第74話 浮いた籠の下で
星冠暦826年・紅葉月24日・土耀日
土耀日の朝、フィンは台所で母の買い物籠を見つけた。
「母さん、市場へ行くの?」
「ええ。お昼に使う野菜を少しね」
「俺も行く」
リディアが振り向くより早く、フィンは籠の持ち手をつかんでいた。学校のない朝である。庭へ出て身体を動かすのもいいが、今日は風見鶏通りの向こうまで歩きたい気分だった。
「今日は何か欲しいものがあるの?」
「丸いかぼちゃ。大きいやつを自分で選びたい」
「いいわね。でも、持ち帰れる大きさも考えましょうね」
「俺が持つから大丈夫!」
言い終えてから、フィンは空の籠をひょいと持ち上げた。持ち手は驚くほど軽い。中にかぼちゃが入ったらどうなるか、今はまだ分からなかった。
工房ではオスカーが朝の仕事を始め、エルナは居間で本を開いていた。ミアは昨夜の音遊びを思い出したのか、ときどき膝をぱんと叩いている。リディアが二人に外出を告げると、ミアはついていきたそうに顔を上げた。けれど次の瞬間、「パパ、ミアの絵、みて!」と工房へ声をかけ、紙を取りに戻っていった。
リディアとフィンは通りへ出た。
夏には昼前から熱を帯びていた石畳も、今は靴の裏へひんやりした感触を返す。店先には色づいた葉のついた枝が置かれ、通りを抜ける荷運車の車輪が、角を曲がるたび低く響いた。軒先の小さな魔法照明はもう消えていて、朝の光がその代わりに建物の壁を照らしている。
市場には野菜を積んだ籠が並んでいた。葉物を束ねる人、木箱を台へ運ぶ人、品物を見比べながら隣の売り手と話す人。皆それぞれ別の用事があって、声の重なりにも昨日の家の響盤とは違う賑やかさがあった。
フィンは目当てのものをすぐに見つけた。
「あれ! 母さん、あの大きいの!」
通路に面した一つの店先で、丸いかぼちゃがいくつも木籠へ収められていた。濃い緑のもの、黄みの強いもの、上の方が少しつぶれたようなもの。そのうち一つはフィンの頭ほどにも見える。
そこへ近づく途中、フィンは足を止めた。
かぼちゃを入れた籠の底が、台からわずかに浮いていた。
よく見ると、三つの籠はそれぞれ低い木枠の内側で、指二本ほどの高さに静止していた。木枠には細い導魔路が刻まれ、端の蓄魔石が淡く光っている。売り手がいちばん大きな籠を片手で押すと、籠はほとんど音も立てず、枠の内側を少しだけ横へ動いた。
「すごい。あれ、重くないの?」
売り手は籠を枠の中央で止めてから、フィンへ笑いかけた。
「中身は重いままですよ。ここでは枠が下から支えているだけ。枠を離れたら、持つ人が全部支えなくてはなりません」
木枠の下には丈夫な台がある。売り手が品物を見せやすい位置へ籠を寄せるための設備で、決められた範囲で下から支え、押された方向へゆっくり動く。かぼちゃの種類も、買い手が持てる重さも、判別していない。
「大きい籠でも、片手で動くんだ」
「動かすのはね。持って帰るときは、別の話です」
売り手は籠を木枠の中央へ戻し、動きが止まったのを見てから解除片を動かした。籠はゆっくり台へ降り、底がこつんと鳴った。
「これで、もう浮いていません。近くで見ても大丈夫ですよ」
フィンは籠の縁へ手を掛けかけたが、すぐに引っ込めた。
「かぼちゃ、持ってみてもいい?」
「もちろん。こっちの台へ一つ出しましょう」
売り手が両手で大きなかぼちゃを台へ載せた。フィンも底へ手を回し、ゆっくり持ち上げてみる。
「うわっ。……重い!」
胸の高さまで持ち上げかけたが、肘が震えて、すぐ台へ戻した。あれほど軽々と動いていた籠の中で、このかぼちゃもずっと同じ重さだったのだ。
「籠が軽そうだっただけか」
「見ているだけだと、簡単そうに見えるものね」
リディアは売り手と目を合わせて笑った。
フィンは大きなかぼちゃをもう一度眺めた。リディアと二人なら運べるかもしれない。けれど、市場から家まではまだ歩かなくてはならない。今日は、自分で選んだ一つを、自分の手で持ち帰りたかった。
