第56話 返事は庭を渡ってくる
星冠暦826年・紅葉月6日・火耀日
昼を少し過ぎたころ、オスカーは作業台の上から顔を上げた。
壁の時計を見る。
夕方には、修理の終わった品を受け取りに来る客がいる。ミアを迎えに出る時間と、ちょうど重なりそうだった。
作業を急いで片づけるほどではない。
店を閉めて出る必要もない。
こういうときは、もう一人頼める相手がいる。
オスカーは母屋の継声石の送信端末へ向かった。
起動部へ触れる。
「お義父さん、今日のミアの迎え、お願いできますか」
一息で言い終えると、淡い光が軒下へ走った。
一枚目。
少し遅れて二枚目。
その先へ、三枚目、四枚目、五枚目。
声は家の輪郭をなぞって、庭の向こうの離れへ消えていく。
オスカーはその場で少し待った。
何も返ってこない。
「……まあ、そうだよな」
自分で言って苦笑する。
継声石は母屋から離れへ声を送るためのものだ。
向こうの返事まで運んでくれるわけではない。
頼み事は届いた。
だが、それを引き受けてもらえたかはまだ分からない。
しばらくして、離れの戸が開いた。
庭を渡ってきたアルノが、店先から顔を出しているオスカーへ片手を上げる。
「聞こえたぞ、オスカー君」
「すみません。お願いします」
「いつもの時間じゃな?」
「はい」
「分かった」
それだけ告げると、アルノはまた庭を戻っていった。
オスカーはその背中と、軒下の五枚の石を見比べた。
声は石で届く。
返事は本人が歩いてくる。
ずいぶん釣り合いの違う会話だった。
*
午後。
花鈴幼年学舎から出てきたミアは、迎えに来ている白髪の姿を見つけると、すぐに駆け寄った。
「おじいちゃん!」
「おう。そんなに急がんでも、わしは帰らんぞ」
ミアは最後の数歩だけ速度を落とし、そのままアルノの手を握った。
「きょう、パパじゃないの?」
「今日はわしじゃ」
「なんで?」
「お父さんが店を離れにくいそうでな」
二人で風見鶏通りの方へ歩き出す。
昨日より少し風がある。
道端の落ち葉が一枚、石畳の上をかさかさと転がっていった。
昨日の夕方に家の前で浮いていた葉とは違う。
今日の葉は、風が止まれば素直に止まった。
しばらくして、ミアが顔を上げた。
「おじいちゃん、どうしておむかえってわかったの?」
「お父さんが継声石で知らせてきたんじゃよ」
「なんて?」
「今日の迎えを頼む、とな」
「おじいちゃんは?」
「引き受ける、と返事をした」
ミアが数歩進んでから首を傾げる。
「でも、おいし、こっちからおへんじできないよ?」
アルノが目を細めた。
「よう覚えとるな」
「できるようになった?」
「なっとらん」
「じゃあ、どうしたの?」
「母屋まで歩いていって言った」
ミアの足が止まった。
「あるいて?」
「そうじゃ」
「おへんじだけ?」
「返事をせんかったら、お父さんも本当に任せてよいか分からんじゃろう」
ミアは少し考える。
「おこえは、おいしでいくのに?」
「返事は足じゃったな」
「おこえはいし。おへんじはあし」
「妙な言い方を覚えたのう」
「もういっかいいう?」
「言わんでよい」
「おこえはいし、おへんじは――」
「言うとるではないか」
ミアが笑う。
アルノも笑った。
横道から低い駆動音が聞こえ、推進術式の荷運車がゆっくり出てきた。
二人は道の端で待つ。
車が通り過ぎると、ミアはまた歩き始めた。
「おじいちゃん」
「今度は何じゃ」
「おへんじ、あるくのたいへん?」
「庭一つじゃ。大したことはない」
「ミアなら、はしるよ」
「走らんでよろしい」
「じゃあ、はやくあるく」
「普通に歩け」
結局、家までの残りは二人とも同じ速さだった。
*
「ただいま!」
店へ戻ると、オスカーはちょうど客を見送ったところだった。
「おかえり」
「パパ!」
ミアが駆け寄る。
「おじいちゃん、おへんじあるいてきたんだって!」
オスカーがアルノを見る。
「そこが一番印象に残ったんですか」
「らしいのう」
「おこえはいしで、おへんじはあしなの!」
玄関で鞄を外していたフィンが振り返った。
「何の話?」
少し遅れて帰ったエルナも、背板へ鞄を預けながらこちらを見る。
「継声石?」
「うん!」
ミアは嬉しそうに説明した。
父が声を送った。
祖父が聞いた。
返事は石では戻せない。
だから本人が庭を歩いてきた。
話はそれだけだった。
「そのままだね」
エルナが言う。
「そのままだから面白いんじゃない?」
フィンは靴を揃えながら笑う。
アルノは肩をすくめた。
「わしは普通に返事をしただけなんじゃがな」
*
夕食のあと、アルノは離れへ戻った。
片づけがひと段落したころ、ミアは居間で描いていた絵から顔を上げた。
「おじいちゃんに、おやすみいう」
「もう離れだぞ」
フィンが言う。
「おいしでいう」
ミアは色鉛筆を「おえかきのおうち」へ戻すと、送信端末の前へ立った。
オスカーが横から声をかける。
「一息でな」
「うん」
ミアは大きく息を吸った。
起動部へ指を置く。
「おじいちゃん、きょうおむかえありがとう。おやすみ!」
淡い光が軒下へ走った。
一枚。
二枚。
三枚。
家の縁をたどり、五枚目まで届いて消える。
ミアは送信端末の前に立ったままだった。
少し待つ。
もちろん、返事はない。
フィンが本から顔を上げた。
「返ってこないぞ」
「しってる」
「じゃあ何してるの?」
「べつに」
そう言って、ミアは窓の外を一度だけ見た。
それから居間へ戻る。
エルナは本を読み、リディアは食器を拭き、フィンもまた自分の頁へ目を戻した。
オスカーは工房へ片づけに出ていく。
いつもの夜になった。
こん、こん。
戸が鳴った。
ミアが真っ先に顔を上げる。
リディアが戸を開けた。
外にはアルノが立っていた。
離れへ戻ったときのまま、上着を一枚羽織っただけの格好だった。
「お父さん?」
「返事をしに来た」
アルノは戸口から居間を覗く。
ミアと目が合った。
「おやすみ、ミア。今日は迎えに行けて、わしも楽しかったぞ」
ミアの顔がぱっと明るくなる。
「おやすみ、おじいちゃん!」
「うむ。今度こそ、おやすみじゃ」
アルノが向きを変える。
「またあるいてきた!」
背中へミアの声が飛んだ。
「それを喜ぶでない。わしの往復が増える」
そう言いながら、アルノは笑っていた。
ミアは戸口から、祖父が庭の向こうへ戻っていくのを見送った。
軒下の継声石は暗いままだった。
今度は何も光らない。
ただ、アルノの足音だけが庭を渡り、離れの戸の向こうへ消えていった。
リディアが戸を閉める。
「ちゃんと返ってきたわね」
「うん!」
満足したミアは居間へ戻った。
窓辺ではルクスが、離れへ帰っていくアルノを最後まで見ていた。
その視線に気づいたミアが、今度は白い姿を見る。
「ルーちゃんも――」
言い終わる前に、ルクスが片方の翼をわずかに持ち上げた。
「俺を見るな。返事のたびに庭を往復するほど暇じゃない」




