第64話 花がひらくまでの午後
星冠暦826年・紅葉月14日・水耀日
保健院での仕事を終えたリディアは、市場の入口で歩みを緩めた。
夕食に必要なものは、今朝のうちに確かめてある。家へ戻れば片づけたいことはいくつかあるが、今日中でなければ困るものはない。市場の奥までひと回りしてみようと思ったのは、そんな午後だった。
果実の籠と葉物の束が並ぶ露店の端で、小さな鉢が目に留まった。
濃い赤紫の花が一輪、閉じた傘のように細くすぼまっている。花びらは先端まできれいに重なり、間から薄い金色がのぞいていた。葉は張りがあり、茎もまっすぐだ。萎れているようには見えない。
「これは、まだ咲いていないの?」
リディアが聞くと、売り手は鉢をこちらへ少し向けた。
「今は閉じているんですよ。この鉢の花は、明るい間はこうしていて、光が弱くなると、花びらの付け根にある魔力でゆっくりひらきます。そのとき、筋がほんの少し光るんです」
「夕方になるまで、どんな形か分からないのね」
「ええ。今朝も日が差すと、こんな具合に畳んでいました」
花の真ん中は見えない。家のどこへ置こうかと考えるより先に、ひらいたところを見てみたいと思った。
「これをください」
「贈り物ですか?」
「いいえ。私が見たくて」
そう答えた自分が少し可笑しくて、リディアは笑った。
売り手は受け皿を添え、小さな鉢を持ちやすいように包んでくれた。
*
家へ戻ると、工房の戸口でオスカーが手を止めた。
「おかえり。何か買ってきたの?」
「花を一鉢ね」
「ミアが喜びそうだ」
「ええ。でも今日は私のために買ったの」
オスカーは鉢を覗き込み、それからリディアの顔を見て笑った。
「それなら、いい場所を取っておかないと」
「もう決めているの」
リディアは居間へ入った。窓辺の、通りの光がよく入る平らな場所を選び、受け皿ごと鉢を置く。葉が窓枠へ触れないように向きを直すと、赤紫の花は部屋の方へ少し首を傾けた。
窓の反対側ではルクスが羽づくろいをしていた。鉢を一瞥し、何も言わず、いつもより少し端へ寄る。
「ありがとう。そこなら邪魔にならないわね」
ルクスは翼へ嘴を戻した。
リディアは茶を淹れ、窓辺の椅子へ腰を下ろした。通りを荷運車が静かに過ぎてゆく。魔法で荷の重さを和らげているのだろう、積まれた木箱は大きく揺れなかった。
一口飲んで、閉じた花を眺める。
湯気が薄くなったところで、台所の布を畳んでおこうと思いついた。椅子から腰を浮かしかけ、また座る。布はあとでも畳める。今日はこの一鉢のために、少し座っていたかった。
赤紫の先端には、まだ変化がなかった。
*
最初に帰ったフィンは、玄関脇の背板へ鞄を預けるなり、見慣れない鉢に気づいた。
「母さん、その花、眠ってるみたいだね」
「明るいと閉じているそうよ。日が傾くとひらくんですって」
「なら俺が影を作ったら、早く咲くかな」
フィンが窓辺に手をかざしかける。
「それも面白そうだけど、今日は夕方の光のままで見たいの」
「あ、そっか。じゃあ咲くころ、また見る」
フィンは手を引っ込め、庭の方へ走っていった。
少しして帰ったエルナは、本を抱えたまま足を止めた。
「お母さん、新しい鉢?」
「そう。私が買ってきたのよ」
「きれいな色。ひらいたら、内側はもっと明るいのかな」
「どうかしら。まだ私も知らないの」
エルナは窓辺から少し離れた椅子に座って本を開いた。数頁進んでは、ちらりと花を見る。リディアがその視線に気づくと、娘は気まずそうに笑った。
「気になるだけ。ちゃんと読んでるよ」
「見ていてもいいのよ」
「うん。でも、先に気づいたら教えてね」
