第68話 見開きの川を渡る
星冠暦826年・紅葉月18日・陽耀日
陽耀日の朝、エルナは居間の本棚の前で、しばらく背表紙を眺めていた。
学院の課題は昨日のうちに片づけてある。今日くらいは、何を調べるためでもなく、好きな本を読みたい。けれど棚から一冊抜いてみても、どうにも今の気分とは違った。
「姉ちゃん、何探してるの?」
朝食を終えたフィンが、空の皿を持って通りかかった。
「読む本」
「そこにいっぱいあるじゃん」
「あるんだけど、今日はまだ読んだことのない本がいいなと思って」
「じゃあ、図書館?」
「うん。行ってみようかな」
エルナが一冊を棚へ戻すと、フィンは少し不思議そうな顔をした。
「何を借りるか、決めてから行けばいいのに」
「決めてないから行くんだよ」
「そういうもの?」
「私にはね」
フィンは納得したようなしないような顔で台所へ向かった。
リディアへ出かけることを告げ、エルナは上着を羽織った。今日の鞄は軽い。筆記具も課題の本も持たず、借りたいものが見つかったら入れるつもりで、小さな手提げだけを持って家を出た。
*
リーデン市立西工房図書館は、その日も静かに開いていた。
厚い石壁の中へ入ると、外の風が遠ざかり、紙と木の匂いがした。高い窓から差し込む秋の日差しが、棚の間へ細長く伸びている。
返却台の奥では、低い木柵に囲まれた返架路を一冊の本が進んでいた。分類札の印に従ってゆっくり棚へ向かい、途中で止まることもなく、奥へ消えていく。
司書のマーレン・ヴィッテが、返却台から顔を上げた。
「こんにちは。今日は一人なのね」
「はい。何か面白そうな本がないかなと思って」
「調べ物?」
「いいえ。今日はただ、読みたいものを探しに来ました」
「それなら、ゆっくり見ていって」
マーレンは微笑み、手元の仕事へ戻った。
エルナは物語の棚へ向かった。厚い本、薄い本、古びた革表紙に、色鮮やかな紙の表紙。背表紙を眺めているだけでも、次々に気になるものが出てくる。
一冊を抜いて数頁めくり、戻す。隣の本を開いて、また戻す。
そのうち、下段に横長の大きな本を見つけた。
灰青色の表紙には、小さな石橋と、その下を行く舟が描かれている。飾りの少ない絵だったが、川の流れだけは細い線で丁寧に描き込まれていた。
エルナは本を抱え、窓の近くの閲覧卓へ運んだ。
表紙を開く。
厚い頁を左右へ広げると、見開きいっぱいに川が現れた。手前には石を積んだ岸、向こうには赤い屋根の家々。中央を横切る石橋の下には、濃い青色の陰が落ちている。
そこへ、小さな光が浮いた。
「……あれ?」
川の左端に描かれた舟の輪郭が、すっと明るくなった。
舟はゆっくり進み始める。水面の絵は動かない。ただ舟を形作る細い描線だけが、少しずつ位置を変えていた。
石橋へ近づく。
白い舳先が橋の陰へ入り、胴が続き、最後に船尾が消えた。
しばらくして、反対側からまた舳先が現れる。
舟は右端まで進むと淡く消え、少し間を置いて、最初の岸へ戻ってきた。
裏表紙の端には、小さな蓄魔石が埋め込まれていた。頁が十分に開かれている間だけ、固定された描線を順に表示する仕掛けなのだろう。川の絵も橋も動かず、舟だけが同じ道筋を繰り返している。
エルナは頁の下にある文章へ目を移した。
そのとき、隣から小さな声がした。
「それ、動くの?」
顔を上げると、エルナよりずっと小さな子が、閲覧卓の端に立っていた。
「うん。ほら、もうすぐ橋の下へ入るよ」
その子は卓へ顔を近づけた。
舟が橋の陰へ消える。
「あっ、いなくなった」
