第65話 軒先の風の切れ目
星冠暦826年・紅葉月15日・木耀日
朝の風見鶏通り17番地は、いつもどおり賑やかだった。
エルナが鞄の留め具を確かめる横で、フィンが片方の靴を履き直している。ミアは居間の窓辺へ背伸びをし、昨日リディアが買ってきた鉢植えを眺めていた。夕方には大きくひらいていた赤紫の花が、今朝はまた細くすぼまっている。
「おはな、もうとじちゃった」
「明るくなると閉じるのよ。また夕方になったら見られるわ」
リディアの声にミアが頷く。
窓の端では、ルクスが羽づくろいをしていた。翼の内側へ嘴を入れ、一本ずつ羽を整える。そこへフィンの声が飛び、ミアが返事をし、オスカーが工房から顔を出す。
何かあるたび、家の中の声が重なった。
ルクスは一度、羽づくろいをやめた。
窓の外では、秋の風が屋根の上を渡っている。日差しは穏やかで、空には薄い雲が少し浮かんでいるだけだった。
白い翼がひらく。
誰かに行き先を告げることもなく、ルクスは窓台から飛び立った。
*
西工房区の屋根の上は、見た目ほど穏やかではなかった。
通りを隔てた建物の間から風が吹き上がり、翼の下へ入り込む。飛んでいる間は構わない。羽の角度を少し変えれば、風はむしろ都合よく身体を運んでくれる。
だが、腰を落ち着けるとなると話は別だった。
石屋根の端へ降りる。胸元の羽が逆立つ。少し低い軒へ移ると、今度は横から吹く風が尾羽を揺らした。
ルクスは嘴で羽を整え、また飛び立った。
別に急ぐ理由はない。今日はどこへ行かなければならないという用事もなかった。静かなところで羽を休めたいなら、場所くらい自分で探せばいい。
通りの上を低く飛んでいたとき、不思議な一角が目に留まった。
トビアス・ヘルンの紙店だった。
店先に吊られた布看板は風に揺れている。入口脇の軽い紙片も、端をぱたぱたとはためかせていた。
ところが軒下の作業台では、広げられた薄紙がほとんど動いていない。
重石で押さえつけられているわけではない。紙の角は少し浮いているのに、そこからめくれ上がることもなかった。
ルクスは軒先へ降りた。
作業台の左右には細い木枠が立ち、上部の横木に小さな蓄魔石が取り付けられている。通り側には、風を受けて動く薄い金属片があった。
風が吹く。
金属片が揺れ、蓄魔石の淡い光がわずかに強まった。
枠の内側を通る横風の勢いが弱まる。すべての空気を止めるわけではないらしい。涼しさは残るが、紙の端を持ち上げるような強い流れだけが抑えられていた。
ルクスは木枠の横桟へ足をかけた。
さっきまで風に乱されていた胸元の羽が、すっと落ち着く。
なかなか悪くない。
作業台では、トビアスが薄紙の端を揃えていた。何枚か重ねては角を確かめ、皺がつかないよう手のひらを滑らせる。ルクスに気づくと、一度だけ顔を上げた。
「おや、珍しいところに」
ルクスは何も答えない。
「そこならいいが、下の紙には乗らないでおくれよ」
紙の束と横桟の位置を見比べ、ルクスは桟の端へ一歩移った。
「ありがとう」
トビアスはそれだけ言って、また仕事へ戻った。
人を呼び集めることも、あれこれ尋ねることもない。
ルクスは翼を畳み、ようやく落ち着いて羽づくろいを始めた。
*
薄紙は、重ねるたびに小さく音を立てた。
かさり。
また一枚。
かさり。
トビアスの手は急がない。紙の角を揃え、端を確かめ、重ね終わった束を横へ寄せる。それから次の紙を広げる。
通りでは荷運車が低い駆動音を立てて過ぎていった。軒の外を風が吹くと、布看板がぱたぱた鳴る。
それでも木枠の内側は穏やかだった。
風受けの金属片がほとんど動かなくなると、蓄魔石の光も弱まる。次の横風が来ればまた少し明るくなり、台の上を通る空気の勢いを抑えた。
ルクスは一度、横桟から身体を乗り出してみた。
嘴の先へ風が当たる。胸元の羽が少し持ち上がった。
元の位置へ戻ると、羽は静かになった。
木枠は、ルクスの好みに合わせて働いているわけではない。風がどちらから入り、どのくらい強いか。それだけで作用が決まっている。
紙であろうと、鳥の羽であろうと、その範囲にあるものは同じ穏やかな空気の中に置かれる。
ルクスは横桟へ深く腰を落ち着けた。
やがて客が一人、紙を選びにやってきた。
店内へ向かいかけた足が、軒先で止まる。
「あれ、白い鳥だ。ここの鳥かい?」
トビアスは紙の束から顔を上げた。
