第63話 曲がり角の小さな合奏
星冠暦826年・紅葉月13日・火耀日
アルノの研究机には、朝から三枚の紙が広がっていた。
どの紙にも、細い線と矢印がびっしり描かれている。最初は一枚で足りるつもりだった。ところが考えを進めるうちに線が端へ達し、二枚目を足し、とうとう三枚目にも続きができた。
紙を重ねれば、下の説明が隠れる。離せば、つながっているはずの線が途切れる。アルノは紙の端を持ち上げては戻し、最後には筆記具を置いた。
「図の中身より、紙のつなぎ目を追っておるわい」
大きな一枚に描き直した方が早い。そう決めると、重ねた紙へ重石を置き、昼食を済ませて離れを出た。
庭の向こうでは、オスカーが工房の戸口で荷箱を確認していた。
「お義父さん、お出かけですか」
「紙を買ってくる。少し大きいのが要るんじゃ」
「店にも紙ならありますよ」
「三枚を継がずに済む大きさが欲しいんじゃよ」
「なるほど。だったらトビアスさんのところですね」
オスカーは箱の蓋を閉め、笑って送り出した。
*
西工房区の通りは、昼の賑わいが少し落ち着いたころだった。石畳を荷運車が静かに進み、店先の布看板が乾いた風を受けて揺れている。
トビアス・ヘルンの紙店で、アルノは大判の白紙を選んだ。トビアスは台の上へ広げ、折れや汚れがないことを確かめてから、紙をゆるく巻いて渡してくれた。
「これなら、途中で足さなくて済みそうですか」
「うむ。余白まで取れそうじゃ」
「それはよかった。また継ぎ足したくなったら、もっと長いのもありますよ」
「そのときは、まず図の方を疑うことにするかの」
二人で少し笑い、アルノは紙を腕に抱えて店を出た。
家へ戻れば、描き直しが待っている。そう思って歩き出したところで、曲がり角の向こうから音がこぼれてきた。
こん。
きん。
ころん。
低い音のあとに澄んだ高音が続き、最後の一音だけが丸く尾を引く。どれも近くから聞こえるのに、鳴った高さが一つずつ違うような気がした。
アルノは角を曲がった。
軒の下、通行の邪魔にならないところに小さな木枠が置かれていた。上には形の異なる薄い金属板が三枚、高さを違えて吊られている。下の手の届く位置には、布を敷いた横板と、細い刻みのある金属片が三枚。横には淡い光を宿した小さな蓄魔石が取り付けられていた。
木枠のそばにいた人が、下の金属片を指先で弾く。
こん、と鳴ったのは、離れた上の金属板だった。
「ほう」
アルノは思わず足を止めた。
「音を確かめていたところですかの」
「ええ。三つをどんな順で鳴らすと面白いか、試していたんです」
その人は指を休め、木枠を示した。下の金属片は布に支えられ、弾いても小さく震えるだけだった。
「この刻みと、上の板の刻みが一組ずつ対応しています。下を弾くと、その震えを術式が拾って、蓄魔石の魔力で対応する上の板を短く震わせるんです。下の震えが収まってからも、上の板には少しだけ余韻が残ります」
実際、下の三枚と上の三枚を結ぶ糸も棒もない。目の前の指は低いところを動いているのに、音だけが頭の上で生まれる。
「上が鳴るから、音も少し違う場所から聞こえるわけじゃな」
「そうなんです」
アルノはもう一度三枚を見比べた。仕組みを尋ねたいことなら、まだいくつもある。けれど、先ほどの三つの音が耳の奥に残っていた。
「今の並びを、もう一度聞かせてくれんか」
「もちろん」
こん。きん。ころん。
今度は最後の音が消えるところまで聞いた。
「最後の前で、少し待ってみたらどうじゃろう」
相手は頷き、同じ金属片を弾いた。
こん。きん。
通りを行く足音が、間に一つ入る。
ころん。
「おお。同じ三枚とは思えんのう」
「鳴らす順だけじゃなくて、間も変えられますから」
相手は木枠の横へ身体をずらし、アルノが手を伸ばせる場所を空けた。
「よかったら、触ってみますか。出力は弱くしてありますし、指で軽く弾くだけです」
「では、少しだけ」
