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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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58/88

第58話 丸の終わりに砂がたまる

 星冠暦826年・紅葉月8日・木耀日

 その日の午後、エルナの机には紙も本もなかった。

 代わりに置かれていたのは、浅い四角い盆だった。

 中には細かな灰色の砂が、きれいに均されている。

「今日はこれを使う」

 教員が細い練習筆を一本持ち上げた。

 墨はついていない。

 筆先から、ごく弱い魔力だけを流せるようになっている。

 盆の底にも低出力の術式があり、筆先から魔力が届いた場所の砂をわずかに寄せる。

 筆を動かせば、細い盛り上がりが線になる。

 同じ場所に長く魔力が届けば、そこだけ少し高くなる。

「今日は線を閉じてみよう。形は円でいい。できるだけ同じ速さで動かすこと」

 エルナは筆を取った。

 隣の机でも、同じように砂をならす音がする。

 筆先を砂の少し上へ置く。

 弱く魔力を流した。

 すぐ下の砂が、細く盛り上がる。

「おお」

 隣から小さな声がした。

 教員がそちらを見る。

「まだ始めただけだぞ」

「始まったからですよ」

 小さな笑いが起こる。

 エルナも口元を緩めてから、筆を動かした。

 右へ。

 そこから下へ回し、左へ。

 細い砂の筋が筆先を追っていく。

 思っていたより描きやすい。

 線の高さも、ほとんど揃っていた。

 あと少しで最初の場所へ戻る。

 きれいにつなげよう。

 そう思った瞬間、エルナの手がわずかに遅くなった。

 始点と終点が重なる。

 そこで魔力を切った。

「……あ」

 円は、かなりきれいだった。

 ただ一か所だけ。

 線のつながったところに、小指の先ほどの砂山ができている。

 隣から顔が覗く。

「惜しい」

「何が」

「そこだけ山」

「見れば分かる」

 エルナは盆を少し遠ざけた。

 細い円の一か所にだけ、ぽこんと盛り上がりがある。

 教員も机の横で足を止めた。

「閉じるところで慎重になったな」

「……はい」

「よく見えるだろう」

「見えすぎます」

 教員が笑った。

「もう一度やっていいぞ」

 エルナは盆の端にある解除片へ触れた。

 術式が静まる。

 さっきまで線だった砂がさらさらと崩れた。

 盆を二、三度軽く揺らすと、円も小さな山もなくなる。

 もう一度、砂を平らにした。

「次は止まらない」

 隣から声がする。

「宣言した」

「聞こえてたの?」

「聞こえる声だったから」

 エルナは返事をせず、筆を構えた。

 再び魔力を流す。

 今度は最初より少しだけ速い。

 右へ。

 下へ。

 左へ。

 始点が近づく。

 ここで遅くしない。

 そのまま――

 魔力を切った。

「できた」

 山はない。

 線もほぼ同じ高さで一周している。

 エルナが満足しかけたところで、隣から声がした。

「今度は空いてる」

「え?」

 見る。

 始点と終点のあいだに、爪の幅にも満たない隙間があった。

「……ほんとだ」

「山はない」

「ないね」

「でも閉じてない」

「閉じてないね」

 二人で少しのあいだ盆を見た。

 それから、どちらからともなく笑った。

 周りを見れば、似たようなものだった。

 途中だけ太い線。

 下半分が妙に薄い円。

 一見きれいなのに、一か所だけ小さく盛り上がったもの。

「思ったより癖が出るな」

 誰かが言った。

「癖じゃなくて、手の動きだろ」

「でも、そこ絶対迷っただろ」

「見れば分かる」

「見えるようにしてるんだから当たり前だって」

 教室のあちこちで笑いが起きた。

 隣の生徒がエルナを見る。

「三回目やる?」

 エルナは平らに戻った砂を見た。

 最初は、閉じた代わりに山ができた。

 二度目は、山がない代わりに少し空いた。

「もういいかな」

「完璧なの作らないの?」

「作る授業じゃないでしょ」

「それはそう」

 それに、三回目なら完璧になるという保証もない。

 山と隙間の両方を気にして、今度は別のところで手を止めるかもしれなかった。

 授業の終わりには、全員が解除片へ触れた。

 太い線も、細い線も、小さな山も、閉じなかった円も崩れていく。

 盆を軽く揺らせば、どれも同じ平らな灰色へ戻った。

 さっきまで誰がどこで急ぎ、どこで迷ったのかは、もう砂の上には残っていない。

 それでも教室を出るころまで、

「右上で絶対迷っただろ」

「そっちは半周ずっと急いでたじゃないか」

 という声だけは残っていた。

 *

 エルナが家へ戻ると、オスカーとミアももう帰っていた。

 玄関脇の背板へ鞄を預ける。

「おかえり」

 居間からフィンが顔を出した。

「ただいま」

 フィンは姉の顔を少し見て、首を傾げた。

「なんかあった?」

「なんで?」

「ちょっと笑ってる」

 エルナは自分の頬へ触れた。

「そんな顔してた?」

「してた」

「授業で変な丸を書いただけ」

 その一言で、ミアが寄ってきた。

「へんなまる?」

「砂で描くの。最初の丸は、最後のところだけ山になった」

 エルナは空中へ指で円を描き、最後だけ少し止める。

「なんで?」

「きれいにつなげようとして、そこでゆっくりになったから」

 フィンがすぐに笑った。

「姉ちゃんっぽい」

「何が」

「最後だけちゃんと合わせようとするところ」

「一回やっただけで決めないでよ」

 台所にいたリディアも、そこで小さく笑った。

 エルナがそちらを見る。

「お母さんまで何」

「何も言ってないわよ」

「顔で言ってる」

 ミアは空中の円を真似して描いていた。

「やまのまる、もうないの?」

「ないよ。最後に全部平らにしたから」

「もういっかい、かかない?」

「今日はもう丸はいい」

 エルナが答えると、ミアもそれ以上は頼まなかった。

 砂の盆もない。

 小さな山もない。

 それでも夕食までに、フィンは二度ほど「最後だけ山」と言い、そのたびにエルナから睨まれた。

 三度目はなかった。

 窓辺にいたルクスが、二度目の時点で白い頭を上げたからである。

 フィンとエルナを順に見て、いかにも面倒そうに目を細める。

「砂まで使って確かめるな。そいつが最後のところだけ妙に慎重なのは、とっくに見れば分かる」


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