第79話 袖の向こうまで風が届く
星冠暦826年・紅葉月29日・木耀日
西門初等学院で帰り支度を始めるころ、窓の外に細かな雨が降り始めた。
フィンが昇降口へ出ると、石畳はすっかり濃い色になっていた。屋根の下でしばらく待ったが、雨脚は弱まらない。意を決して歩き始めたところへ横風まで吹いてきて、上着の肩と袖へ冷たい滴が当たった。
風見鶏通り17番地へ着くころには雨も小降りになったが、上着は持ち重りするほど湿っていた。
「ただいま!」
靴を脱ぎ、鞄を玄関脇の一枚背板へ預ける。脱いだ上着を両手で持ち直すと、袖口から一滴、床へ落ちた。
「おかえりなさい。ずいぶん濡れたのね」
台所から出てきたリディアが、乾いた布を渡してくれる。
「明日もこれ着たいんだ。俺、自分で乾かしてみる」
「ええ。まず水気を取りましょうね」
フィンは上着を広げ、布を押し当てて肩から袖へ順に水を吸わせた。袖を裏返すと、縫い目の近くが思っていたより冷たい。拭き終えたころには、渡された布までしっとりしていた。
庭はまだ雨に煙っている。外へ干すだけでは、今夜はあまり乾きそうにない。
「弱い風の魔法、使ってみてもいい?」
「使うなら、お父さんと場所を確かめてからね」
リディアへ濡れた布を返し、フィンは上着を抱えて工房へ向かった。
オスカーは机で小さな金具を磨いていた。事情を聞くと、工具や作業台から離れた、戸口の庇の奥を示した。そこまでは雨が吹き込んでいない。
「ここなら掛けられる。ただし、先に風の向きと強さを確かめよう」
「俺がやっていい?」
「もちろん。弱い風だけだぞ。魔力を止めてから上着へ触ること」
オスカーが細い試し紐を掛けると、フィンは一歩下がって手のひらを向けた。身体に馴染んだ単純な送風の術式へ少しだけ魔力を流し、紐の方へ向けて押し出す。風が届くのは、手元から一歩ほどの短い範囲。布を揺らせる程度の力しか与えない。
紐がわずかに傾く。フィンが魔力を切ると、風はすぐに止まり、紐も元へ戻った。
「よし。その強さならいい」
普通の木の掛け具に上着を吊るした。湿った袖は真下へ垂れ、背中の布も重なっている。オスカーが周囲を片づけ、フィンは改めて手をかざした。
庇の梁にはルクスがとまっていた。試し紐のときには動かなかった白い姿が、上着へ風が届き始めると頭を上げ、梁の反対側へ音もなく移る。
ふわり、と弱い風が通った。
上着の背中が膨らみ、しぼむ。垂れた袖も揺れたが、袖口は重なったままだった。
「動いた!」
「上着を踊らせるのが目的じゃないだろう?」
「分かってるよ」
フィンは笑って風を止めた。外側へ触れてみると、さっきより水気が少し取れたようにも感じる。でも、内側の縫い目はまだ湿っている。そもそも風が中を通っていないのだ。
「これじゃ、袖の向こうへ届かないな」
「どうしたら通ると思う?」
オスカーは答えを教えず、掛け具を見た。フィンも上着を見つめる。風を強くすれば布はもっと揺れるだろう。でも、閉じた袖口がそのままなら、中へ風が入るとは限らない。
「掛け方を変える」
魔法が完全に止まっているのを確かめてから、フィンは上着を下ろした。片袖を横へ広げ、普通の木の挟み具で端を軽く留める。胴の内側にも空気が通るよう、布同士の重なりを少しずらした。
上着は、右手だけを勢いよく挙げた人のようになった。
「変な格好だな」
「乾けばいいんだろ?」
「そうだな」
もう一度、弱い風を送る。今度は開いた袖口から空気が入り、出口側の布が小さく膨らんだ。フィンは指先の向きを動かさず、風が通る様子をしばらく眺めた。
「通った!」
嬉しくなってもう少し続けたところで、腕が重くなってきた。魔法を出しているのは自分自身だ。上着は動かずにいられるが、こちらはずっと魔力を使い続けなければならない。
