第71話 月の明るい十五分
星冠暦826年・紅葉月21日・水耀日
水耀日の帰り道、エルナは何度か空を見上げた。
雲は薄く、高いところを流れている。まだ日の残る空に星は見えなかったが、学院で耳にした話が気になっていた。今夜から明け方にかけて、夜空を走る光がいつもより多く見つかるかもしれない、というのだ。
実成月、庭で流れる光を見た夜のことを思い出す。あのときは父の調光具につないだ庭と居間、店先の照明が揃って明滅し、騒ぎが収まってからようやく空を眺めた。最初の一筋を見逃したのは、直した仕組みをまだ頭の中で確かめていた自分だけだった。
あれから二か月あまり。日が暮れると、庭の石畳にはもう夏の熱が残らない。
家に着くと、エルナは玄関脇へ鞄を預け、居間で夕食の支度をしていたリディアに声をかけた。
「ねえ、お母さん。今夜、少しだけ庭へ出ない?」
「星を見るの?」
「うん。流れる光が見られるかもしれないんだって。でも、月が明るそうだから、あまり期待しない方がいいかもしれない」
リディアは鍋から顔を上げ、窓の外を見た。
「明日も学院があるものね。長くならないなら、いいわよ」
「十五分くらいにする」
言ってみると短い時間だった。けれど、明日の朝も学院へ行く。夜明けまで星を待つわけにはいかないし、少しでも空を眺められればよかった。
先に帰宅していたフィンが、その話を聞きつけた。
「流れ星? 夏にも見たやつ?」
「そう。でも今夜、必ず見えるってわけじゃないよ」
「なら俺も行く。今度は姉ちゃんより先に見つける」
「競争じゃないんだけど」
「そう言うと思った」
オスカーに迎えられて花鈴幼年学舎から戻っていたミアは、机の上の紙を片づけながら、二人を交互に見た。
「ミアもみる! おうち、またまばたきする?」
その言葉で、エルナは笑ってしまった。あの夜、庭と居間と店先の灯りが揃って点いたり消えたりしたことを、ミアはまだ覚えていたらしい。
「もうしないよ。お父さんが直したから」
「じゃあ、おほしさまだけ?」
「うん。見つけられたらね」
夕食が済むころには、窓から見える空が濃い青になっていた。
庭へ出る前に、オスカーは工房から銀色の小さな調光具を持ってきた。実成月の夜に使い、切替境界を分け直したあの試作品だった。側面には、短い注意札が今も付いている。
『切替境界を同じにしない』
「まだ持ってたんだ」
「そりゃ持ってるさ。直したからって捨てるもんじゃない」
オスカーは庭の照明だけを試験用の導魔路へつなぎ、起動前に停止手順を確かめた。居間と店先の照明は今日はつながない。少し暗くなっても足元は見えるようにし、必要以上の光を庭へ広げないための道具だった。
「空を暗くする魔法じゃないぞ」
オスカーが言うと、ミアは空と銀色の輪を見比べた。
「おつきさまは?」
「月の明るさは、これじゃ変えられないな」
「そっかあ」
少し残念そうではあったが、ミアはすぐに庭へ向かった。オスカーが照明を作動させ、石畳を見渡す。灯りは落ち着いた明るさを保ち、勝手な明滅を始めることもない。
離れからやって来たアルノは、調光具を見るなり白い眉を上げた。
「懐かしいのう。今夜も家ごとまばたきをするのかね」
「先生、その話はもう終わってます」
「終わったから、こうして使えるんじゃろ」
言い返せなくなったオスカーを見て、フィンが肩を揺らした。
庭には椅子をいくつか並べた。リディアは居間の大きな膝掛けを持ち出し、ミアと自分の膝へ広げた。二枚の毛織布を縫い合わせた中央の縫い目が、二人の膝の間で少し盛り上がる。ミアはその縫い目を指で押さえ、余った布をリディアの方へ寄せた。
