第66話 ひと口は店先で
星冠暦826年・紅葉月16日・金耀日
温かい丸パンが食べたい。
オスカーがそう思ったのは、午後の工房で道具を片づけているときだった。
今日の作業はひとまず済んでいる。修理を終えた魔法具は所定の棚へ戻し、使った工具も揃えた。急ぎの仕事が残っているわけではない。
それなのに、なぜか焼き色のついた丸パンが頭から離れなかった。
表面は少し固く、中は柔らかい。二つに割れば、白い生地がふんわり離れる。そんなものを、まだ温かいうちに一つ食べたい。
時計を見る。
そろそろミアを迎えに行く時間だった。
「……ちょうどいいな」
学舎からの帰り道を少し変えれば、パンを売る店へ寄れる。自分の分を一つ買うだけのつもりだったが、ミアも一緒ならきっと欲しがるだろう。
オスカーは工房を離れる支度を済ませ、母屋のリディアへ声をかけた。
「ミアを迎えに行ってくる。帰りに少し寄ってもいいか?」
「どこへ?」
「パンを買いに」
「夕食用のパンなら、まだあるわよ」
「いや、俺が食べたいんだ。温かいのを一つ」
リディアは一瞬きょとんとして、それから笑った。
「あら、いいわね。じゃあ、温かいうちに食べていらっしゃい」
「まだ買えてもいないけどな」
そう答えながら、オスカーはすでに少し楽しみになっていた。
*
リーデン市立花鈴幼年学舎の門では、子どもたちが迎えの家族と順に帰り支度をしていた。
オスカーを見つけたミアが、ぱっと顔を輝かせる。
「パパ!」
「おう。今日も元気だったか?」
「うん! きょうね、いっぱいあそんだ!」
ミアは担当教員のクララ・ヴェントへ挨拶を済ませ、父の手を握った。オスカーも軽く頭を下げ、二人で門を離れる。
「ミア、今日は少し違う道で帰ってもいいか?」
「ちがうみち?」
「パンを買いに行こうと思ってな」
「パン!」
「父さんが食べたくなったんだ。ミアも食べるか?」
「たべる!」
返事は迷いがなかった。
「じゃあ決まりだ」
石畳の通りを歩きながら、ミアは今日学舎で遊んだことを次々に話した。オスカーはそのたびに相槌を打ち、ときどき質問する。話が一つ終わる前に次が始まるので、何をして遊んだのか、全部は分からなかった。
それでも、ミアが楽しい一日を過ごしたことだけは、よく分かった。
やがて曲がり角の向こうから、焼いた小麦の香りが漂ってきた。
「あっ」
ミアが顔を上げる。
「パンのにおい!」
「もう少しだぞ」
通りに面した小さな店の売台には、丸パンや焼き菓子が並んでいた。店の奥では、売り手が焼き上がった品を籠へ移している。
オスカーの目を引いたのは、売台の中央に置かれた浅い石皿だった。
灰色の皿の縁には細い術式線が巡り、脇の小さな蓄魔石が淡い橙色に光っている。皿の上には、焼き色のついた丸パンがいくつか並んでいた。
「いらっしゃい」
「この丸パン、まだ温かいですか?」
「ええ。焼いてから少し経っていますが、保温皿の上に置いてありますから」
売り手は石皿を示した。
その皿には、上の限られた範囲で温かなものから熱が逃げる速さを弱める術式が組み込まれていた。蓄魔石の魔力で穏やかに働き、焼き上がったパンの温かさを長く保つ。ただし、冷めきったものを焼きたてに戻すわけではない。
皿から取り出せば、魔法の作用は届かなくなる。
「なるほど。だから午後でも温かいんですね」
オスカーは皿の縁を眺めた。職人の癖で、つい術式線の通り道を目で追ってしまう。
その袖を、ミアが引いた。
「パパ、どれ?」
「ああ、そうだった」
オスカーは笑って、丸パンへ視線を戻した。
「父さんは、これにしようかな」
「ミア、こっち!」
ミアが選んだのは、少し小さく、表面に浅い切れ目の入った丸パンだった。
「じゃあ、その二つをください」
売り手が紙で一つずつ包んで渡してくれる。受け取ると、紙越しに柔らかな温もりが伝わってきた。
「あったかい!」
ミアが包みを両手で持ち上げた。
「そうだな。まだ十分温かい」
「おうちまで、あったかい?」
「家に着くころには、少し冷めるだろうな」
ミアは包みを見つめ、それから店先へ目を向けた。
「じゃあ、ここでたべよう!」
「父さんも、そのつもりだった」
店の脇には小さな腰掛けがあった。二人は手をきれいにしてから、そこへ並んで座った。
*
包みを開くと、丸パンの表面には薄い焼き色がついていた。
オスカーが一口かじる。
さくり、と表面が軽く割れ、柔らかな生地が口の中に広がった。噛むと小麦の甘さがあり、あとから少し塩気が残る。
「……うまいな」
思わず声が出た。
隣ではミアが、自分の丸パンを両手で持っている。
「あむっ」
小さな口で一口かじり、ゆっくり噛む。
目が丸くなった。
「おいしい!」
「そうか」
「パパも?」
「父さんもおいしい」
二人で顔を見合わせて笑った。
通りでは荷運車がゆっくり走り、店の奥からは紙袋を扱う音が聞こえてくる。石畳を歩く人々も、それぞれの用事で通りを行き交っていた。
店先の保温皿は、今も淡く光っている。
