第77話 緑の一枚を挟む場所
星冠暦826年・紅葉月27日・火耀日
朝、エルナは読みかけの本を閉じる前に、手元の控え紙を一枚、栞代わりに挟んだ。
細い紙の片面には、登校前に確認していた数式の途中が残っている。試しに本を開き直すと、物語の続きが気になる場所のすぐ隣へ、何の関係もない数字が顔を出した。
「これじゃ、本を開いても学院にいるみたい」
つい独り言をこぼすと、朝食の皿を運んでいたフィンが振り返った。
「姉ちゃん、本にまで勉強の紙を入れてるの?」
「栞にしただけ。ちょうど細かったから」
「それで、そこにも計算があるんだ」
「あるね……」
否定できない。エルナは控え紙を本から抜き、鞄の筆記具入れへ戻した。今日は学院からの帰りに、ちゃんと栞を一枚選んでこよう。好きな本を読むためだけの、何も書いていない紙がほしかった。
放課後、西工房区の通りへ出ると、石畳の上を乾いた風が流れていた。荷運車が低い駆動音を残して過ぎ、店先の布看板が短く揺れる。エルナはいつもの帰路から一つ角を曲がり、トビアス・ヘルンの紙店へ向かった。
展示窓はよく澄んでいた。以前、透光護膜を整え直した窓だ。中には色と厚さの異なる紙が幾列にも並び、秋の光を受けている。
「こんにちは」
「おや、エルナさん。今日は何を探しているんだい?」
「本に挟む、細い紙を一枚。あまり派手じゃない色がいいんです」
トビアスは店内の浅い棚から、小さな見本束を出した。淡い灰色、青みのある白、黄色がかった薄茶。その奥に、くすんだ緑色の紙もある。
エルナが緑の一枚をつまんだところで、入口の方に人影が差した。
肩までの茶色い髪を後ろでまとめた女性だった。腕には、まだ表紙のついていない紙の束を抱えている。
エルナは顔を見て、思わず背筋を伸ばした。
収穫月に学院の授業へ来てくれた製本職人、ニーナ・ロートだ。
ニーナもエルナへ目を向けた。エルナは相手の正面へ身体を向け、あの日教わった短い挨拶を、ゆっくり手で示してみる。細かな形にはまだ自信がない。けれどニーナは笑顔になり、同じ挨拶を返してくれた。
エルナは嬉しくなって、危うく話し始めるところだった。代わりに会釈をすると、ニーナも軽く頭を下げ、抱えていた紙束をトビアスへ見せた。
トビアスはニーナと目を合わせ、筆記具と小さな紙片を差し出した。ニーナが必要な紙の厚みと大きさを書くと、店主は棚の二か所から見本を取り出した。仕事の用件らしい。エルナは自分の一枚を選ぼうと、少し脇へよけた。
トビアスは二人から見えるよう、卓の中央を手で示した。
「よかったら、ここで比べてみて」
そこへ置いたのは、掌二つほどの小さな見本台だった。表面に浅い印が二組あり、縁には小型蓄魔石と停止片がついている。
「薄い紙を重ねて見るためのものなんだ。手で持つと、どうしても片方が傾くからね」
彼は見本紙の端についた試し用の印を、一組ずつ台の印へ合わせた。起動すると二枚の紙は卓から指一本ほど浮き、わずかな高さの差を保って静止した。枠の中で支えるのは印のついた端だけ。紙の種類も、どちらを選ぶべきかも道具は判断しない。
窓からの光が二枚を通り、台の面へ淡く落ちた。一枚だけなら明るい。重なったところは色が少し深くなる。手を離しても重なり具合が変わらないので、横からも上からも見比べられる。
ニーナは紙の束を卓に置き、浮いた二枚の下へ持参した紙の端を差し入れた。どの色が下の文字を透かすか、表紙として重ねたときにどう見えるかを確かめているようだった。
エルナも緑の紙を別の見本と重ねてみたくなった。トビアスは停止片へ触れ、最初の二枚が台へ降りたのを確かめてから見本を入れ替えた。緑と薄茶の紙の端にある試し用の印を、それぞれ台の印へ合わせて再び起動すると、二枚は先ほどと同じ間隔で浮いた。
「上からだと、緑の方がずいぶん濃く見えますね」
「重なれば光が通りにくくなるからね。横からなら、別々の紙だと分かるでしょう」