フィンが手を下ろしたとき、工房の戸口から声がした。
「何してるの?」
学院から帰ったエルナだった。上着を見た途端、目を丸くする。
「……フィンの上着が、挙手してる」
「乾かしてるんだって!」
「じゃあ、質問があるのかな」
「何を?」
「もう片方の手は挙げなくていいんですか、って」
フィンは上着を見た。確かに、右袖だけが横へ突き出している。そう言われると、左袖も下げたままでは妙に落ち着かない。
「姉ちゃん、こっち持ってて」
風が止まっていることを確かめ、エルナが掛け具を支えた。フィンはもう片方の袖も広げ、挟み具で軽く留める。上着は両腕をいっぱいに開いた格好になった。
「今度は何かを歓迎してるみたい」
「雨がやんだら、外へ出たいのかもな」
二人は顔を見合わせて笑った。さっきまで濡れた上着をどうしようかと考えていたのに、布の格好だけでずいぶん楽しくなる。
そのころ、花鈴幼年学舎へミアを迎えに行っていたアルノが、庭を通って戻ってきた。傘を畳んでいたミアは、庇の下の上着を見つけるなり立ち止まった。
「おにいちゃんのおようふく、ばんざいしてる!」
「今、乾かしてるところなんだ」
「ミアも、ばんざい!」
ミアは少し離れたところに立ち、両腕を大きく広げた。上着の正面に向かってお辞儀までしてみせる。
「そんなに挨拶したら、上着も照れるんじゃないかの」
アルノが笑う。ちょうど外から吹き込んだ風で袖の先が揺れ、ミアは返事をもらったつもりになったらしい。もう一度、嬉しそうに両手を振った。
フィンは上着へ近づこうとしたミアを、自分の隣へ呼んだ。
「今は風の魔法を止めてるけど、濡れたところがあるから、ここから見よう」
「うん。おようふく、げんき?」
「どうかな。さっきよりは軽くなったよ」
そう答えたあと、フィンは上着を見上げた。もう一度風を送ろうと指先を上げかけたが、腕にはまだ疲れが残っている。
エルナが、横から袖の形を眺めた。
「今は両方とも風の通る隙間があるね。このまま干しておいたら?」
「……うん。これ以上、俺が頑張っても変わらないかも」
「今やった分は、ちゃんと役に立ったと思うぞ」
オスカーの言葉に、フィンは少しだけ誇らしそうに笑った。
その後は上着を吊るしたままにして、フィンは居間で宿題へ取りかかった。雨は夕方のうちにやみ、庇の外から通る空気も少しずつ穏やかになっていった。
夕食前、フィンが確かめに行くと、袖の表側はかなり軽くなっていた。ただ、内側の縫い目にはまだ冷たいところがある。今日中に完全に乾いたわけではない。
「このまま外へ置くと、夜の湿気もあるからな」
オスカーは掛け具を下ろし、濡れた部分が重ならない形を保ったまま、工房の作業台から離れた屋内の風通しのよい場所へ移した。明日の朝、もう一度確かめればいい。
居間へ戻ると、ミアが両腕を横へ広げて立っていた。エルナが片方の手を上げてみせると、ミアは真似をして、今度は両手を高く掲げる。
「おにいちゃんのおようふく!」
「もう、ばんざいしてないぞ」
「ミアはしてる!」
フィンもつられて腕を広げた。エルナが二人の間へ立つと、三人の影が壁の上で重なり、誰のものか分からない袖が何本も生えたようになった。台所から顔を出したリディアまで、声を立てて笑った。
窓辺のルクスは、その様子をしばらく見ていた。昼間は工房の梁で風を避けたのに、今度は子どもたちが自分から手を広げている。フィンが笑いながら顔を向けると、白い頭はすぐにそっぽを向いた。
「上着の袖へ風を通すのは勝手だ。……次は梁の上まで届かせるな。俺まで乾かす必要はないぞ、フィン」




