第80話 あとから灯る石畳
星冠暦826年・紅葉月30日・金耀日
朝、フィンは作業台から離して吊るしてあった上着を取り、袖口の内側へ指を差し入れた。
昨日は縫い目のあたりがひんやりしていたが、今朝は湿り気を感じない。肩も軽かった。袖を通し、両腕を動かしてみると、台所から出てきたミアがすかさず真似をした。
「おにいちゃんのおようふく、ばんざい!」
「もう普通の格好だって」
玄関脇の背板から鞄を取ったフィンは笑い、先に靴を履いていたエルナの後を追った。ミアも家族と一緒に登園する。三人の声が通りの方へ遠ざかると、家にはいつもの金耀日の時間が戻った。
昼過ぎ、保健院の仕事から帰るリディアは、西工房区の広場へ続く通りで足を緩めた。
前日の雨を残した石畳には、まだ濃い色の場所がある。荷を積んだ車が一台通り、軒先の店主が入口へ出していた品物を少し内側へ寄せていた。そんな見慣れた景色の中に、リディアの目を引くものがあった。
通りの片側、数歩おきに埋め込まれた小さな金属の印。その広場側の隣の石には、細長い曇り硝子がはめられている。印も硝子も、同じ組み合わせで短い区間だけ続いていた。
買い物客が印のある石を踏むと、隣の硝子が一瞬、淡く光った。昼の明るさでは見落としそうなほどだったが、リディアはその光を見つけて立ち止まった。
夕暮れなら、きっともっとよく見えるだろう。
今日はそこへ買いに行くものも、届けるものもない。それでも、もう一度歩きたいと思った。できれば一人ではなく、オスカーと。
帰宅すると、オスカーは工房で仕事台を片づけていた。
「ねえ、オスカー。夕食の前に少しだけ歩かない?」
「どこかへ届け物か?」
「ううん。何も買わないし、何も届けないお散歩」
オスカーは手にしていた布を畳み、妻の顔を見た。
「それはまた、珍しい注文だな」
「注文じゃないわ。お誘いよ」
「なら、喜んで」
返事が早かったので、リディアは少し笑った。
夕方、学院から帰ったエルナとフィンが居間へ落ち着くころ、オスカーもミアを幼年学舎から迎えて戻った。工房でその日の作業を終えると、アルノが離れから母屋へやって来た。子どもたちは祖父と居間で過ごすことになり、リディアは玄関で外套を羽織った。
「ママ、どこいくの?」
「広場の手前まで、二人でお散歩よ」
「おみやげは?」
「今日はないわね」
ミアは一瞬考えてから、ぱっと顔を上げた。
「じゃあ、おはなし!」
「ええ。帰ったら聞かせるわ」
何を話せるかも決まっていないうちから、帰宅後の約束ができた。
外へ出ると、夕方の風は昼より冷たくなっていた。石造りの壁には斜めの光が残り、通りを行く人の影が長く伸びている。二人は店先の風見鶏の絵を横目に、広場へ向かう道へ入った。
「ここなの」
リディアが示した先に、昼と同じ金属印と曇り硝子が並んでいた。近くの街灯はすでに柔らかく光っていて、そこを歩くのに不自由はない。だが石の縁の小さな灯りは、まだどれも暗かった。
オスカーが印へ視線を落としたところで、リディアの靴が最初の石に載った。
その石より広場側にある硝子が、ぽっと金色になった。
「あら、やっぱり」
足を離れると、光は三つ数えるほどで薄れていった。オスカーは灯りが消えるのを見届けてから同じ印を踏む。すると同じ硝子が、同じように短く光った。
「踏んだときの荷重で起動するんだな」
「私でもあなたでも、同じ場所が光ったわ」
「印にかかる重さが一定以上になったときだけ、広場側の隣へ光を送る仕組みらしい」
道端には、小さな蓄魔石を収めた覆い付きの箱があった。オスカーはそこへ一瞥をくれたが、蓋へ手を伸ばしたりはしない。歩く向きや人の気持ちを知っているのではなく、石の印と灯りの位置が初めから決まっているのだろう。ここではそれが分かれば十分だった。
「行きましょうか」
「ああ」
