第76話 ひと口目は、まだ熱いうちに
星冠暦826年・紅葉月26日・月耀日
保健院の仕事を終えて帰ったリディアは、台所の調理台にあるかぼちゃを見て足を止めた。
片側が少し平たく、つるの根元が斜めに曲がっている。土耀日にフィンが市場で選び、途中で休みながら持ち帰った一個だ。あの日、「お昼には切って煮ましょうか」と話したものの、まだ包丁は入っていない。平たい面を下にして置かれた姿は、二日前のままだった。
「今日は、これをいただきましょうか」
朝は子どもたちを送り出すだけで慌ただしかったが、今は台所に自分ひとり。リディアは袖をまくり、まな板を広げた。フィンが両腕で抱えていた実を持ち上げると、小ぶりに見えてもずしりと重い。
安定する向きに据えて包丁を入れる。切り口には濃い黄色が現れた。フィンが市場で「これなら抱えられる」と言ったときの、少し得意そうな顔を思い出す。切り分けた実は大きさがまちまちになったが、それぞれ火の通り具合を見ればいい。
鍋に水とかぼちゃを入れ、台所の調理用魔法具を弱い出力に合わせる。小さな蓄魔石から導魔路を伝わった魔力が、定められた鍋底の範囲へ熱を届け始めた。装置が知っているのは、指定された場所と出力だけ。今日の献立も、食べる人の好みも分からない。
やがて湯が小さく揺れ、蓋の隙間から甘い匂いが漂った。
リディアは匙を取り出しかけて、ふと思った。
今夜は、みんなと一緒に自分も温かいうちに食べたい。
家族の皿を用意するのも楽しい。けれど、今日のかぼちゃは自分でも楽しみにしていた。味見だけで済ませず、食卓でもちゃんと一切れ選ぶことにしよう。
大きな一切れに竹串を刺すと、すっと通った。加熱を止めて蓋を開けると、湯気がふわりと顔をかすめる。小皿へ取ったひと切れを匙で割り、少し冷ましてから口に運んだ。
柔らかくて、思ったより甘い。
「うん。おいしい」
独り言がこぼれ、リディアは思わず笑った。
そのとき玄関の戸が開いた。
「ただいま!」
フィンの声だった。鞄を玄関脇の一枚背板に預けたらしく、短い物音のあとで台所へ顔を出す。鍋から立つ湯気を見て、目を丸くした。
「あっ、かぼちゃ! 土耀日に買ったやつ?」
「ええ。やっと煮られたわ」
「もう食べられる?」
「火は通っているけれど、まだ熱いわよ」
そう答えると、フィンは母の小皿へ目を向けた。
「母さんは食べたんだ」
「味見をひと切れね」
「俺も!」
リディアは別の小皿に取り分けた。フィンはそれを食卓へ運び、湯気を見つめる。すぐ匙を伸ばしかけた手が、途中で止まった。
「自分の分だけ、少し冷やしてもいい?」
「ええ。弱くね。鍋やほかのお皿にはかけないで」
フィンは小皿の位置を確かめ、指先をかざした。夏に庭の平石へ使ったことのある、ごく単純な冷却魔法だ。あのときはトカゲのためにと何枚もの石を冷やしたが、今日は食べたいものが自分の皿にある。どこへ動くかを追う必要もない。
弱く魔力を流すと、ひと切れから立つ湯気が少しずつ薄くなった。フィンはそこでやめ、匙で端を崩してから慎重に味を確かめる。
「うまい! ちょうどいい熱さだ」
「よかった」
「市場じゃ重かったのに、今は匙で崩れるんだな」
フィンはかぼちゃをもう一口食べた。リディアには、帰り道で籠を握り直していた息子の手が思い浮かぶ。形も手触りも変わったけれど、あの日選んだものが、確かにこの皿にある。
しばらくしてエルナも帰ってきた。鞄を背板へ預け、居間に本を置こうとしたところで匂いに気づいたらしい。
「いい匂い。今日のお夕飯?」