少し屈んで覗くと、確かに二枚の間には細い隙間があった。魔法は紙を選んでいるのではなく、同じ位置関係を保っているだけだ。その間を通る光の見え方を、エルナとニーナがそれぞれ別の目的で見ている。
トビアスが停止片へ触れると、紙は台へ静かに戻った。ニーナは見本を受け取り、指で端をそっと曲げてから戻した。それからエルナの緑の紙へ視線を向ける。
エルナは片手を開き、もう一方で本の頁をめくる真似をした。栞にしたいのだと伝わっただろうか。ニーナは少し考え、小さな紙片へ短い言葉を書いた。
『角が尖っていると、頁や鞄に引っかかることがあります』
続けて、見本紙の角を一つだけ緩く丸める形を、指先で示す。紙を切らずに折り込むやり方だった。エルナはその手元を見てから、ニーナの顔へ視線を戻した。
「ありがとうございます」
今度は短い挨拶ではない。エルナは礼を言って会釈した。ニーナは微笑み、トビアスが差し出した紙へ選んだ品の数量を書き始めた。仕事の続きへ戻る横顔は、学院で見たときよりずっと身近なものに感じられた。
エルナは緑の紙を一枚買った。細長く切り揃えてもらい、角だけは自分で折るつもりで、そのまま受け取る。ニーナは別の厚い紙を買い、包んでもらっていた。二人の買い物は同じ卓で始まったが、最後に手へ残ったものは全く違った。
トビアスは使い終えた紙見本を束へ戻し、停止済みの見本台を棚へ片づけた。
エルナが戸口で振り返ると、ニーナがこちらを見ていた。学院で見せてもらった別れの挨拶を、覚えているところまで手で示してみる。ニーナの返事を最後まで見てから、店を出た。
*
家へ帰るころには、庭へ差す光が少し橙色になっていた。
エルナは玄関の背板へ鞄を預け、居間で本を開いた。買ってきた緑の紙は頁の高さより少し長い。端がちょこんと顔を出すのが、なんだか嬉しい。
「おねえちゃん、なにそれ?」
幼年学舎から帰っていたミアが、机の向こうから覗き込んだ。
「栞。どこまで読んだか分かるように、本に挟む紙だよ」
「みどりのおみみ!」
「本の耳、かな」
ミアは指先で触ろうとして、一度手を止めた。
「さわっていい?」
「いいよ。まだ挟んでないから」
エルナは紙を手渡した。ミアは両端を見比べ、尖った角へ小さな指を当てる。エルナは紙店でニーナが見せてくれた形を思い出し、一方の角を薄く内側へ折った。もう一方も同じようにする。
「まるくなった!」
「ほんの少しね」
ミアはしばらくその形を眺めてから、ぱっと顔を上げた。
「ミア、ちいさいまる、かいてもいい?」
「一つだけなら」
居間の壁の「おえかきのおうち」から色鉛筆を一本取り、ミアは紙の端へ小さな黄色い丸を描いた。大きな風見鶏でも、複雑な絵でもない。緑の端にぽつんと黄色い点が一つ。
「これで、わかる!」
「何が?」
「おねえちゃんの!」
エルナは笑った。店で買ったばかりの紙が、黄色い丸一つですっかり自分の栞になったように見えた。
本を開いて、今夜読み始めたい頁を探した。緑の紙を挟もうとしたとき、窓の隙間から入った風が端を持ち上げた。
「あっ」
栞は机を滑り、窓辺へ向かう。エルナが手を伸ばすより先に、そこにいたルクスの片脚がすっと下りた。
緑の紙はその脚の下で止まる。黄色い丸だけが、脚の外へ少し覗いていた。
「ルーちゃん、つかまえた!」
ミアが喜ぶ。ルクスは答えないまま、目だけをエルナへ向けた。エルナがそっと紙の端を持つと、脚はすぐに離れた。
「ありがとう、ルクス」
返事はなかった。
エルナは今度こそ栞を本へ挟み、そっと閉じた。緑の端と小さな黄色い丸が、頁の上から少しだけ覗いている。朝の数式は、もうそこにはなかった。
ルクスはその一枚をしばらく見下ろし、それから何事もなかったように翼を畳んだ。
「その一枚は、もう逃がすなよ。……俺の脚より、本の中の方が落ち着くだろう」




