第67話 光のふちを通る泡
星冠暦826年・紅葉月17日・土耀日
土耀日の庭で、フィンが最初に作った泡は、掌よりひと回り大きかった。
細い吹き輪へそっと息を送ると、薄い膜が丸く膨らみ、最後にふるりと輪から離れた。秋の風が横から吹き、泡は石段の上を越えていく。
「よし、いいぞ!」
フィンは目で追った。ところが、白っぽい石壁の前まで来たところで、泡の輪郭が日差しに紛れてしまった。
「あれ、どこ行った?」
「とんでったよ!」
泡遊び用の薄い液を入れた小皿の横で、ミアが得意そうに答えた。見えていたのは飛んだところまでらしい。
今朝、フィンが「大きな泡を作りたい」と言ったので、オスカーは細い針金の継ぎ目を丸め、手を傷つけない吹き輪にしてくれた。泡液を飲まないこと、目の高さで輪を振らないこと、泡を追って走らないことも言われている。だからフィンは、その場に立ったまま空を見上げた。
「もっと大きいのができれば、遠くまで見えると思ったんだけどな」
「ミア、もういっこ見たい!」
「じゃあ今度は、どこで消えるか教えてくれよ」
返事を待たずに吹くと、小さな泡が二つ続けて生まれた。大きさは目当てとは違ったが、一つがもう一つを追い越すように流れていくのは面白かった。ミアが指で行き先を示し、フィンも顔を向ける。二つは別々の高さへ散り、やがて庭木の葉に触れて消えた。
*
昼食のあと、フィンは離れの戸を叩いた。
「じいちゃん、減光環を一枚借りてもいい?」
出てきたアルノは、フィンの手の吹き輪を見た。
「陰りを作るあれか。泡に何かしたいのかの?」
「泡には何もしないよ。こっちが見やすくなるか、試したいんだ。明るい壁の前だと見失うからさ」
「ふむ。光の方なら、少し変えられるな」
アルノが離れから持ってきたのは、掌ほどの黒い環だった。以前は庭の読書に使い、あとには居間の遊びにも貸した個人研究用の補助具である。小型の蓄魔石と解除紐は、今もそのまま付いていた。
庭の開けた場所へ安定した木製の支持台を据え、アルノが環を固定した。輪そのものより広い範囲へ、下向きに作用する。子どもたちは台から離れた石段側に場所を決めた。
「ここで吹けば、低く流れた泡があの下を通るかもしれん。ただし風任せじゃ。台を動かして追うのはなしじゃぞ」
「うん。待ってみる」
アルノが起動すると、環の下の石畳に柔らかな丸い陰りができた。外縁には、中央から移された光が、ごく薄く広がっている。三枚を重ねたときのような目立つ光輪ではなく、立つ場所を変えると見落としそうな淡さだった。
その頃、エルナが本を持って庭へ出てきた。
「何してるの? その環、また使うんだ」
「泡が端を通ったら、見え方が変わるかなって」
「風は変わらないよ?」
「だから飛んでくるのを待つんだよ」
エルナは本へ栞を挟み、石段へ腰を下ろした。
「じゃあ私も待とうかな」
*
最初の泡は陰りの手前で高く浮かび、二つ目は反対側へ流れた。三つ目がゆっくり低くなり、減光環の下へ入った。
フィンが息を止める。さっきまで薄く色づいていた丸い膜が、陰りの中ではほとんど見えなくなった。けれど風に流され、円の外縁へ近づいたときだった。
「あっ」
泡の片側に、短い虹色が浮いた。外縁へ広がった淡い光を薄い膜が拾い、青や金色が一瞬だけ浮かんだのだ。次の瞬間には、何でもない透明な泡へ戻っていた。
「いま、きれいだった!」
ミアが声を上げる。
「見た、姉ちゃん?」
「うん。でも一瞬だったね」
泡はそのまま庭の向こうへ流れ、葉の陰に入って見えなくなった。フィンはすぐ次を吹かず、さっき色が見えた場所を眺めた。
「もう一回、あそこを通ってほしいなあ」
「泡には伝わらないよ」
「うん。でも、また来るかもしれないだろ」
エルナが笑い、手を差し出した。
「その吹き輪、私もやってみていい?」
「もちろん。大きいの作れる?」
「吹く前から大きさを決めないでよ」
エルナは薄い膜を確かめ、慎重に息を吹き込んだ。ところが、丸くなる前に膜が破れてしまう。
「……あれ」
「姉ちゃん、息が強い!」
「今のは、そうだったみたい」
今度はゆっくり息を送る。生まれたのは、フィンのものよりずっと小さな泡だった。二人で顔を見合わせる間に、泡はふわりと陰りの上を越えていった。
「上を通っちゃった」
「でも、あれもきれいだよ」
ミアが見上げた先で、小さな泡は日差しを拾って淡い色を変えている。特別な縁の光がなくても、空の色を透かした薄い丸はよく見えた。
「たしかに」
エルナは吹き輪をフィンへ返した。今度はフィンが、小さい泡を一つ、もう一つと続けて吹く。風に乗った二つは別々の道を取り、片方だけが陰りの縁をかすめた。小さな色が一度きらめき、すぐ消える。
庭の塀に白い影が降りた。ルクスだった。
フィンは吹き輪を持ったまま顔を上げた。
「ルクス、今の見た?」
返事はない。白い頭が、庭を横切る泡を一度だけ追った。
少し遅れて飛んできた別の泡が、塀の上の白い翼へ近づく。ルクスは嘴を羽から離し、身をわずかに引いた。泡は羽に触れず、塀の向こうへ抜けた。
「ルーちゃん、よけた!」
ミアが笑う。ルクスは片目を細めてから、何もなかったように羽づくろいを再開した。
*
ほどなく、石畳の丸い陰りが少しずつ薄れ始めた。起動から十分ほど。減光環の一回分の働きが終わるころだった。
「そろそろおしまいじゃな」
アルノが戻ってきて、表示が落ち着いたのを確かめる。解除紐に触れて完全に停止させてから、環を支持台から外した。
「もう一度使うかの?」
フィンは小皿の底を覗いた。泡液は、あと数回分だけ残っている。
「ううん。最後はこのまま飛ばす。ありがと、じいちゃん」
「そうか。それなら、わしはこれを戻してこよう」
アルノは減光環と支持台を持って離れへ帰った。庭の石畳には、いつもの午後の光が落ちていた。
フィンは石段へ腰を下ろした。吹き輪に残りの液をつけ、息をゆっくり送る。今度できたのは、最初の大きな泡よりずっと小さい、一つだけの丸だった。
風に押されて石段を離れ、低木の前を通る。三人は黙ってそれを見送った。虹色が一瞬現れては消え、泡はゆっくり庭木の枝へ近づいていく。
途中、葉と葉の間に入ったところで、フィンの目から見えなくなった。
「どこ行った?」
ミアが首を伸ばし、エルナも少し身を乗り出す。塀の上では、ルクスがちょうどその枝の先を見ていた。
やがてフィンは追うのをやめ、小皿を片づけた。泡液がこぼれないよう運び、吹き輪を洗う。ミアも使った道具を持ってきて、三人で手を洗った。
庭へ戻ると、ルクスはまだ塀の上にいた。
「ルクス。最後のも見えた?」
ルクスは嘴を翼から離した。枝の先を一度見てから、フィンへ顔を向ける。
「あの枝先で割れた。……ずいぶん長く眺めたくせに、最後だけ見逃すんだな」




