出した。フィンは、その子が角を曲がるまでではなく、空いた台の方を見た。
「俺も、手で回す方をやってみたい」
売り手が普通の独楽を差し出してくれた。フィンは指先で軸を挟み、囲いの中央に置く。強く回そうと手首をひねったところ、独楽は勢いよく端へ寄り、こつんと囲いに触れた。跳ね返ったあとでぐらりと傾き、思ったより早く倒れてしまう。
「速く回したつもりだったのに」
「速く動いたのは、横の方だったな」
オスカーが笑う。フィンもつられて笑い、もう一度やりたくなったが、まず独楽を売り手へ戻した。さっきと同じように回せるかどうかは、まだ分からない。
「ミアも、じぶんで!」
今度は妹の番になった。オスカーは台へ触れないところで、軸をつまむ指の動きをゆっくり見せる。ミアはその指を見てから、自分の小さな手を同じ形にした。
ころん。
独楽は半回転ほどで横になった。
三人が一瞬黙ると、ミアが真っ先に笑い出した。
「ねむかった!」
「ずいぶん早いお昼寝だったな」
オスカーまで笑い、フィンも肩を揺らした。ミアは少しもがっかりした様子を見せず、寝てしまった独楽を嬉しそうに眺めている。
「もういっかい、いい?」
売り手が頷いた。二度目は軸を慌てて離さず、ミアは指先をほんの少し長くひねった。青い点が短い輪になり、すぐに揺れ始める。それでも一度目より長く回り、最後はゆっくり横へ倒れた。
「まわった!」
「うん、ちゃんと見えた!」
フィンが答えると、ミアはにっこりした。長く回る独楽もきれいだったが、今の小さな一回転は、妹が自分の指で始めたものだった。
三人は売り手へ礼を言って卓を離れた。独楽は買わなかった。広場の向こうでは人がそれぞれの用事へ歩いていき、どこからか荷車の低い車輪音が聞こえてくる。
フィンは歩きながら、右手の親指と人差し指をそっとひねった。さっきつまんだ木の軸の細さが、まだ指先にある気がした。
「おにいちゃん、まだこましてる!」
「手だけだよ」
「ミアも!」
ミアも指をひねり、今度は自分の手を覗き込んで笑った。オスカーが二人を見比べ、同じことをしかけてやめる。何も持っていない三つの手だけが、広場からの帰り道で少し忙しい。
通り沿いの店の庇に、白い姿がとまっていた。さっき独楽を眺めていたときも、卓の向こうの屋根先に白い影があったような気がする。フィンが見上げると、ルクスがこちらを向いていた。
「ルクス、見てたの?」
答えはない。ミアがその場で指をくるりと回して見せると、ルクスはわずかに目を細めた。フィンもつい同じ動きをする。庇の上で白い翼が一度だけ開き、すぐに畳まれた。
ルクスは二人の指先を見下ろしたまま、短く言った。
「独楽はもう止まったんだろ。……お前の指の終わりまで、いちいち見届けさせるな、フィン」




