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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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第72話 茶碗の下の青い布

 星冠暦826年・紅葉月22日・木耀日

 木耀日の昼すぎ、アルノは離れの居室にある机で、茶碗を右へ寄せたり左へ戻したりしていた。

 机の真ん中には地下研究室から持って上がった書きかけの紙が何枚も広がっている。今朝思いついたことを書き留め、そこへ線を足し、別の紙にも続きを書いているうちに、茶碗を置ける場所がなくなったのだ。

 右へ動かせば一枚の図に近づき、左へ寄せれば今度は筆記具が邪魔になる。茶をひと口飲むたび、紙を動かすことになった。

「まったく。紙は増えるのに机は広がらんのう」

 誰へ聞かせるでもなく呟き、アルノは椅子を引いた。術式で机を広げるより、まず紙を片づける方が早い。

 筆記具を引き出しへ戻し、書きかけの紙を一か所へ重ねる。茶碗を置く場所ができた。そこには、さっきまで茶碗の底が触れていた小さな輪染みもある。アルノは布で拭き取り、改めて空いた一角を眺めた。

 このままでは、また続きを思いついたとき、紙で塞いでしまいそうだった。茶を飲むための場所だと、一目で分かるものが欲しい。

「一枚、敷くものでも探すか」

 思い立つと、アルノは上着を羽織った。離れの扉を閉めて庭を横切り、風見鶏通りへ出る。クラウゼル魔法具店の店先ではミアの風見鶏の絵が揺れ、工房からは金具の触れ合う音が聞こえた。誰かに頼んで買ってきてもらうほどのものでもない。

 通りには、仕事の合間に荷を運ぶ人や買い物帰りの人が行き交っていた。魔法で重さを和らげた荷運車が、車輪を石畳に鳴らして通り過ぎる。アルノはそのあとを急がず、布地店へ向かった。

 店の中には、巻かれた布が色とりどりに積まれていた。薄いもの、厚いもの、指を滑らせると柔らかく毛羽立つもの。普段は研究用の紙ばかり眺めている目に、青や茶、緑の重なりが少し新鮮だった。

「いらっしゃいませ」

 帳場にいたアンネ・バルツが顔を上げた。オスカーの店へ写し札を修理に出したことのある、あの布地店の女性だ。

「机に敷く小さな布を一枚、探しておる。茶碗の下へ置くくらいの大きさでな」

「それでしたら、端布を見ていただくのがよさそうです。厚みは、どのくらいがいいでしょう」

 アルノは親指と人差し指を大きく開きかけた。布を買うのに必要な寸法を、何となく手で示しただけだったが、アンネが笑った。

「その厚さですと、敷物より座布団になってしまいますね」

「そうか。布の研究は専門外でのう」

「薄手で、茶碗の底が落ち着くものをお持ちしましょう」

 アンネは帳場に置かれた小さな札へ、布の大きさと厚みについて短く書きつけた。すると、奥の作業台にあるもう一枚にも、同じ筆跡が浮かんだ。かつてオスカーが修理し、持ち主へ返した二枚一組の写し札だった。

 アンネは帳場に残り、手元の布を整えている。やがて店の奥から、手伝いの人が浅い籠を運んできた。籠の中には四枚の端布。札が伝えたのは文字の線だけで、布を選んだのはそれを読んだ人だった。