オスカーが手にしているパンには、もう皿の魔法は届いていない。食べているあいだにも、温もりは少しずつ薄れていく。
それでも、急いで食べる必要はなかった。
ミアは一口食べるたびに、父のパンと自分のパンを見比べていた。
「パパの、おっきい」
「父さんの方が大きいのを選んだからな」
「ミアの、ちっちゃい」
「そっちがいいって言っただろ」
「うん!」
ミアは嬉しそうに頷き、また一口かじった。
しばらくして、ミアが売台の方を見た。
「パパ」
「ん?」
「あのおさら、パパもつくれる?」
「そうだな。ああいう仕組みのものなら作れると思うぞ」
「じゃあ、おうちにも?」
オスカーは手元の丸パンを見た。
「うーん。でも、今日は作らないな」
「なんで?」
「今日はパンを買いに来たからだよ」
ミアが首を傾げた。
「パパ、おきゃくさん?」
「そう。今日は父さんもお客さん」
「ミアも?」
「もちろん」
ミアは少し考え、それから誇らしそうに胸を張った。
「ミア、おきゃくさん!」
「うん。立派なお客さんだ」
そう言うと、ミアはもう一度丸パンを持ち上げた。
「おきゃくさん、おいしいね!」
オスカーは吹き出した。
「お客さんだからおいしいわけじゃないけどな」
「でも、おいしい!」
「それは間違いない」
パンの最後の一口を食べ終えるまで、二人は腰掛けに並んでいた。
*
食べ終わったころには、紙の包みからも温もりがほとんど消えていた。
ミアは最後の欠片を口へ入れ、空になった包みを広げた。
「なくなっちゃった」
「食べたからな」
「おいしかったね」
「ああ。来てよかった」
ミアは店の方を振り返った。
「ママも、おいしいっていうかな」
「きっと言うと思うぞ」
「おねえちゃんも?」
「うん」
「おにいちゃんも、おじいちゃんも?」
「たぶんな」
ミアは少し考えてから、父を見上げた。
「おうちにも、かってかえろう?」
オスカーも売台を見た。
「そうしようか」
二人で立ち上がり、もう一度店へ戻る。
「またいらっしゃい」
売り手が笑った。
「おいしかったので、持ち帰る分もお願いします」
オスカーは小さな丸パンをいくつか選び、まとめて包んでもらった。
今度はすぐに食べるわけではない。家に着くまでに、保温皿の温かさは失われるだろう。
ミアもそのことは覚えていた。
「おうちのパン、つめたくなる?」
「少しはな。でも、冷めてもおいしいパンだよ」
「じゃあ、だいじょうぶ!」
ミアは満足そうに頷いた。
帰り道、オスカーは紙袋を持ち、ミアはその横から片手を添えた。
袋は小さく、父一人でも十分持てる重さだった。それでもミアは、家へ着くまでずっと手を離さなかった。
*
風見鶏通り17番地へ戻ると、フィンが玄関から顔を出した。
「おかえり。なんかいい匂いする」
「パン!」
ミアが答える。
「パパと、あったかいの、たべた!」
「えっ、いいなあ」
「お前たちの分も買ってきたぞ」
オスカーが袋を見せると、フィンはすぐ笑顔になった。
「やった!」
居間にいたエルナも顔を上げた。
「それ、今食べていいの?」
「夕食前だから、少しずつにしましょうね」
台所から出てきたリディアが、紙袋を受け取った。
「ありがとう。ちゃんと温かいうちに食べられた?」
「ああ。店先でミアとな」
「よかったわね」
リディアは嬉しそうに微笑んだ。
夕食の支度が進む前に、持ち帰ったパンは小さく切り分けられた。アルノも離れから顔を出し、家族で少しずつ味わうことになった。
「ふむ。よい焼き色じゃな」
アルノが一切れ取る。
「そうでしょう、お義父さん」
「お前さんが焼いたわけではなかろう」
「分かってますよ!」
オスカーが笑うと、フィンもつられて笑った。
エルナは自分の分を一口食べ、ゆっくり頷いた。
「冷めてても、ちゃんとおいしいね」
「そうだろ」
オスカーは満足そうだった。
その横で、ミアが得意げに言った。
「ミアとパパのは、あったかかった!」
「店で食べたんだよな」
フィンが聞く。
「うん! パパ、きょうはおきゃくさんだった!」
「父さんだって買い物くらいするだろ」
「でも、なにもなおさなかった!」
オスカーは少しだけ困った顔をした。
「別に、毎日何かを直してるわけじゃないぞ」
「そうかなあ」
フィンが言い、エルナまで笑う。
「お父さん、買い物に行っても魔法具を見ちゃうでしょ」
「……今日は、パンの方をちゃんと見てたよ」
「それならよかった」
リディアが静かに笑った。
食べ終わった皿が片づけられ、家族はそれぞれの用事へ戻っていった。
オスカーは空になった紙袋を手に取り、何となく折り畳み始めた。
端を揃え、指で折り目をなぞる。
片側がほんの少しずれたので、一度開いて畳み直した。
作業台で薄い素材を扱うときと同じように、指先が勝手に動く。
窓辺では、ルクスがその様子を眺めていた。
オスカーがもう一度袋の角を揃えようとすると、白い頭がわずかに傾いた。
「パンはもう食ったんだろ。……空の袋まで仕上げてどうする、オスカー」




