第6話 古い布はまだ役目を覚えている
星冠暦826年・実成月17日・月耀日
午後、勤務を終えたリディアが帰ってきてしばらくすると、居間の大机に一枚の古い布が広げられた。
長く畳まれていたらしく、深い折り目が縦横に走っている。ところどころに縫い直した跡はあるものの、生地そのものはまだしっかりしていた。
「これ、まだつかうの?」
机の向こうからミアがのぞき込んだ。
「使えるなら、もう一度ね」
リディアは布の隣へ小さな箱を置いた。色鉛筆、細い紐、紙を留める木の挟み具。それに、昨日ミアが描いた大きな風見鶏の絵まで入っている。
夏休みになってから、ミアのお絵描き道具は少しずつ居間へ勢力を広げていた。朝には食卓の端にいた色鉛筆が、昼には窓際へ移り、夕方になるころには誰かが一本くらい踏みそうになる。
「ここにまとめられたら、探しやすいでしょう?」
ミアは布と箱を見比べた。
「ミアの、おえかきのおうち?」
「お道具入れ、かしら」
「おうち!」
そこは譲る気がないらしい。
リディアは笑って、古い布をもう一度広げた。
収納箱の奥にしまわれていた布製の小物掛けである。平らにほどいて作り直せば、画材を入れるものくらいにはなりそうだった。新しいものを用意しなくても、手元にあるものがまだ働けるなら、その方がいい。
ちょうど工房から出てきたオスカーが、何気なく布を眺めた。
その視線が、途中で縫い目へ止まる。
「リディア。ちょっと待ってくれ」
「どうしたの?」
オスカーは布へ触れる代わりに、指先を少し浮かせたまま縫い筋を追った。
「古い術式が残ってる」
その一言で、近くにいたエルナも本から顔を上げた。フィンは机へ寄りかけたところで足を止める。
「触らない方がいい?」
「今はな」
「じゃあ見る」
言われる前に一歩下がる。
ここ数日で繰り返してきたことが、少しずつ本人の行動になっているらしい。
オスカーは布を調べ、何か所かの縫い目を確かめた。残っているのは、布を決められた形へ戻すための弱い術式らしい。ただ、すべての縫い目に残っているわけではない。
「切ってしまう前に、一度だけ動かしてみる?」
リディアが尋ねた。
「できる。先に場所を空けよう」
大机から画材の箱も水差しも本もなくなり、中央には布だけが残った。
ミアはリディアのそばまで下がり、エルナとフィンも手を伸ばして届かない位置から見る。窓辺ではルクスが羽づくろいをやめ、白い頭だけをこちらへ向けていた。
オスカーは布の端にある小さな結びへ指を添えた。
「俺が少しだけ魔力を入れる。形まで戻れば止まるし、途中で何かにつかえたら力が抜ける。こっちの解除結びをほどけば、その場で切れる」
ミアは神妙な顔でうなずいた。
何をどこまで理解したのかは分からないが、少なくとも手を出してはいけないことだけは伝わったようだった。
オスカーが少量の魔力を流す。
しばらく、何も起こらなかった。
布は古い布のままだった。
ミアが小声で囁く。
「ねてる?」
その直後。
右下の縫い目が、ぴくりと動いた。
平らだった布が、息を吸ったようにふくらむ。
「あ」
フィンの声とほとんど同時に、隣の部分も持ち上がった。
こちらは小さな袋になった。さらにその上では細長いひだが立ち、別の場所は浅く口を開く。中央の大きな区画だけは、底がどこまであるのかと思うほど深く沈み込んでいった。
一枚だったはずの布が、次々と勝手な方向へ折れ、ふくらみ、縮んでいく。
とはいえ、暴れているわけではない。
それぞれの縫い目は、自分に残っている形だけを思い出したように動き、そこへ収まると静かになった。
最後の一か所がぺこんと口を開く。
そして、止まった。
大机の上に残ったものを見て、家族はしばらく言葉を失った。
六つある収納部の形が、一つも揃っていなかった。
細長いもの。
妙に浅いもの。
丸くふくらんだもの。
横へ広いもの。