やがてオスカーが花鈴幼年学舎からミアを連れて戻ってきた。上着を脱ぎ、手を洗ったミアが、居間へ駆け込んでくる。
「ママ! おはな!」
「ほら、ここよ」
ミアは鉢に触れないところで背伸びをした。
「まだ、ねんね?」
「寝ているわけじゃないの。光が弱くなるとひらくんですって」
しばらく考えていたミアが、小さな声で言う。
「じゃあ、ひらくまで、ミアもいる」
そう宣言したわりには、すぐに紙と色筆を持ってきた。花の隣ではなく床に広げて、閉じた形を描き始める。先の尖った花びらは、紙の上では細長い三角の集まりになった。
「ひらいたら、もういちまい!」
「二枚並べられるわね」
リディアはその絵を覗き込んだ。花がひらいてしまえば、いまの形も少し惜しくなるのかもしれない。
午後の光が横長になり、窓枠の影が床をゆっくり伸びた。
その影が鉢の受け皿へ届くころ、花びらの外側が、かすかにほどけた。
「あら」
リディアが息を漏らすと、ミアの筆が止まった。
「ひらいた?」
「まだ、ほんの少しだけ」
花びらの付け根から先へ、糸ほど細い金色が走る。光はすぐ薄くなったが、その通ったところが一枚、また一枚と緩んでいった。強い照明のように部屋を明るくすることはない。近くで見て、ようやく気づくほどの小さな光だった。
フィンも庭から戻り、エルナは本を伏せ、オスカーまで戸口から覗き込む。急に人が集まったので、リディアは思わず笑った。
「さっきは私一人で見ていたのに、人気者ね」
「だって光ってる!」
ミアが言う。フィンは覗き込む妹の後ろで、鉢から十分に離れた位置へ足を引いた。
「急がないなあ」
「花の方は急いでないもの」
エルナの言葉に、ミアは首を傾げる。
「はなちゃん、みんながみてるの、しらない?」
「うん。きっと、自分の明るさのことだけ分かるのよ」
リディアが答えると、ミアは納得したのか、花を急かすのをやめた。代わりに絵をもう一枚出して、ひらきかけの線を描いている。
鍋の用意をしておかなければ、と思ったのはそのときだった。リディアは立ち上がり、台所へ向かう。後ろでは、フィンとオスカーが何か別の話を始めていた。
野菜を切り、鍋を火にかける。夕食の支度はいつもと変わらない。けれど手を動かしながら、居間へ向いた扉の向こうが気になった。
花はもう全部ひらいただろうか。それとも、まだ半分くらいだろうか。
鍋の湯が静かに煮立つ音を聞いていると、オスカーが台所へ入ってきた。
「何か手伝おうか?」
「ちょうどよかった。少しだけ鍋を見ていてくれる?」
「もちろん。花を見てくるんだろ」
「ええ。私が見たくて買ったんですもの」
オスカーは笑って、鍋のそばへ立った。
居間へ戻ると、子どもたちはそれぞれ別のことをしていた。フィンは本棚の前でエルナに話しかけ、ミアは床で二枚目の絵とにらめっこしている。窓辺には、ルクスが一羽、静かに残っていた。
リディアは鉢の前にしゃがんだ。
先ほどまで隠れていた花の内側には、赤紫より淡い色が広がっていた。重なりがほどけた花びらの筋に、ほのかな金色がまだ残っている。窓の外の空が暗さを増すにつれ、その光はかえって見つけやすくなった。
リディアは、最後に重なった一枚が動くのを見た。縁が少し持ち上がり、ゆっくり外へひらく。光の細い筋が先端まで届き、そこでふっと消えた。
全部ひらいた。
誰かを呼ぼうとして、リディアはやめた。もう少しだけ、この形を自分の目で眺めていたかった。窓辺に残るルクスも、いつになくじっと花を見ている。
「きれいね」
リディアがそっと言うと、ルクスは花から視線を外さないまま答えた。
「……咲いたぞ」




