第69話 消さない灯りの置き場所
星冠暦826年・紅葉月19日・月耀日
月耀日の夕方、フィンは玄関脇の背板へ鞄を預け、靴を脱ぐとまっすぐ居間へ向かった。
昨日、エルナとミアが紙舟を行き来させていた大机には、もう舟の姿はない。広い木目が見えている。
「よし、空いてる」
「おかえり。何かするの?」
台所からリディアが顔を出した。保健院の仕事を終え、夕食の支度を始めていたところだった。
「算術の宿題。夕飯までに終わらせたいんだ。そうすれば、あとでのんびりできるだろ」
「いいわね。手を洗ってから始めてね」
「うん」
フィンは洗った手を拭き、鞄から取り出した帳面と筆記具を机へ並べた。最初の一問はすぐに解けた。二問目の途中で、ふと顔を上げる。
窓から差す光が、いつの間にか薄くなっていた。まだ暗いというほどではないが、細かな数字が読みにくい。
「父さん、ちょっと灯り借りてもいい?」
工房から顔を出したオスカーは、机と窓を見比べてうなずいた。
「一個あれば足りそうだな」
持ってきたのは、工房で部品を照らす小型照明魔法具だった。掌に載るほどの大きさで、小さな蓄魔石から魔力を受け、向けた側を一定の明るさで照らす。
「倒れないところへ置けよ。動かすときは一度止めること」
「分かった」
フィンは机の窓寄りに置いて起動した。帳面の上がぱっと明るくなる。これなら続きを書ける。
筆記具を握り直したところで、玄関から元気な声がした。
「ただいま!」
花鈴幼年学舎からアルノに迎えられたミアが帰ってきたのだ。六歳になったばかりの妹は、フィンの肩越しに帳面を覗き込んだ。
「おにいちゃん、なにしてるの?」
「宿題。夕飯までに終わらせるんだ」
「じゃあ、ミアもここでおえかき!」
「いいけど、帳面に色をつけるなよ」
「つけないよ!」
ミアは壁の「おえかきのおうち」から紙と色鉛筆を取り出した。離れへ戻る前のアルノへ手を振ってから、机の反対側に座る。
紙の上にはさっそく、大きな黄色い丸が描かれ始めた。
「何それ?」
「まだ、ひみつ」
「そうか」
フィンは笑って、また数字へ戻った。
少し遅れて帰ったエルナは、二人が向かい合う机を見て足を止めた。
「昨日は舟、今日は帳面とお絵描きか。ここの机、忙しいね」
「今日は動かさないぞ。俺の宿題は」
「それは動かさない方がいいね」
エルナが笑い、ミアも意味を考えるより先に笑った。
そのとき、窓辺でリディアが小さく首を傾げた。
数日前に市場で買った赤紫の花鉢が、受け皿に載っている。明るいうちは花びらを閉じ、光が弱くなるとゆっくりひらく一輪だ。
「あら。まだ閉じているのね」
「おはな、まだねんね?」
ミアが顔を上げる。
「眠っているわけじゃないけれど、今日は少し遅いみたいね」
フィンも窓を見る。通りの石畳には夕方の影が伸び、向かいの家の窓には灯りがともり始めていた。
ところが、花のすぐそばだけは明るい。
自分の帳面を照らすために置いた照明から、斜めに光が届いていた。葉の端にくっきりした影ができ、閉じた花びらの先まで白く照らされている。
「……俺の灯り?」
エルナも鉢と机を見比べた。
「そうみたい。窓の外より、花のところが明るくなってる」
フィンは照明へ目を戻した。道具は故障していない。明るくしてほしい方向へ、きちんと光を出しているだけだ。
「これが届いてるから、まだひらかないのかな」
「その可能性はあるわね」
リディアは花をのぞき、すぐには決めつけなかった。
「この花は暗くなるとひらくと聞いているもの。でも、灯りのせいだけかどうかは、まだ分からないわ」
「じゃあ、けす?」
ミアが言う。
フィンは帳面を見下ろした。まだ二問残っている。灯りを消せば、これ以上暗くなる前に急いで書くことになる。
「俺、あとちょっと使いたい」
「使っていていいのよ」
リディアが穏やかに答えた。
「花を見たくて買ったのは私だけれど、フィンの宿題まで暗くしなくていいわ」