「いや、今はここで休んでいるだけじゃないかな」
「へえ。ずいぶんおとなしいね」
客は少し離れたところから眺め、それ以上近づかなかった。
ルクスも目だけを向け、すぐに通りの方へ戻す。
客が店内へ入ると、また紙を重ねる音が聞こえ始めた。
しばらくしてトビアスが、大きな紙巻きを作業台の脇へ置こうとした。横桟の端まで腕が届く。
ルクスは翼を少し開き、邪魔にならない側へ移った。
その拍子に身体の半分が木枠の外へ出て、横風が白い羽をふわりと持ち上げる。
一瞬、尾羽が広がった。
ルクスは何事もなかったように向きを直した。
トビアスは紙巻きを置き終えると、横桟から手を離した。
「もう大丈夫だよ」
ルクスは返事をしない。ただ、風の弱い方へ戻り、ゆっくり翼を畳んだ。
それからも紙店の仕事は続いた。
薄紙が一枚ずつ重なり、揃った束が台の端へ増えていく。通りを行く人は時折入れ替わったが、軒先の静けさは大きく変わらなかった。
何度か風が強まるたび、蓄魔石が淡く光った。
ルクスはもう風を確かめようとはせず、横桟の上で目を細めていた。
*
午後の光が傾き始めると、通りを歩く子どもたちの声が少しずつ増えてきた。
学校から帰る時間なのだろう。鞄を揺らしながら二人で歩く子もいれば、道端で何かを見つけ、足を止める子もいる。
紙店の軒先は、まだ静かだった。
トビアスは新しい束を広げている。木枠も変わらず働いていた。横桟には十分な広さが残り、風は穏やかに抑えられている。
ルクスは顔を上げた。
通りの向こう、屋根の連なる先に風見鶏通りがある。
あの家では、そろそろ子どもたちが戻ってくるころだろう。フィンは鞄を置くなり別のことを始め、エルナは本を開き、ミアは朝見た花のことをまた尋ねるかもしれない。
確かめに行く必要はない。
ここは静かだし、誰にも邪魔されない。もう少し羽を休めていても、何も困らなかった。
ルクスは一度、目を閉じた。
次の風が木枠の外を通り過ぎる。
しばらくして、白い翼がひらいた。
横桟から飛び立ち、風よけの範囲を抜ける。横風が翼の下へ流れ込んできた。ルクスは少しだけ身体を傾け、その風を受けて高度を上げた。
トビアスが紙の上から顔を上げる。
「ああ、行くのかい」
ルクスは振り返らなかった。
紙店の軒先はまだ穏やかで、薄紙の端も静かなままだった。
当日の紙作業を終えたトビアスは、やがて風よけを停止させ、仮設の木枠を外して店内へ片づけた。
軒先には、また普段の風が通った。
*
風見鶏通り17番地へ戻ると、母屋の中から声が聞こえてきた。
「だから、その本、先に見るって言っただろ」
「見てもいいけど、頁を折らないでよ」
「折ってないって!」
フィンとエルナだった。
窓からはリディアの声も聞こえる。
「二人とも、本が破れるほど引っぱらないの」
「引っぱってないよ、お母さん」
「俺も引っぱってない!」
そのやり取りの向こうで、ミアが何かを歌うように話していた。
ルクスは庭の低い石段へ降りた。
軒先で弱められていたのとは違い、ここでは風がそのまま羽の間へ入ってくる。庭木の葉が揺れ、乾いた一枚が石畳を滑った。
母屋の戸が開き、ミアが顔を出した。
「あっ、ルーちゃん!」
ルクスは返事をしない。
「おかえり!」
ミアは庭へ一歩出て、石段のそばで立ち止まった。
「ルーちゃん、どこいってたの?」
白い頭が、わずかに動く。
ミアは答えを待ちながら、足元の乾いた葉を見つけた。拾おうとしてしゃがみ込んだが、風が先に葉を動かしてしまう。
「あっ」
葉は石段の脇を通り抜け、庭の端へ転がっていった。
ミアは追いかけず、その行き先を見送った。
「かぜ、つよいね」
ルクスは翼の端を整えた。
今朝から探していた穏やかな場所なら、さっきの紙店にあった。横桟は広く、紙を重ねる音も静かだった。誰にも居場所を決められず、好きなだけ休んでいられた。
ここは違う。
風は吹くし、家の中は騒がしい。誰かが話し始めれば、別の誰かが返事をする。窓の向こうでは、またフィンとエルナの声が重なっていた。
それでもルクスは、石段から動かなかった。
台所の方でオスカーが何か言い、リディアが笑う。ミアはその声へ顔を向けたが、すぐまた白い姿を見上げた。
「ルーちゃん、どこまでいったの?」
ルクスは足元を一度確かめ、翼を畳み直した。
「風の静かな軒先までだ。……悪くない場所だったが、ずっとそこにいる理由もないだろ」