「そうよ。ひと切れ味見する?」
「する」
フィンが自分の空いた小皿を示した。
「姉ちゃんのも冷ませるよ」
「ありがとう。でも、私は少し熱いくらいが好き」
エルナは小皿を受け取り、すぐには口をつけずに卓へ置いた。帰り道の冷たい風のことを話しながら、ときどき匙で端を崩して確かめる。フィンは先に食べ終えた皿を洗い場へ運び、姉のまだ湯気の残る一切れを眺めた。
「待つ方が長いだろ」
「そうだね。でも、冷ましすぎたら戻せないもの。今の熱さから、自分の好きなところまで待ちたいの」
言い終えたころ、エルナはようやく匙を口に運んだ。ほっと頬が緩むのを見て、フィンも笑った。
次に戻ってきたのは、幼年学舎へ迎えに行っていたオスカーとミアだった。
「ママ、あまいにおい!」
「おかえりなさい。フィンが選んだかぼちゃを煮たのよ」
「おにいちゃんの!」
「みんなのだよ」
フィンが笑って言う。ミアは鍋を覗こうとしたが、リディアに手を引かれ、食卓の椅子へ案内された。小皿へ取った一切れを匙で割り、熱さを確かめてから渡す。
「おにいちゃん、つめたくした?」
「俺の分はな。ミアのも冷まそうか?」
ミアは兄の指先と、自分の皿から立つ細い湯気を見比べた。
「ミア、ふーってする」
「そっか。じゃあ見てる」
小さな口が丸くなり、湯気を向こうへ押していく。少し吹いては匙を止め、もう一度吹く。待っているあいだ、オスカーまで隣で頬を膨らませ、何も載っていない自分の匙へ息を吹きかけた。
「パパ、たべてないのに!」
ミアが笑う。
「練習だ、練習」
「何の練習なの、お父さん」
エルナに聞かれ、オスカーは口をすぼめたまま肩をすくめた。ミアがようやく食べ頃になった一口を頬張ると、皆の視線が自然と小さな皿に集まった。
「おいしい!」
その答えだけで十分だった。
夕方、オスカーが工房から出てくると、ちょうど離れの扉が開いた。庭へ出てきたアルノに夕食の支度ができたと伝えると、老人は台所から漂う匂いに目を細めた。
「ほう、今日はかぼちゃか」
居間の食卓へ六人がそろい、リディアが煮たかぼちゃを大きな器で運んできた。フィンは今度は冷却魔法を使わず、熱い一切れを皿に置いて待つ。エルナは小ぶりなものを選び、アルノは湯気に目を細めながら匙を取った。
ミアは自分のひと切れを、慎重に二つへ分けた。
「ミアの、ふたつになった!」
「最初から二つ取ればよかったんじゃないか?」
オスカーが言うと、ミアは真面目な顔で首を横へ振る。
「じぶんで、ふたつにしたの」
「そうか。それなら違うな」
食卓に笑い声が広がった。アルノはかぼちゃを味わいながら、フィンに市場での話を尋ねる。フィンは籠が浮いていた様子を身振りで示し、エルナはその大きさを聞き返した。オスカーまで身を乗り出すと、ミアは匙を置いて「ミアもみたかった!」と両腕を広げた。
リディアはその声を聞きながら、自分の皿へ大きめの一切れを取った。今夜は温かいうちに食べようと決めていた、その一切れだ。
端を少し崩して口に運ぶと、昼間の味見と同じ甘さが広がった。けれど、フィンの抱え方がどうだったかを思い出して話し始めると、つい匙を置いてしまう。市場で一番大きな実を持ち上げかけたときの顔も、帰り道に休んだときの様子も、話したくなることがたくさんあった。
皿の上には、まだ湯気が細く残っている。
窓辺にいたルクスが、羽づくろいの手を止めた。誰に呼ばれたわけでもない。白い頭を少し傾け、リディアの手元を見ている。
笑い声の合間に、短い声が落ちた。
「リディア、そのひと切れが冷めるぞ」