 アルノはその一連のやり取りを眺め、工房で見る試験術式とは違う落ち着いた手つきに、少しだけ目を細めた。

 アルノは一枚ずつ指でなぞった。ざらりとした生成りの布。表面がつるりとした濃い緑。少し柔らかい灰色。最後は、深い青に、目立たない細い織り目が走る布だった。

「こうして触ると、ずいぶん違うものじゃな」

「机へ敷くなら、角がめくれにくいものがいいですね。茶碗も滑らない方が安心ですし」

 アルノは青い布を二つ折りにしてみた。畳んだ縁を指で押すと、ほどよい張りがある。広げれば少し横長で、茶碗一つの下には十分だった。

「これがよさそうじゃ。少し大きめでも構わん」

「このままなら、切らずにお渡しできますよ」

「なら、それで。置き方はわしが考えよう」

 アンネは青い端布を畳み、代金を受け取った。包みは手のひらに収まるほどで、荷物と呼ぶには軽い。アルノはそれを上着の内側へしまった。

「ありがとうございました。いいお茶の時間になるといいですね」

「うむ。せっかくじゃから、帰ったらもう一杯淹れよう」

 店を出ると、外の風が少しひんやりしていた。通りの角では、荷運車が空になった荷台を揺らして戻っていく。アルノはさきほどと同じ歩幅で、家へ向かった。

 帰宅して庭を通りかかると、母屋の窓からリディアが顔を出した。保健院の仕事を終え、台所で茶の支度をしていたところだった。

「お父さん、お出かけだったの?」

「うむ。ちょっと布を買ってきた」

「布?」

「茶を飲む場所を、紙と分けておきたくてのう」

 リディアは一瞬きょとんとし、それから笑った。

「お父さん、まず机を片づけたの?」

「もちろんじゃ。片づけた場所へ、また紙を置かんようにな」

 不思議そうな娘へ、アルノは青い包みを見せた。

「お茶、少し付き合ってくれんか。新しい敷物を使ってみたい」

「ええ。夕食の支度までなら」

 リディアは茶壺と湯を盆へまとめた。アルノも盆の片側を持ち、二人で庭を渡る。

 地下の研究室へは降りず、離れの居室へ入った。アルノは棚から茶碗を二つ出して机の端へ置き、買ったばかりの青い布を広げる。深い青が木目の上に落ち着き、重ねた研究紙と空いた一角の境目が、はっきりした。

「どうじゃ」

「素敵ね。でも、お茶碗が二つ並ぶかしら」

 アルノは二つの茶碗を並べてみた。一つはすんなり収まったが、もう一つは布の縁へ半分ほどはみ出す。

「おや。一人分としては十分じゃったが」

「私の分は、布の外でも大丈夫よ」

 リディアが茶碗を移そうとしたとき、アルノは布の横長の形へ目を留めた。机の端と平行に敷いていた一枚を、角が手前へ出るよう斜めに回す。長い辺に沿って二つの茶碗を少しずらして置くと、どちらの底も布の上へ収まった。

「これなら、どうじゃ」

「ええ。二人分になったわ」

 茶碗が二つ並んだ青い布を見て、アルノは少し得意そうに笑った。

 リディアが淹れた茶から、細い湯気が立った。窓の外には庭の低木があり、その向こうに母屋の屋根が見える。遠くではフィンの声が聞こえた。学校から帰ってきたらしい。エルナがそれに答える声も、少し遅れて届く。

「賑やかじゃのう」

「いつものことよ」

 リディアは茶碗を持ち、ひと口飲んだ。父の机には今も研究紙が山になっている。それでも青い布の上だけは、二人の湯気が並ぶための場所になっていた。

 アルノは話の途中で一度、机の端に重ねた紙へ目をやった。何かを思いついたような顔をしたが、立ち上がらず、茶をもうひと口飲む。

「今のうちに書いておかなくていいの?」

「忘れたら、また考えればよい」

 そんな返事が自分の口から出たことに、アルノは少し驚いたようだった。リディアも笑う。開いた窓から風が入り、二つの湯気が同じ方へ流れた。

 やがて茶を飲み終え、リディアは夕食の支度へ戻ることにした。アルノは茶碗を二つ片づけ、娘を庭まで見送った。青い布だけが机の上に残っている。

 居室へ戻ると、窓枠に白い姿があった。いつ来たのか、ルクスが机を眺めている。片脚を伸ばし、青い布の端をそっと踏んだ。

「こら、そこは茶碗の場所じゃぞ」

 ルクスは一度だけアルノを見る。それから、茶碗のなくなった布の上へもう片脚も移した。紙の束には触れず、深い青の上で翼を畳む。

「茶碗は片づいたんだろ。……次の紙が来るまで、ここは借りるぞ、アルノ」


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