アルノは巻いた紙を片腕に抱え直した。空いた手で一枚目を弾く。
こん。
次は高い音、と決めて二枚目に指を移したが、つい別の板の形まで見てしまった。
きん。
三枚目を弾く前にまた迷い、ようやく、ころん。
音と音の間が、先ほどよりずいぶん長い。
「わしがやると、曲まで考え込むようじゃ」
「その間に、こっちが入っても?」
「もちろんじゃ」
アルノが次の一枚を弾くと、相手は待っていたように二枚目を鳴らした。アルノが三枚目で返す。その音が消えきらないうちに、最初の板がもう一度鳴った。
こん、きん、ころん。こん。
今度は少し続けて弾いてみる。相手が一拍待つ。アルノもつられて指を止める。短い静けさのあと、二人の指がほとんど同時に動き、二つの音が重なった。
「あっ」
声も重なり、どちらからともなく笑った。
曲名も、決まった終わりもない。アルノは次の音を聞きながら、指先だけで短い返事を作った。相手もまた音で返してくる。人の足音や荷運車の低い駆動音が通りを過ぎ、三枚の金属板はその合間に、少し鳴っては静かになった。
やがて二人とも同じところで手を止めた。
どちらかが終わりを決めたわけではなかった。ただ、もう一音を足さなくてもよさそうだった。
「面白かったのう。買い物の途中で、すっかり長居をした」
「こちらこそ。一人だと、いつも自分の指が次を決めますから」
相手は木枠の停止部に触れた。小さな蓄魔石の光が消え、上の三枚は音を立てずに吊られていた。
アルノは礼を言って、紙の巻きを抱え直した。曲がり角を戻ると、さっきまでの音はもう聞こえなかった。
*
離れへ帰ったアルノは、古い三枚の紙を脇へ重ね、買ってきた白紙を机に広げた。丸まろうとする端を重石で押さえると、まだ十分な余白がある。今度は線の行き先を、いちいち紙の下から探さずに済みそうだった。
筆記具を取る前に、指で机の縁を叩いてみる。
とん、とん、とん。
木枠の金属板とは、まるで違う音だった。もう一度、最後の前だけ少し待つ。
とん、とん。
とん。
やはり違う。それがおかしくて、アルノは一人で笑った。
そのとき庭の方から、ミアの声とオスカーの返事が聞こえてきた。オスカーが幼年学舎まで迎えに行き、二人で帰ってきたところだった。少しして、離れの戸からミアが顔を覗かせた。
「おじいちゃん、なにしてるの?」
「紙を広げておる」
「おっきい!」
ミアは敷居の手前から机を見上げる。まだ何も描かれていない白い紙に、目を丸くした。
「ここに、ぜんぶかくの?」
「そうするつもりじゃ」
「おじいちゃん、さっき、トントンしてた?」
「聞こえたか。通りで変わった音を聞いてな。わしも少し鳴らしてきたんじゃ」
「おじいちゃんが、おんがく?」
「上手な曲かどうかは知らんが、二人で鳴らしたぞ」
ミアはもっと聞きたそうにした。そこでアルノは口で三つの音を真似した。こん、きん、ころん。自分でも似ていないと思ったが、ミアは大喜びで、空中へ指を伸ばす。
「ミアも、ころん!」
「それは上の板が鳴った音じゃったな」
「じゃあ、おじいちゃん、こん!」
アルノが机の縁を一度叩くと、ミアは声で「ころん」と返した。金属板も蓄魔石もない、小さな合奏だった。
そこへ母屋からオスカーの声がした。
「ミア、手を洗ってから遊ぼう」
「はーい! おじいちゃん、あとでね!」
ミアが駆けていく。アルノはしばらく戸の方を見てから、広い白紙へ向き直った。
最初の線を引き、次の矢印を書き入れる。図は今度こそ一枚の中に収まりそうだった。
外が夕方の色へ変わり始めたころ、窓の縁へ白い影が降りた。ルクスが翼を畳んで、離れの中を見ている。
アルノは図から顔を上げた。先ほどの調子がまだ指に残っていて、何の気なしに机を三度叩く。
とん、とん、とん。
ルクスは目だけを動かしたが、窓から離れようとはしなかった。
「うるさかったかの、ルクス」
「止めろとは言ってない」