「少し待ってみて」
反対側から舟が現れると、その子の目が丸くなった。
「出てきた!」
少し大きくなった声に気づいたらしく、慌てて口元を押さえる。エルナも小さく笑った。
「一緒に見る?」
その子は嬉しそうに頷いた。
*
大きな本は、開いていても頁の端が少し持ち上がろうとした。
エルナが左側を押さえていると、その子が右側へ回り、そっと手を添えた。二人で支えると、見開きはきれいに広がった。
「ありがとう。これなら見やすいね」
「うん!」
舟はまた、左の岸から出発した。
二人で並んで眺めていると、今度はさっき見落としたものが目に入った。舟の後ろに短い線が残り、橋の手前で薄く消えていく。橋桁の陰には細い縦線がいくつもあって、舟の輪郭を少しずつ隠している。
「橋の下って、どうなってるんだろ」
その子が尋ねた。
「本当の舟なら、そのまま進んでいるんだろうね」
「見えないのに?」
「橋が邪魔して、こっちから見えないだけだから」
相手は真剣な顔で橋を眺めた。
もう一度、舟が消える。
今度は二人とも、反対側へ視線を移して待った。
「あ、出てきた」
「ちゃんと続いてたね」
エルナが言うと、その子は満足そうに頷いた。
それから、頁の下の文章へ目を向ける。
「これ、お話なんだよね?」
「そう。まだ最初の方しか読んでないけど」
「次はどこへ行くの?」
「それじゃ、めくってみようか」
二人で本を支える手を緩め、エルナが厚い頁を一枚めくった。川の上を進んでいた光の舟は、見開きが閉じると静かに消えた。
次の頁に現れたのは、船着き場だった。
木の桟橋が川へ伸び、その脇には一本の杭と、小さな長椅子が描かれている。岸には川を眺める人が一人立っていたが、舟の姿はまだなかった。
「お舟、いないね」
「そうだね」
エルナは短い文章を読んだ。そこに書かれているのは、川の向こうを眺める人の様子だった。舟がいつ着くのかは、まだ分からない。
その子は長椅子を指さした。
「ここ、誰か座るのかな」
「どうだろう」
「お舟が来るまで、待ってるところかもしれない」
「そうかもしれないね」
「でも、あの人、立ってるよ」
「じゃあ、まだ座るつもりがないのかな」
エルナが言うと、その子は少し考えた。
「お舟が見えたら、座らないで手を振るんじゃない?」
「あ、それはありそう」
二人は顔を見合わせて笑った。
エルナは次の頁へ進もうとして、ふと手を止めた。
船着き場の絵には、さっきのような動く描線はない。それなのに、その子はまだ長椅子と桟橋を交互に見ていた。
「もう少し、ここを見る?」
「うん。あの人、お舟を待ってる気がするから」
「じゃあ、もう少し」
エルナは次の頁へかけた指を戻した。
椅子に誰が座るのか、舟がどこへ着くのか。文章を先へ読めば分かることもあるのだろう。でも今は、まだ描かれていない出来事を二人で考えるのが面白かった。
窓から差す光が少しずつ移り、船着き場の絵の上にも、柔らかな影が伸びていた。
*
やがて、その子を迎えに来た大人が閲覧卓へ近づいた。
「そろそろ帰ろうか」
「うん。……あと一回だけ、最初のお舟、見てもいい?」
子どもが尋ねたのは、迎えの大人ではなくエルナだった。
「もちろん」
エルナは前の見開きへ戻した。小さな蓄魔石の光が戻り、川の左端に舟の輪郭が浮かぶ。
二人はもう一度、舟が進むところを見た。
石橋へ近づき、下へ入り、反対側へ出る。
その子は最後まで見届けてから、エルナへ顔を向けた。
「ありがとう」
「こちらこそ。一緒に見てくれてありがとう」