中央には、なぜそこだけそんなに必要だったのか分からないほど深い袋まである。
術式の残っていない部分だけは、最初と変わらず平らなままだった。
最初に声を上げたのはミアだった。
「いっぱい!」
喜ぶところはそこらしい。
フィンも堪えきれずに笑った。
「作ってる途中みたい」
「失礼ね」
エルナもそう言いながら、口元は笑っている。
オスカーは解除結びへ指を残したまま、縫い目を見直した。動き終えた部分にはもう力がかかっていない。
「壊れてこうなったわけじゃないな」
古い縫い直し跡の中には、術式の残った縫い目と、普通の糸へ置き換わったところが混じっていた。
残った縫い目だけが、それぞれ元々与えられていた折れ方へ戻った。
だから、全部が違う。
道具は平らに揃おうとも、美しく見えようともしていない。ただ残っている術式の分だけ、決められた形になったのである。
やがてオスカーが魔力の供給を完全に切り、残りがないことまで確認した。
「もう触っていいぞ」
待っていたミアが真っ先に机へ寄った。
けれど、今度は何でも手当たり次第に入れようとはしなかった。六つの袋を一つずつのぞき込み、どれに何が入りそうか確かめている。
その横から、フィンが中央の深い袋へ紐の束を入れてみた。
底まできれいに収まった。
エルナは細長いところへ色鉛筆を数本立ててみる。こちらも具合がいい。浅い袋なら木の挟み具を取りやすく置けるし、横へ広いところには小さな紙も入りそうだった。
不揃いだった形が、物を入れるたびに少しずつ意味のある違いへ変わっていく。
最初は平らに作り直すつもりだったリディアも、いつの間にか手を加える場所ではなく、残しておく場所を見ていた。
きれいに同じ形へ揃えれば、見た目は整う。
けれど、揃っていないからこそ入れられるものも違う。
「全部ほどくの、やめましょうか」
オスカーが顔を上げた。
「いいのか?」
「ええ。使えるところまで直してしまう必要はないでしょう?」
しばらく布を眺めてから、オスカーも笑った。
「じゃあ、ほつれてるところだけにするか」
それから先は、修理というより新しい住人の引っ越しになった。
色鉛筆は細長い袋へ入り、紐は中央の深いところへ収まった。木の挟み具と消し具にもそれぞれ居場所が決まり、丸めた紙まで余った袋へ納まった。
最後にミアは、昨日描いた風見鶏の絵を一番上へ持ってきた。
袋へ押し込むのではなく、木の挟み具で留める。
それだけは収納というより表札だった。
夕方には、古い小物掛けが居間の壁へ吊られていた。
新品のようには見えない。
長く畳まれていた折り目も、縫い直した跡も、平らなまま残った部分もある。六つの収納部は相変わらず好き勝手な形をしていて、正面から眺めれば少し傾いてさえ見えた。
けれど、その下に散らばっていた画材はもうない。
西から差し込む橙色の光の中で、風見鶏の絵だけが小さく揺れていた。
ミアは完成した「おうち」の前へ立ち、腕を組んだ。
家族の誰かの真似らしい。
しばらく真剣に眺めたあと、満足そうにうなずく。
「いいおうち」
今度は誰も「道具入れ」と言い直さなかった。
そのまま片づけを続けていたミアは、やがて一番端に小さな空き袋が残っていることに気づいた。
何を入れるか考えるように首を傾ける。
そして、窓辺を見た。
そこにはルクスがいる。
白い翼がある。
ミアの視線が翼から空の袋へ移り、また翼へ戻った。
何かを言うより早く、ルクスは両翼をぴたりと身体へ寄せた。
黄金がかった目だけが、じろりとミアへ向く。
ミアは一瞬きょとんとしてから、その意味を悟ったらしい。声を立てて笑った。
「いれないよ、ルーちゃん」
ルクスは疑わしそうな目をしたままだった。
それでも窓辺から飛び去ることはなく、夕食の支度が始まっても、古い小物掛けと家族の間に居座り続けた。
「その布に次の役目があるのは認める。だからって、俺の羽まで空きポケットの候補にするな、ミア」




