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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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65/87

第65話 軒先の風の切れ目

 星冠暦826年・紅葉月15日・木耀日

 朝の風見鶏通り17番地は、いつもどおり賑やかだった。

 エルナが鞄の留め具を確かめる横で、フィンが片方の靴を履き直している。ミアは居間の窓辺へ背伸びをし、昨日リディアが買ってきた鉢植えを眺めていた。夕方には大きくひらいていた赤紫の花が、今朝はまた細くすぼまっている。

「おはな、もうとじちゃった」

「明るくなると閉じるのよ。また夕方になったら見られるわ」

 リディアの声にミアが頷く。

 窓の端では、ルクスが羽づくろいをしていた。翼の内側へ嘴を入れ、一本ずつ羽を整える。そこへフィンの声が飛び、ミアが返事をし、オスカーが工房から顔を出す。

 何かあるたび、家の中の声が重なった。

 ルクスは一度、羽づくろいをやめた。

 窓の外では、秋の風が屋根の上を渡っている。日差しは穏やかで、空には薄い雲が少し浮かんでいるだけだった。

 白い翼がひらく。

 誰かに行き先を告げることもなく、ルクスは窓台から飛び立った。

 *

 西工房区の屋根の上は、見た目ほど穏やかではなかった。

 通りを隔てた建物の間から風が吹き上がり、翼の下へ入り込む。飛んでいる間は構わない。羽の角度を少し変えれば、風はむしろ都合よく身体を運んでくれる。

 だが、腰を落ち着けるとなると話は別だった。

 石屋根の端へ降りる。胸元の羽が逆立つ。少し低い軒へ移ると、今度は横から吹く風が尾羽を揺らした。

 ルクスは嘴で羽を整え、また飛び立った。

 別に急ぐ理由はない。今日はどこへ行かなければならないという用事もなかった。静かなところで羽を休めたいなら、場所くらい自分で探せばいい。

 通りの上を低く飛んでいたとき、不思議な一角が目に留まった。

 トビアス・ヘルンの紙店だった。

 店先に吊られた布看板は風に揺れている。入口脇の軽い紙片も、端をぱたぱたとはためかせていた。

 ところが軒下の作業台では、広げられた薄紙がほとんど動いていない。

 重石で押さえつけられているわけではない。紙の角は少し浮いているのに、そこからめくれ上がることもなかった。

 ルクスは軒先へ降りた。

 作業台の左右には細い木枠が立ち、上部の横木に小さな蓄魔石が取り付けられている。通り側には、風を受けて動く薄い金属片があった。

 風が吹く。

 金属片が揺れ、蓄魔石の淡い光がわずかに強まった。

 枠の内側を通る横風の勢いが弱まる。すべての空気を止めるわけではないらしい。涼しさは残るが、紙の端を持ち上げるような強い流れだけが抑えられていた。

 ルクスは木枠の横桟へ足をかけた。

 さっきまで風に乱されていた胸元の羽が、すっと落ち着く。

 なかなか悪くない。

 作業台では、トビアスが薄紙の端を揃えていた。何枚か重ねては角を確かめ、皺がつかないよう手のひらを滑らせる。ルクスに気づくと、一度だけ顔を上げた。

「おや、珍しいところに」

 ルクスは何も答えない。

「そこならいいが、下の紙には乗らないでおくれよ」

 紙の束と横桟の位置を見比べ、ルクスは桟の端へ一歩移った。

「ありがとう」

 トビアスはそれだけ言って、また仕事へ戻った。

 人を呼び集めることも、あれこれ尋ねることもない。

 ルクスは翼を畳み、ようやく落ち着いて羽づくろいを始めた。

 *

 薄紙は、重ねるたびに小さく音を立てた。

 かさり。

 また一枚。

 かさり。

 トビアスの手は急がない。紙の角を揃え、端を確かめ、重ね終わった束を横へ寄せる。それから次の紙を広げる。

 通りでは荷運車が低い駆動音を立てて過ぎていった。軒の外を風が吹くと、布看板がぱたぱた鳴る。

 それでも木枠の内側は穏やかだった。

 風受けの金属片がほとんど動かなくなると、蓄魔石の光も弱まる。次の横風が来ればまた少し明るくなり、台の上を通る空気の勢いを抑えた。

 ルクスは一度、横桟から身体を乗り出してみた。

 嘴の先へ風が当たる。胸元の羽が少し持ち上がった。

 元の位置へ戻ると、羽は静かになった。

 木枠は、ルクスの好みに合わせて働いているわけではない。風がどちらから入り、どのくらい強いか。それだけで作用が決まっている。

 紙であろうと、鳥の羽であろうと、その範囲にあるものは同じ穏やかな空気の中に置かれる。

 ルクスは横桟へ深く腰を落ち着けた。

 やがて客が一人、紙を選びにやってきた。

 店内へ向かいかけた足が、軒先で止まる。