その子は大人と手をつなぎ、何度か振り返りながら棚の向こうへ歩いていった。
エルナはしばらく開いた頁を眺めていた。
舟は変わらず、左の岸から右の岸へ進んでいる。さっきまで二人で支えていた本は、今は自分の両手だけで押さえていた。
もう一度、舟が橋をくぐる。
今度は、その子が面白がっていた橋の陰ばかりに目が行った。最初に一人で読んだときには、そこまで気にしていなかった場所だった。
エルナは本を閉じた。
借りて帰ろうかとも考えたが、今日はここで読んだところまでで十分な気がした。大きな本を元の棚へ戻し、マーレンへ挨拶をして図書館を出た。
結局、一冊も借りなかった。
それでも帰り道では、見知らぬ子が橋の向こうへ舟を探していた顔が、何度も頭に浮かんだ。
*
「姉ちゃん、おかえり。何か借りてきた?」
家へ戻ると、フィンが居間から顔を出した。
「ただいま。今日は借りてこなかったよ」
「えっ、図書館まで行ったのに?」
「うん。でも、面白い本を読んできた」
「どんな?」
「小さな舟が動く本。頁を開くと、川を進んで橋をくぐるの」
「へえ、最後はどこに着いたんだ?」
「まだ知らない」
「なんだ、それ」
フィンが笑った。
「最後まで読んでないんだ。途中で、別の子と一緒に見てたから」
「そういうことか」
フィンはそれで納得したらしく、また自分の用事へ戻っていった。
居間の壁の「おえかきのおうち」から紙を出していたミアが、姉の話を聞いて顔を上げた。
「おねえちゃん、おふね?」
「うん。小さな舟が川を進むの」
「ひとりで?」
「本の中ではね。頁を開くだけで動くんだよ」
ミアは紙を一枚持ち上げた。
「じゃあ、ミアのおふねも、つくろう!」
「いいよ。折ってみる?」
「うん!」
エルナは机の上に紙を広げ、ミアと並んで座った。
半分に折り、角を合わせ、また開く。ミアは途中で折る向きを間違えたが、エルナが手を添えると、今度はちゃんと形になった。
できあがったのは、小さな紙舟だった。
ミアはそれを机の端へ置き、指先でそっと押した。
舟は少しだけ進んで、止まる。
「うごかない」
「自分で動かさないとね」
「じゃあ、おねえちゃん、そっち!」
ミアが机の向こう側を指さした。
エルナは反対側へ回り、両手を机の端に置いた。
「ここ?」
「うん。ミアが、おくる!」
ミアが紙舟を押す。
舟は机の真ん中まで進んだところで、少し横を向いて止まった。
「おねえちゃん、つづき!」
「はいはい」
エルナが指先で向きを直し、反対側の端まで動かす。
「ついた!」
「着いたね」
「じゃあ、こんどは、かえってくる!」
エルナが舟を押し返すと、ミアは両手を広げて迎えた。今度は真っすぐ進まず、途中でぐるりと向きを変える。
「あれ、こっち向いちゃった」
「いいの! まがるおふね!」
二人は笑いながら、何度も舟を行き来させた。
図書館で見た光の舟とは違い、勝手には進まない。橋も川もない、小さな机の上だった。それでも、どちらかが押すたび、もう一人が反対側で待っている。
窓辺では、ルクスが羽を整えながら二人を眺めていた。エルナが図書館の話をしている間も、ずっとそこにいた。
ミアがまた舟を押し出す。
「おねえちゃん、もういっかい!」
「いいよ。今度はこっちまでね」
紙舟が机の真ん中へ進み、エルナが受け取る。向きを変えると、ミアが身を乗り出して笑った。
ルクスはその様子を一度だけ見下ろし、嘴を翼へ戻しかけた。
「本の舟は勝手に進んだんだろ。……そっちは二人がかりで、まだ終わらないのか」




