第55話 落ち葉はまだ降りてこない
星冠暦826年・紅葉月5日・月耀日
学院から帰ってきたエルナは、風見鶏通り17番地の門をくぐるところで足を止めた。
肩には鞄。腕には、帰ったら続きを読もうと思っていた本。
いつもの帰宅だった。
違っていたのは、門から玄関へ続く石畳の上だった。
「……何これ」
落ち葉が浮いている。
茶色く乾いた葉が二枚。黄色いものが一枚。まだ緑を残したものが二枚。
五枚ほどが石畳から手の幅くらい離れたところで、地面へ落ちるでもなく漂っていた。
一枚がゆっくり右へ流れる。
別の一枚は端を持ち上げ、半分だけ回る。
風に巻き上げられたようには見えない。庭木の細い枝はほとんど動いていなかった。
エルナは近づきかけ、石畳の手前で足を止めた。
触る必要はない。
そのまま少し離れて眺めていると、門柱の上から白い頭がこちらを向いた。
「ルクス。これ、いつから?」
金色がかった目が一度だけエルナを見る。
返事はない。
「そうだと思った」
ルクスはすぐに視線を落ち葉へ戻した。
少なくとも、今初めて気づいたわけではなさそうだった。
エルナは浮いている葉を大きく避けて門の中へ入った。
足元の石畳には、見たところ何の変化もない。
そのまま玄関へ向かおうとしたところで店の戸が開き、オスカーが顔を出した。
「おかえり」
「ただいま。お父さん、庭で何か使ってる?」
「何も使ってないけど」
エルナが無言で指さす。
オスカーも門の方を見た。
「……朝からあったか?」
「今帰った私に聞かないでよ」
「そうだった」
二人で眺めている間に、茶色い一枚が石畳の端へ寄っていった。
そこを越えた途端、ふっと高さを失う。
かさり。
普通の落ち葉として地面へ落ちた。
残る四枚は、まだ同じ高さを漂っている。
「範囲があるみたいだな」
「みたい」
オスカーが少し顎へ手をやった。
「何か試して――」
「今日はいい」
エルナの返事の方が早かった。
オスカーが娘を見る。
「いいのか?」
「困ってないし」
帰ったら、本を読むつもりだった。
学院で一日過ごしたあとまで、目の前にある不思議を全部問題にしなくてもいい。
「通れないわけでもないし。近づかなければ危なくもなさそうだから、しばらく見てればいいんじゃない?」
「まあ、それもそうか」
オスカーもあっさり引いた。
エルナは玄関へ入り、鞄を一枚背板の自分の位置へ預けた。背板の保持魔法が弱く働き、鞄の背が壁側へ落ち着く。
居間へ行き、本を開く。
窓からは門のあたりが見えた。
頁を何枚かめくってから目を上げても、四枚の葉はまだ浮いていた。
やがて、オスカーが店から出ていく。
ミアを迎えに行く時間らしい。
そのあとしばらくして、今度はフィンが帰ってきた。
「ただいまー」
門を入る足音が、途中でぴたりと止まった。
「……何だこれ」
エルナは本から目だけを上げた。
やっぱり気づいた。
窓の向こうで、フィンが浮いた落ち葉を見ている。
一歩近づきかけ、途中で止まる。
それから少し離れたまましゃがみ込んだ。
手は出さない。
しばらく観察してから家の方を見る。
「姉ちゃん!」
「見えてる」
「いつから?」
「私が帰ったときにはもうあった」
「父さんは?」
「知らないって」
「じいちゃんは?」
「まだ聞いてない」
フィンは最後に門柱のルクスを見上げた。
「ルクスは――」
「聞いても答えなかった」
「だよな」
あっさり納得する。
そのとき、石畳の外に落ちていた一枚の葉が、わずかな風に押されて動いた。
かさ。
かさり。
問題の場所へ入る。
ふわり。
「おお」
フィンが声を上げた。
新しい一枚はそのまま手の幅ほどまで持ち上がり、ほかの葉と同じように漂い始めた。
エルナもとうとう本を置いて窓辺へ寄る。
「入ったら浮くんだな」
「少なくとも、あの葉はね」
フィンが周りを見る。
「小石とか置いたらどうなるかな」
「置かない」
「まだ何もしてないだろ」
「顔に書いてある」
「父さんみたいに言うなよ」
エルナは少し笑った。
「今日は見るだけでいいでしょ」
「姉ちゃんがそれ言うの?」
「私だって毎日、何かを解きたいわけじゃないよ」
フィンは浮いている葉と姉を見比べた。