リディアが次の印へ進む。広場側の硝子が淡く灯り、足を離れるころには消え始める。オスカーも続いた。二人の歩みに合わせ、金色が一つずつ先へ生まれた。
オスカーはその現れ方が面白く、いつしか二歩ほど先へ出ていた。前の光が消えるのを待たず、次の石を踏む。さらにもう一つ。その向こうに、同じ印が見えた。
「オスカー」
呼ばれて振り向くと、リディアは店の展示窓の前に立っていた。曇り硝子とは別の硝子に、夕暮れの空と向かいの屋根が重なって映っている。
「どうした?」
「こっちの窓も、きれいなの」
彼女は店内の商品ではなく、硝子に映った薄い雲を見ていた。オスカーが戻ると、ちょうど雲の端に残った赤みが消えかけた。
「俺は次の灯りばかり見てたな」
「それも面白そう。でも、私はこっちも見たいの」
「じゃあ、しばらくここにいようか」
リディアが頷いた。立ち止まっているあいだ、石の縁は静かなままだった。誰も踏まなければ、新しい光は生まれない。少し先では店から出てきた人が小包を抱え直し、軒下を通る風に布看板が揺れた。
また歩き出すとき、オスカーはリディアの隣に並んだ。
灯りが先へ生まれては消える。その間に、二人は同じ鉢植えを見たり、閉まりかけの店の戸を見送ったりした。広場はすぐそこだったが、急いで行く理由はなかった。
広場の手前で引き返すと、リディアがまた印のある石を踏んだ。
今度は、背後の硝子が光った。
「あら」
二人は足を止めた。進んでいるのは家の方なのに、光ったのは広場側。来るときと同じ位置へ、同じ金色が現れている。
オスカーはもう一つ手前の印を踏み、振り返った。今度も一枚だけ、背後に灯った。
「向きを変えたのは俺たちで、道具じゃないんだな」
「行きは前を照らして、帰りは後ろから見送ってくれるのね」
リディアの言い方が気に入って、オスカーは笑った。
先を照らすといっても、足元にはもともと街灯の明かりがある。石の小さな金色は、そこへ短い光を足しているだけだ。だからこそ、消えるところまで眺めても、道が暗くなる心配はなかった。
帰り道、オスカーはもう灯りを追い越そうとしなかった。二人が同じ速さで歩くと、後ろで光る硝子を振り返るのも同じころになる。ときにはリディアが先に何かを見つけ、今度はオスカーが立ち止まった。
「今日は何も持って帰らないはずだったのに」
「何か拾った?」
「ミアに話すことが増えた」
「それなら、おみやげね」
リディアが笑い、二人は最後の金色が消えるまで少しだけ待った。
風見鶏通り17番地へ戻ると、店先に掲げられたミアの風見鶏の絵が、夕風にかすかに揺れていた。居間からはフィンとエルナの話し声、その間へ割り込むミアの高い声が聞こえる。
「ただいま」
窓辺のルクスは顔を上げ、二人を一度見ただけで羽づくろいへ戻った。
玄関へ走ってきたミアは、リディアの外套を見上げた。
「おはなし、あった?」
「ええ。踏むと次の石が光る道を歩いたのよ」
「いきは前に、かえりは後ろにね」
オスカーが付け足すと、ミアは目を丸くした。
「うしろのひかり?」
「同じ灯りなの。私たちが反対へ歩いたから、後ろに見えたのよ」
ミアは考え込み、それからリディアの後ろへ回った。両手を胸の高さでぱっと開いてみせる。
「ミアが、うしろのひかり!」
リディアが振り返ると、ミアは両手を閉じた。母が前を向いて一歩進むと、また後ろから小さな手が開く。もう一度振り返れば、また閉じる。オスカーが笑い、リディアも笑って、二人ともなかなか居間へ進めない。
窓辺でその様子を見ていたルクスは、とうとう羽づくろいをやめた。ミアが見せているのは、本物の魔法でも通りの景色でもない。それでも家族が一歩進むたび、廊下には新しい笑い声が生まれていた。
「灯りはもう消えたんだろ。……お前たちが毎回振り返るから、ミアの帰り道がいつまでも終わらんぞ」




