第57話 香りは籠に入らない
星冠暦826年・紅葉月7日・水耀日
学院から帰ったフィンが玄関脇の背板へ鞄を預けると、台所からリディアの声がした。
「フィン、手が空いてる?」
「空いてるよ」
覗き込むと、台の上には夕食用の野菜がいくつか並び、鍋も出ていた。
その横で、リディアが空の籠を持っている。
「市場まで付き合ってくれない? 煮込みに入れる根菜を一つ買い足したいの」
「行く」
返事は早かった。
帰ってすぐ机へ向かうより、もう一度外へ出る方がフィンには性に合っている。
オスカーはミアを迎えに出ていて、エルナが帰るにはまだ少し早い。
フィンは上着だけ替え、リディアと一緒に家を出た。
*
紅葉月の午後、市場には夏のころより乾いた匂いが混じっていた。
積まれた果実。
土のついた根菜。
束ねた葉物。
その間を歩いていたフィンが、不意に足を止めた。
「母さん」
「なに?」
「なんか、いい匂いしない?」
甘い。
けれど菓子のような甘さではない。
焼いた木の実に少し土の匂いを混ぜたような、香ばしい香りが人の間を抜けてくる。
フィンは鼻を動かした。
「こっち」
「犬みたいね」
「分かるんだからいいだろ」
二つ先の並びへ曲がると、浅い皿の上に薄く切られた根菜が並んでいた。
外皮はくすんだ赤茶色。
中は淡い黄色をしている。
香りは、そこから出ていた。
「香り根だよ」
売り手が言った。
「今日は切ったところがよく香ってる」
リディアが丸のままの一本を手に取る。
掌より少し大きい。
「これなら煮込みにもよさそうね」
「さっきの匂い、これ?」
フィンも鼻を近づける。
「そう。でも丸のままだと、あんまり匂わないよ。切ったばかりのところが一番強いんだ」
「……ほんとだ」
皿の切片とはずいぶん違った。
何も匂わないわけではない。
けれど、通路の向こうから気づくほどではない。
「別の野菜みたい」
「同じものよ」
リディアが笑う。
大きさを見比べて一本を選び、フィンが籠へ入れた。
買い物を済ませて市場を出てからも、フィンは何度か籠を覗いた。
「さっきから何してるの?」
「いや」
少しだけ顔を近づける。
「やっぱり匂わないなと思って」
「まだ切ってないもの」
「分かってるけどさ。市場ではあんなに匂ってたのに」
説明には納得している。
それでも、あの香りまで一緒に買ったような気がしていたらしい。
籠の中の香り根は、何食わぬ顔でほかの野菜に挟まっていた。
*
風見鶏通りへ戻るころには、オスカーとミアも帰っていた。
「おかえり!」
「ただいま」
ミアが籠を覗き込む。
「なにかったの?」
「これ」
フィンが香り根を持ち上げた。
「すごくいい匂いするやつ」
ミアはすぐ鼻を近づける。
しばらく嗅いだ。
右から。
左から。
最後にフィンを見る。
「しないよ?」
「だろ?」
「フィン」
リディアが笑う。
「分かってて言ってるでしょう」
「切ったらするんだって」
「きるの?」
「夕飯でな」
香り根を台所へ運んでいると、エルナも帰ってきた。
「何をそんなに囲んでるの?」
「においしないおやさい」
ミアが答えた。
「それ、普通じゃない?」
「きると、すごくするの!」
「それも普通じゃない?」
「違うんだって」
フィンが言う。
「市場だと、向こうの通路から分かったくらい」
「へえ」
そこでようやく、エルナも少し興味を持った。
リディアは香り根を洗い、まな板へ置く。
「じゃあ、切るわよ」
なぜか三人とも少し身を寄せた。
「そんな大げさなものじゃないからね」
包丁が入る。
とん。
根が二つに分かれた。
一瞬、何も起こらない。
ミアが瞬きをする。
「……しない?」
「待って」
フィンが言った、その直後だった。
淡い黄色の切り口から、ふっと香りが立った。
「あ!」
市場で嗅いだものと同じだった。
甘く香ばしい匂いが台所へ広がり、そのまま居間の方まで流れていく。
エルナも目を上げた。
「本当に結構するね」
「だろ?」
なぜかフィンが得意そうになる。
リディアがもう半分へ包丁を入れる。
新しい切り口が増えるたび、香りもまた強くなった。
ミアは鼻を近づけるが、手はまな板から離したままだ。
「ここからでてる?」
「そうみたいね」
リディアは、先に切った面へ顔を寄せた。
「こっちはもう少し弱くなってるわ」
フィンも嗅いでみる。
「あ、本当だ」
切ったばかりの面ほど強く香り、時間が経つと少しずつおとなしくなる。
市場で聞いたとおりだった。
「じゃあ、小さくいっぱい切ったら、もっと匂う?」
フィンが聞く。
「切り口は増えるでしょうね」
「やってみる?」
「夕食に必要な大きさまで」
リディアは即答した。
「匂いを見るために細切れにはしません」
「はい」
香り根は食べやすい大きさに切られ、鍋へ入った。
煮込み始めると、切った直後の強い香りは少し丸くなり、肉やほかの野菜の匂いへ混ざっていく。
ミアが鍋へ寄りかけ、リディアに肩を押されて一歩戻った。
「できた?」
「まだ」
「いいにおい」
「それは認める」
フィンも頷いた。
*
夕食のころにはアルノも母屋へ来ていた。
湯気の立つ煮込みが食卓へ置かれる。
香り根は柔らかくなり、匙でも簡単に切れた。
「これが今日、市場で買ったやつ」
フィンが言う。
「切ったばっかりだと、すごく匂うんだよ」
「また最初から説明するの?」
エルナが笑う。
「じいちゃんは知らないだろ」
「わしは今でも十分匂っておるぞ」
アルノはそう言って匙を取った。
ミアは自分の皿を覗き込み、それから窓辺へ顔を向ける。
「ルーちゃんもいる?」
白い姿は少し離れたところにいた。
昼間どこにいたのかは誰も知らないが、夕食の匂いが家に満ちるころには、いつの間にか戻っている。
ミアが匙の上の一切れを見せた。
「いいにおいだよ」
「勝手に勧めるな」
「おいしいよ?」
「まだお前も食べてないだろう」
「あ」
ミアは慌てて自分の口へ運んだ。
もぐもぐと噛み、目を丸くする。
「おいしい!」
「順番が逆だ」
フィンが笑った。
食事が進むにつれ、家に満ちていた香りもゆっくり薄くなっていった。
市場から持ち帰れなかったように思えた匂いは、ちゃんと家にもあった。
ただ、籠の中では静かにしていただけだった。
夕食が終わり、鍋が片づけられる。
最後まで食べる気配を見せなかったルクスは、窓辺で翼へ嘴を入れながら台所を見た。
「切る前はあれだけ静かだったくせに、切った途端に家じゅうへ知らせるな。……夕飯ができたかどうかなら、お前たちの騒ぎだけで十分分かる」