ふと、隣の籠に目が移る。
そこには小ぶりなかぼちゃがいくつもあった。その一つは片側が少し平らで、つるの根元が斜めに曲がっている。大きな一つより形は不揃いだが、何となく気になった。
「こっちも見ていい?」
売り手は最初の籠を台に載せたまま、もう一つの木枠の作用を止めて籠を下ろした。フィンは許しを得てから平たい側へ指を当て、両手で持ち上げる。
ずしり、と確かな重みが来た。それでも胸の前で抱えられる。手をずらしても、底の平たいところが腕へよく収まった。
「これにしようかな」
「一番大きいのじゃなくていいの?」
リディアが尋ねた。
「これなら抱えられる。平たいところが腕に合うし」
「重さも、ちょうどいい?」
「さっきのより、ずっといい」
フィンはもう一度、かぼちゃを両腕へ収めてみせた。リディアが笑い、売り手も持ち上げ方を見てうなずいた。
「じゃあ、その一つをください」
選んだかぼちゃは布を敷いた籠へ収められ、ほかに買った葉物と根菜はリディアの手提げへ入った。フィンがかぼちゃの方を持ち、二人は市場を後にした。
帰り道には、行きには気に留めなかった小さな坂があった。籠の持ち手が指へ食い込み、フィンは歩幅を狭めた。リディアも隣で歩調を緩め、手提げを持ち直す。
「代わろうか?」
「まだ平気。……でも、この角までで一回休んでいい?」
「もちろん」
軒の下で籠を地面へ置くと、指先がふっと軽くなった。中のかぼちゃは何も変わっていない。それでも、さっきまで手に掛かっていた重さは、今は地面が受け止めている。
隣でリディアが袖を整えている。フィンは母の手提げを見て尋ねた。
「母さんの方も、重い?」
「少しね。でも、帰るまでは持てそうよ」
フィンは自分の籠を見下ろした。布の隙間から、斜めに曲がったつるが見えている。さっき選んだときにも、この形が目印になった。
もう一度持ち上げて歩き出すと、片方の持ち手が指の節へ食い込んだ。休んだ拍子に握る位置がずれたらしい。
「ちょっとだけ籠を支えてくれる? 持ち手を握り直したい」
リディアが籠の脇を支えるあいだに、フィンは指をほどき、持ち手をそろえて握り直した。母が手を離しても籠は傾かなかった。
風見鶏通りへ戻るころには、秋の朝の日差しが少し高くなっていた。店先の絵の下で、オスカーが客を見送っている。かぼちゃの入った籠を両手で持つ息子に気づくと、驚いた顔をした。
「お、立派なのを選んだな」
「一番大きいのはもっとあったんだ。でも、これなら俺が持てる」
「それなら上出来だ」
居間に入ると、ミアがすぐに駆け寄った。
「おにいちゃん、それなあに?」
「かぼちゃ。今日のお昼に使うんだって」
「まんまる?」
「こっちから見ると、ちょっと平たい」
フィンは籠を台所の卓へ下ろした。ミアは卓の右へ回り、左へ回り、かぼちゃを覗き込む。けれど、平たいところは布の陰でよく見えなかった。
「どこ?」
「いま見せるよ」
エルナも本を閉じて見に来た。リディアが野菜を並べる横で、オスカーがかぼちゃを調理台へ移し、平たい面を一度ミアへ向けた。
「こっちのおかお、へこんでる!」
「顔じゃないって」
オスカーがその面を下にして置き直すと、かぼちゃは転がらずに落ち着いた。
「お昼には、切って煮ましょうか」
「俺、みんなに市場の籠の話もする」
フィンは空の買い物籠を台所の端へ戻し、ようやく腕を伸ばした。すると、袖口に小さな枯れ葉が一枚引っかかっているのが見えた。市場のどこかでついたのだろう。
その枯れ葉へ、窓辺から白い翼が近づいた。ルクスはフィンの袖へ嘴を伸ばすと、葉を軽く引き抜いて、空いた籠の底へ落とした。
「あ、ルクス。ありがとな」
ルクスは答えず、何もしていないような顔で籠の縁へ移った。ミアが「ルーちゃんもおかいもの?」と笑う。フィンが腕をさすりながらその白い背中を見ていると、ルクスは迷惑そうに目を細めた。
「かぼちゃだけで手いっぱいだったんだろ。……葉っぱまで抱えてくるな、フィン」




