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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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57/87

第57話 香りは籠に入らない

 星冠暦826年・紅葉月7日・水耀日

 学院から帰ったフィンが玄関脇の背板へ鞄を預けると、台所からリディアの声がした。

「フィン、手が空いてる?」

「空いてるよ」

 覗き込むと、台の上には夕食用の野菜がいくつか並び、鍋も出ていた。

 その横で、リディアが空の籠を持っている。

「市場まで付き合ってくれない? 煮込みに入れる根菜を一つ買い足したいの」

「行く」

 返事は早かった。

 帰ってすぐ机へ向かうより、もう一度外へ出る方がフィンには性に合っている。

 オスカーはミアを迎えに出ていて、エルナが帰るにはまだ少し早い。

 フィンは上着だけ替え、リディアと一緒に家を出た。

 *

 紅葉月の午後、市場には夏のころより乾いた匂いが混じっていた。

 積まれた果実。

 土のついた根菜。

 束ねた葉物。

 その間を歩いていたフィンが、不意に足を止めた。

「母さん」

「なに?」

「なんか、いい匂いしない?」

 甘い。

 けれど菓子のような甘さではない。

 焼いた木の実に少し土の匂いを混ぜたような、香ばしい香りが人の間を抜けてくる。

 フィンは鼻を動かした。

「こっち」

「犬みたいね」

「分かるんだからいいだろ」

 二つ先の並びへ曲がると、浅い皿の上に薄く切られた根菜が並んでいた。

 外皮はくすんだ赤茶色。

 中は淡い黄色をしている。

 香りは、そこから出ていた。

「香り根だよ」

 売り手が言った。

「今日は切ったところがよく香ってる」

 リディアが丸のままの一本を手に取る。

 掌より少し大きい。

「これなら煮込みにもよさそうね」

「さっきの匂い、これ?」

 フィンも鼻を近づける。

「そう。でも丸のままだと、あんまり匂わないよ。切ったばかりのところが一番強いんだ」

「……ほんとだ」

 皿の切片とはずいぶん違った。

 何も匂わないわけではない。

 けれど、通路の向こうから気づくほどではない。

「別の野菜みたい」

「同じものよ」

 リディアが笑う。

 大きさを見比べて一本を選び、フィンが籠へ入れた。

 買い物を済ませて市場を出てからも、フィンは何度か籠を覗いた。

「さっきから何してるの?」

「いや」

 少しだけ顔を近づける。

「やっぱり匂わないなと思って」

「まだ切ってないもの」

「分かってるけどさ。市場ではあんなに匂ってたのに」

 説明には納得している。

 それでも、あの香りまで一緒に買ったような気がしていたらしい。

 籠の中の香り根は、何食わぬ顔でほかの野菜に挟まっていた。

 *

 風見鶏通りへ戻るころには、オスカーとミアも帰っていた。

「おかえり!」

「ただいま」

 ミアが籠を覗き込む。

「なにかったの?」

「これ」

 フィンが香り根を持ち上げた。

「すごくいい匂いするやつ」

 ミアはすぐ鼻を近づける。

 しばらく嗅いだ。

 右から。

 左から。

 最後にフィンを見る。

「しないよ?」

「だろ?」

「フィン」

 リディアが笑う。

「分かってて言ってるでしょう」

「切ったらするんだって」

「きるの?」

「夕飯でな」

 香り根を台所へ運んでいると、エルナも帰ってきた。

「何をそんなに囲んでるの?」

「においしないおやさい」

 ミアが答えた。

「それ、普通じゃない?」

「きると、すごくするの!」

「それも普通じゃない?」

「違うんだって」

 フィンが言う。

「市場だと、向こうの通路から分かったくらい」

「へえ」

 そこでようやく、エルナも少し興味を持った。

 リディアは香り根を洗い、まな板へ置く。

「じゃあ、切るわよ」

 なぜか三人とも少し身を寄せた。

「そんな大げさなものじゃないからね」

 包丁が入る。

 とん。

 根が二つに分かれた。

 一瞬、何も起こらない。

 ミアが瞬きをする。

「……しない?」

「待って」

 フィンが言った、その直後だった。

 淡い黄色の切り口から、ふっと香りが立った。

「あ!」

 市場で嗅いだものと同じだった。

 甘く香ばしい匂いが台所へ広がり、そのまま居間の方まで流れていく。

 エルナも目を上げた。

「本当に結構するね」

「だろ?」

 なぜかフィンが得意そうになる。

 リディアがもう半分へ包丁を入れる。

 新しい切り口が増えるたび、香りもまた強くなった。

 ミアは鼻を近づけるが、手はまな板から離したままだ。

「ここからでてる?」

「そうみたいね」

 リディアは、先に切った面へ顔を寄せた。

「こっちはもう少し弱くなってるわ」

 フィンも嗅いでみる。

「あ、本当だ」

 切ったばかりの面ほど強く香り、時間が経つと少しずつおとなしくなる。

 市場で聞いたとおりだった。

「じゃあ、小さくいっぱい切ったら、もっと匂う?」

 フィンが聞く。

「切り口は増えるでしょうね」

「やってみる?」

「夕食に必要な大きさまで」

 リディアは即答した。

「匂いを見るために細切れにはしません」

「はい」

 香り根は食べやすい大きさに切られ、鍋へ入った。

 煮込み始めると、切った直後の強い香りは少し丸くなり、肉やほかの野菜の匂いへ混ざっていく。

 ミアが鍋へ寄りかけ、リディアに肩を押されて一歩戻った。

「できた?」

「まだ」

「いいにおい」

「それは認める」

 フィンも頷いた。

 *

 夕食のころにはアルノも母屋へ来ていた。

 湯気の立つ煮込みが食卓へ置かれる。

 香り根は柔らかくなり、匙でも簡単に切れた。

「これが今日、市場で買ったやつ」

 フィンが言う。

「切ったばっかりだと、すごく匂うんだよ」

「また最初から説明するの?」

 エルナが笑う。

「じいちゃんは知らないだろ」

「わしは今でも十分匂っておるぞ」

 アルノはそう言って匙を取った。

 ミアは自分の皿を覗き込み、それから窓辺へ顔を向ける。

「ルーちゃんもいる?」

 白い姿は少し離れたところにいた。

 昼間どこにいたのかは誰も知らないが、夕食の匂いが家に満ちるころには、いつの間にか戻っている。

 ミアが匙の上の一切れを見せた。

「いいにおいだよ」

「勝手に勧めるな」

「おいしいよ?」

「まだお前も食べてないだろう」

「あ」

 ミアは慌てて自分の口へ運んだ。

 もぐもぐと噛み、目を丸くする。

「おいしい!」

「順番が逆だ」

 フィンが笑った。

 食事が進むにつれ、家に満ちていた香りもゆっくり薄くなっていった。

 市場から持ち帰れなかったように思えた匂いは、ちゃんと家にもあった。

 ただ、籠の中では静かにしていただけだった。

 夕食が終わり、鍋が片づけられる。

 最後まで食べる気配を見せなかったルクスは、窓辺で翼へ嘴を入れながら台所を見た。

「切る前はあれだけ静かだったくせに、切った途端に家じゅうへ知らせるな。……夕飯ができたかどうかなら、お前たちの騒ぎだけで十分分かる」


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