第75話 幕の向こうへ曲がる影
星冠暦826年・紅葉月25日・陽耀日
陽耀日の朝、オスカーは工房の戸を開けたまま、しばらく棚を眺めていた。
使い終えた工具は片づいている。急いで手を入れなければならない道具も、今日はない。いつもなら何か試したくなるところだったが、秋の風が戸口を通り抜けると、外を歩くのも悪くない気がした。
オスカーは戸を閉めた。
「父さん、仕事は?」
靴を探していたフィンが振り返る。
「今日は少し休む。どこか歩かないか」
「何か買いに行くの?」
「買うものは決めてないな」
「じゃあ、どこへ?」
答えるより早く、ミアが居間から駆けてきた。
「ひろば! しろいおまくが、ふたつあったの!」
朝、リディアと通りを歩いたときに見つけたらしい。広場の端に白い幕が準備され、午後には短い影絵芝居があると聞いたという。
「見に行ってみるか」
オスカーが言うと、ミアは両手を上げた。フィンも靴を履き直し、エルナは本へ栞を挟んだ。
「私も行こうかな。二枚の幕って、どう使うんだろう」
「おいおい、見に行くのは芝居だぞ」
「分かってるよ。お父さんだって気になるでしょ」
図星だったので、オスカーは肩をすくめるしかなかった。
昼食のあと、一家は西工房区の広場へ歩いた。アルノは離れで過ごすと言い、ルクスも窓辺から動かなかった。オスカーとリディア、エルナ、フィン、ミアの五人である。
広場の端では、通り沿いの建物が石畳に長い影を落としていた。その日陰に、二枚の白い幕が大きな本を途中まで開いたような角度で立っている。見物席は低い区画紐の外側。二人の演じ手が幕の裏で薄い人形板を並べ、客が集まると、そのうち一人が幕の端から顔を出した。
「角を曲がる旅人のお話です。どうぞ、こちらから」
ミアは一番前の低い腰掛けへ座り、フィンも隣へ腰を下ろした。オスカーとリディア、エルナはその後ろに並ぶ。
幕の裏に灯りがついた。蓄魔石の小さな光源から届く光は幕の白をやわらかく明るくし、日陰にいる客の目にも、前に置かれた薄い人形板の影がはっきり見えた。
丸い帽子に、背中より大きな荷物。旅人の影が左の幕へ現れ、一歩ずつ歩き始めた。脚が動くたびに荷物も揺れる。その大げさな揺れ方に、ミアが声を立てて笑った。
「おにもつ、おっきい!」
「前が見えるのかな、あれ」
フィンの言葉に、近くの見物人も笑う。
旅人は左の幕の右端へ近づいた。二枚が合わさる縦の境には、細い印が走っている。帽子の先がそこを越えると、その輪郭が右の幕へ現れた。左側の影は同じ分だけ消え、荷物も足も順に継ぎ目を渡っていく。最後には、旅人が右の幕を歩いていた。
「曲がった!」
ミアが拍手しかけ、まだ芝居の途中だと思い直して手を膝へ戻した。
オスカーは思わず身を乗り出した。印の近くを通った輪郭だけが、隣の面へ渡されている。旅人だと判別したのではない。人形板を動かす演じ手の操作に従って、影の位置が変わったのだろう。
その先を考えようとしたとき、フィンが小さく声を上げた。
「父さん、橋!」
右の幕に、細い橋の影が現れていた。旅人は渡りかけるが、大きな荷物の輪郭が欄干の影へ重なるところで、ぴたりと止まる。少し引き返し、角度を変え、また進もうとして止まる。荷物の板を揺すっているのは、幕の向こうの演じ手の手だ。それなのに、旅人が困っているように見えてくる。
「横にしたら通れるかな」
フィンが囁く。
オスカーは答えず、次の動きを待った。継ぎ目の仕組みはまだ気になったが、今は旅人がどうするのかを見たかった。
旅人は橋の手前へ荷物を降ろした。中から小さな包みを一つ取り出すと、それだけを抱えて橋を渡る。向こう岸には一軒の家。扉が開き、出迎えた影へ旅人が包みを渡した。二つの影が少し近づいたところで、幕の奥から短い楽器の音がした。
灯りが静かに消える。
しばらくして拍手が起こった。ミアも勢いよく手を叩いたが、すぐに眉を寄せる。
「あのおにもつは?」
幕の端から演じ手が顔を出した。
「橋の手前に残っていたね」
「とりにいかないの?」
「そこから先は、今日のお話には出てこないんだ」
ミアは幕の右側を見て、左側を見た。旅人も橋も、もういない。少し残念そうだったが、すぐにもう一度拍手した。
演じ手たちは灯具の停止を確かめ、木枠を畳み始めた。二枚の白い幕には何も映っていない。オスカーは継ぎ目の印をもう一度見ようとして足を止めたが、舞台の方からフィンが声をかけた。
「父さん、あの荷物、何が入ってたと思う?」
「さあな。あんなに大きいからなあ」
「俺、食べ物だと思う」
「ミアは、おようふく!」
「旅人の服?」
「ちいさいの、いっぱい!」
オスカーは笑った。もし全部小さな服だったら、旅人は誰に届けるつもりだったのだろう。知らないままでも、考えることはできる。
エルナが合流し、継ぎ目の印は面白かったね、と一度だけ言った。オスカーもうなずいたが、次に話したのは橋の方だった。どうしてあの旅人は、荷物を横にして試さなかったのだろう。フィンは自分ならそうする、と腕を大きく広げた。ミアは、それでも通れなかったら、もう一つ橋を作ればいい、と言い出した。
「橋の方を増やすのか」
「うん! おうちまで、ふたつ!」
リディアが笑い、皆もつられて笑った。
広場を出るころには、石畳の影がさっきより長く伸びていた。帰り道でも荷物の中身は決まらない。フィンは食べ物、ミアは小さな服。エルナは本かもしれないと言い、リディアは「開けてみないと分からないわね」と楽しそうに答えた。オスカーは、今度こそ道具の話を始めずに、家族の声を聞いて歩いた。
風見鶏通り17番地へ戻ると、ルクスは居間の窓辺にいた。ミアは靴を脱ぐとすぐ、両腕を大きく広げて旅人の荷物を再現し始めた。
「ルーちゃん、こんなにおっきくてね!」
広げた腕が窓枠へ近づく前に、白い翼がすっと畳まれる。ルクスは身体を少し横へ寄せ、ミアの身振りを眺めた。
「それで、はしをわたって、ちいさいつつみをあげたの!」
ミアの手が床の上で橋を描くように動く。オスカーが大きな荷物は手前へ置かれたままだったと付け足すと、ミアはまた窓辺を見上げた。
「ルーちゃんは、なにがはいってるとおもう?」
ルクスは返事をせず、まずミアを見た。それから、何もない窓の外へ一度だけ目を向ける。家族の誰も、答えを急かさなかった。
やがて白い頭が戻り、短い声がした。
「俺はその幕を見ていない。荷物の中身まで決める役を押しつけるな、ミア」