「おねえちゃんも、はいる?」
「私はこっちの椅子で大丈夫」
エルナは答えながら隣に腰を下ろした。あとは上を向けばいい。今夜は本も術式板も持ってきていない。
空には、予想以上に大きく明るい月があった。
白い光が庭木の葉を縁取り、家々の屋根を淡く浮かび上がらせている。空の奥に小さな星はいくつか見えるものの、夏に見たときより数が少ないように感じられた。
「月が元気だな」
フィンが言った。
「元気なのはいいけど、細い光は見つけにくいね」
エルナは月の周囲から少し離れた暗い方へ視線を移す。流れる光が現れるなら、必ずしも一つの場所だけではない。だからといって、急いで空じゅうに目を走らせても始まらなかった。
ルクスは庭木の枝にいた。夕食のころまで窓辺にいたはずが、いつの間にか皆より先に外へ出ている。誰に誘われたわけでもない顔で、屋根の向こうを見ていた。
「ルーちゃん、あそこみえる?」
ミアが一番明るい星を指さした。
白い頭が少し上がり、すぐ元へ戻った。それで十分らしく、ミアは満足そうに空を見上げる。
しばらく、誰も何も言わなかった。
通りの遠くで荷運車の車輪が鳴り、やがて聞こえなくなる。木の葉が一度だけ擦れ、アルノの椅子が小さくきしんだ。庭の照明は足元に穏やかな光を残したまま、変わらず働いていた。
「……まだ?」
やがてミアが囁く。
「まだだね」
リディアも同じくらい小さな声で答えた。
「十五分って、もう半分くらい?」
フィンが聞くと、オスカーが首を傾げた。
「時計を持ってきたわけじゃないからな」
「じゃあ、まだ半分じゃないことにしよう」
「都合のいい数え方だな」
「まだ見てたいんだよ」
フィンは椅子の背へ頭を預けた。さっきまで誰より先に見つけると言っていたのに、今は空の一か所を静かに眺めている。
エルナはその横顔を見てから、また月へ目を戻した。
白い月の縁へ薄い雲がかかり、光が少しだけ柔らかくなる。流れる光は見つからない。それでも庭のあちこちに、月の明るさは届いていた。アルノの髭の先、ミアの膝掛け、窓に映った小さな灯り。
「ねえ、姉ちゃん」
「何?」
「夏のとき、姉ちゃん一つ見逃しただろ」
「……覚えてる」
「今日も、俺たちが違う方を見てるときに流れたかもな」
「そうかもね」
エルナは笑った。フィンも空から目を離さずに笑う。確かめようのないことなので、どちらもそれ以上は言わなかった。
やがてリディアがミアの肩へ手を置き、立ち上がった。
「そろそろ戻りましょうか。ミア、明日も幼年学舎よ」
「あと、ひとつだけ!」
「何をひとつ?」
「おつきさま、もういっかい!」
ミアは膝掛けの端を少し下げ、もう一度月を見上げた。確かめ終えると、あっさり立ち上がる。流れる光は見つからなかったのに、もう一度見た月だけで十分らしい。リディアは膝掛けを畳み、腕に掛けた。
エルナも椅子を戻した。今夜のために観察記録を作るつもりはない。十五分ほど外へ出て、流れる光は見えず、月と家族の顔を見た。明日になれば、またいつもの朝が来る。
オスカーは調光具を停止し、照明との接続を外した。灯りが消えたあとも、月の明るさで庭の輪郭は見えている。家族が母屋へ戻るのを確かめ、試作品を工房へ持ち帰った。
アルノが最後に庭を横切ると、枝の上ではルクスがまだ空を向いていた。
「ルクス、おぬしは戻らんのか?」
白い翼は動かなかった。アルノも急かさず、離れへの小道を歩いていく。
母屋の扉が閉まる前、ミアが庭を振り返った。
「ルーちゃん、十五分おわったよ!」
ルクスは月を見たまま、ようやく嘴を開いた。
「月はまだそこにある。……明日も早いんだろ、お前たちは先に戻れ」