「でも、母さんも見たいだろ」
「ええ。今日もひらくところを見られたら嬉しいわね」
リディアは花から離れ、夕食の支度へ戻った。
フィンは灯りと帳面を交互に見た。消せば花のまわりは暗くなる。けれど、それだけでは自分が困る。
少し考えてから、工房の方へ声をかけた。
「父さん、灯りの場所、変えてみてもいい?」
「いいぞ。止めてからな」
フィンは一度起動を切り、照明を机の内側へ動かした。倒れないことを確かめ、光を帳面へ向けて再び起動する。
数字はよく見える。
その代わり、向かいにいるミアの紙が暗くなった。
「あれ。ミアのきいろ、みえない」
「ごめん。こっち向ける」
フィンが少し角度を変えると、ミアの紙も明るくなった。ところが、その分だけ光はまた窓の方へ広がる。
「うーん……」
帳面も絵も、花も。同じ場所に置いたまま、全部を都合よく明るくしたり暗くしたりするのは難しい。
そこでエルナが、二人の紙の間を指でなぞった。
「照らしたいものを、近づけたら?」
フィンは妹の方を見た。
「ミア、こっちへ来てくれる? 紙も一緒に」
「うん!」
ミアは色鉛筆をいったんまとめ、自分の紙を持って隣の席へ移った。フィンは帳面を少し寄せる。二枚を並べると、思っていたより狭い範囲に収まった。
照明の向きを調整し、もう一度確かめる。
帳面が読める。ミアの黄色い丸も見える。窓辺の花には、さっきのような明るい筋が届いていない。
「これなら、どうだ」
「おにいちゃんの、ろく!」
ミアが帳面の数字を指さした。
「それは九だよ」
「ろくににてるね」
「ひっくり返すと六になるんだ」
フィンは帳面を半回転させて見せた。ミアは真剣に眺めてから、自分の紙に戻る。
「ミアのまるも、ひっくりかえしたら、おんなじ!」
「丸はそうだな」
エルナが吹き出す。フィンも笑いながら、帳面を元の向きへ戻した。
昨日は紙の舟が行き来した机で、今日は二人の紙だけが少し近づいた。照明は静かに、その手元を照らし続けている。
最後の答えを書き終えたころ、台所から皿を並べる音が聞こえた。
「終わった!」
フィンは筆記具を置き、伸びをした。隣のミアは、さっきの黄色い丸の周りへ赤紫の線を描き足している。
「何になったんだ?」
「おはな。これからひらくの」
そう言って窓を指さしたミアの手が、途中で止まる。
「あっ」
フィンも顔を上げた。
花びらの先が、ほんの少しだけ外へほどけている。細い金色の筋が付け根から伸び、一枚ずつひらいていく。部屋を照らすほどの光ではない。窓の外の色が深まるにつれ、近くで見ると分かるほどの淡い輝きだった。
「母さん、花!」
台所からリディアが来た。皿を卓へ置いて窓辺へ寄り、しばらく何も言わずに眺める。
最後に重なっていた花びらも、ゆっくりほどけた。
「今日はみんなと見られたわね」
リディアは振り返って微笑んだ。
フィンの帳面には明かりが残り、ミアの紙にはまだ色を足せる。花は花で、夕方の暗さの中にひらいていた。
「宿題も終わったし、よかった」
「ミアのおえかきは、まだ!」
妹は胸を張って黄色い丸の周りへ、さらに一本、赤紫の花びらを足した。
「終わらなくてもいいの?」
エルナが尋ねる。
「いま、ひらいてるところだから!」
その言い方が何だか得意げで、エルナもリディアも笑った。
窓台の端にはルクスがいた。夕方まで、花と家族の動きをほとんど黙って見ていた白い姿である。先ほど光が窓辺へ届いていたときは、眩しそうに目を細めていたが、今は翼をたたみ、落ち着いた様子で座っている。
ミアが新しい花びらを描くたびに、ルクスの目が紙と本物の花を一度ずつ行き来した。
フィンが照明を片づけようと手を伸ばしかける。使い終わったなら止めてもいい。けれど、隣にはまだ絵を描いているミアがいる。
フィンはその手を引っ込め、妹の紙が明るいままであることを確かめた。
窓辺から、それを見ていたルクスが一言だけ落とした。
「その灯りは、そこに置いておけ」