「あれ、白い鳥だ。ここの鳥かい?」

 トビアスは紙の束から顔を上げた。

「いや、今はここで休んでいるだけじゃないかな」

「へえ。ずいぶんおとなしいね」

 客は少し離れたところから眺め、それ以上近づかなかった。

 ルクスも目だけを向け、すぐに通りの方へ戻す。

 客が店内へ入ると、また紙を重ねる音が聞こえ始めた。

 しばらくしてトビアスが、大きな紙巻きを作業台の脇へ置こうとした。横桟の端まで腕が届く。

 ルクスは翼を少し開き、邪魔にならない側へ移った。

 その拍子に身体の半分が木枠の外へ出て、横風が白い羽をふわりと持ち上げる。

 一瞬、尾羽が広がった。

 ルクスは何事もなかったように向きを直した。

 トビアスは紙巻きを置き終えると、横桟から手を離した。

「もう大丈夫だよ」

 ルクスは返事をしない。ただ、風の弱い方へ戻り、ゆっくり翼を畳んだ。

 それからも紙店の仕事は続いた。

 薄紙が一枚ずつ重なり、揃った束が台の端へ増えていく。通りを行く人は時折入れ替わったが、軒先の静けさは大きく変わらなかった。

 何度か風が強まるたび、蓄魔石が淡く光った。

 ルクスはもう風を確かめようとはせず、横桟の上で目を細めていた。

 *

 午後の光が傾き始めると、通りを歩く子どもたちの声が少しずつ増えてきた。

 学校から帰る時間なのだろう。鞄を揺らしながら二人で歩く子もいれば、道端で何かを見つけ、足を止める子もいる。

 紙店の軒先は、まだ静かだった。

 トビアスは新しい束を広げている。木枠も変わらず働いていた。横桟には十分な広さが残り、風は穏やかに抑えられている。

 ルクスは顔を上げた。

 通りの向こう、屋根の連なる先に風見鶏通りがある。

 あの家では、そろそろ子どもたちが戻ってくるころだろう。フィンは鞄を置くなり別のことを始め、エルナは本を開き、ミアは朝見た花のことをまた尋ねるかもしれない。

 確かめに行く必要はない。

 ここは静かだし、誰にも邪魔されない。もう少し羽を休めていても、何も困らなかった。

 ルクスは一度、目を閉じた。

 次の風が木枠の外を通り過ぎる。

 しばらくして、白い翼がひらいた。

 横桟から飛び立ち、風よけの範囲を抜ける。横風が翼の下へ流れ込んできた。ルクスは少しだけ身体を傾け、その風を受けて高度を上げた。

 トビアスが紙の上から顔を上げる。

「ああ、行くのかい」

 ルクスは振り返らなかった。

 紙店の軒先はまだ穏やかで、薄紙の端も静かなままだった。

 当日の紙作業を終えたトビアスは、やがて風よけを停止させ、仮設の木枠を外して店内へ片づけた。

 軒先には、また普段の風が通った。

 *

 風見鶏通り17番地へ戻ると、母屋の中から声が聞こえてきた。

「だから、その本、先に見るって言っただろ」

「見てもいいけど、頁を折らないでよ」

「折ってないって!」

 フィンとエルナだった。

 窓からはリディアの声も聞こえる。

「二人とも、本が破れるほど引っぱらないの」

「引っぱってないよ、お母さん」

「俺も引っぱってない!」

 そのやり取りの向こうで、ミアが何かを歌うように話していた。

 ルクスは庭の低い石段へ降りた。

 軒先で弱められていたのとは違い、ここでは風がそのまま羽の間へ入ってくる。庭木の葉が揺れ、乾いた一枚が石畳を滑った。

 母屋の戸が開き、ミアが顔を出した。

「あっ、ルーちゃん!」

 ルクスは返事をしない。

「おかえり!」

 ミアは庭へ一歩出て、石段のそばで立ち止まった。

「ルーちゃん、どこいってたの?」

 白い頭が、わずかに動く。

 ミアは答えを待ちながら、足元の乾いた葉を見つけた。拾おうとしてしゃがみ込んだが、風が先に葉を動かしてしまう。

「あっ」

 葉は石段の脇を通り抜け、庭の端へ転がっていった。

 ミアは追いかけず、その行き先を見送った。

「かぜ、つよいね」

 ルクスは翼の端を整えた。

 今朝から探していた穏やかな場所なら、さっきの紙店にあった。横桟は広く、紙を重ねる音も静かだった。誰にも居場所を決められず、好きなだけ休んでいられた。

 ここは違う。

 風は吹くし、家の中は騒がしい。誰かが話し始めれば、別の誰かが返事をする。窓の向こうでは、またフィンとエルナの声が重なっていた。

 それでもルクスは、石段から動かなかった。

 台所の方でオスカーが何か言い、リディアが笑う。ミアはその声へ顔を向けたが、すぐまた白い姿を見上げた。

「ルーちゃん、どこまでいったの?」

 ルクスは足元を一度確かめ、翼を畳み直した。

「風の静かな軒先までだ。……悪くない場所だったが、ずっとそこにいる理由もないだろ」


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