それから肩をすくめる。
「じゃあ、俺も見る」
兄妹がそうしているうちに、通りの向こうから明るい声が近づいてきた。
「ただいまー!」
ミアがオスカーと一緒に帰ってきた。
門へ駆け込みかけ、すぐに止まる。
「あ!」
視線の先に、五枚の落ち葉がある。
「はっぱ、とんでる!」
「飛んでるというより、浮いてる」
フィンが言った。
ミアは目を丸くしたまま、少し離れたところから首を傾げる。
「なんで?」
「分からない」
エルナが答えると、ミアはオスカーを見た。
オスカーも首を横へ振る。
最後に門柱を見上げる。
「ルーちゃんは?」
ルクスは露骨に目を閉じた。
ミアはしばらく待ってから、うなずいた。
「ルーちゃんもわかんないって」
片方の目が開いた。
何か言いたげだったが、結局また閉じる。
オスカーは迎えへ出る前より葉が一枚増えていることに気づいた。
「増えたな」
「外から入ってきた葉が、そのまま浮いた」
フィンが答える。
「触ったか?」
「触ってない」
「ならいい」
オスカーもそれ以上は調べようとしなかった。
ミアは作用していそうな範囲へ入らないようにしながら、外側をゆっくり回る。
「おちないね」
「今のところな」
「つかまえない?」
「今日は見るだけ」
今度はフィンが言った。
ミアは少し考え、門の脇へしゃがみ込む。
「じゃあ、みる」
五枚の葉は、それぞれ勝手な向きで漂っていた。
近づいて端が触れ、また離れる。
一枚はゆっくり回り続け、別の一枚はほとんど同じところから動かない。
どこかへ行こうとしているようにも見えない。
エルナも本を持って外へ出た。
石段へ腰を下ろす。
「読むの?」
フィンが聞く。
「読む」
「葉っぱは?」
「たまに見る」
数行読んで、目を上げる。
まだ浮いている。
また本へ戻る。
フィンもいつの間にか隣へ座り、ミアは葉を数えるのをやめて、ただ揺れる様子を眺めていた。
門柱のルクスも動かない。
騒ぎというほどの騒ぎではなかった。
だからこそ、誰も急いで何かをする必要がなかった。
しばらくして、離れからアルノが母屋の方へ歩いてきた。
「珍しく玄関先に集まっておるの」
誰も説明するより先に、アルノ自身が落ち葉へ気づいた。
「ほう」
オスカーが尋ねる。
「先生、これ何だか分かります?」
「分からん」
答えは早かった。
「早いですね」
「分からんものを分かったふりするよりは早いじゃろ」
アルノは少し離れた位置で目を細める。
だが、道具を取りに離れへ戻ることも、術式を組むこともしなかった。
そのままエルナたちのいる石段へ腰を下ろす。
「調べないの?」
エルナが聞く。
「今すぐ調べねば困るかの?」
「別に」
「なら、今日はこれで十分じゃ」
エルナは小さく笑い、本の頁へ視線を戻した。
夕方の光が少しずつ低くなる。
リディアが仕事から帰ってきたころには、門の近くに家族がずいぶん集まっていた。
「あら」
足を止める。
「今日は玄関が人気なのね」
「ママ、はっぱがおちないの!」
ミアが指さす。
リディアは浮いている葉を見た。
次に、石段や門脇に座る家族を見る。
「それで、みんなで待っているの?」
「うん」
ミアが答えた。
たぶん、それが一番近かった。
何かを解こうとしているわけではない。
何かが起こるのを期待しているわけでもない。
ただ、まだ落ちないので見ている。
「じゃあ、私も少しだけ」
リディアは家へ鞄を置きに入り、ほどなく戻ってきた。
空の青が薄くなり始めたころ、黄色い一枚がわずかに高度を落とした。
「あ」
ミアが小さく声を上げる。
誰も立ち上がらなかった。
葉はゆっくり降りていく。
かさり。
石畳へ着いた。
しばらくして茶色い一枚も落ちる。
緑を残した一枚も続いた。
一枚ずつ、漂う力をなくしたように地面へ戻っていく。
最後には、茶色い葉が一枚だけ残った。
家族の視線を集めながら、頼りなく回っている。
少し下がる。
また浮く。
それから、ゆっくり門柱の方へ流れた。
ちょうどルクスがいる。
白い翼の上を一度通り過ぎ――ふわり。
その背中へ乗った。
誰も声を出さなかった。
ミアの頬だけが、見る間にふくらんでいく。
フィンは口元を押さえ、エルナは開いた本を少し持ち上げた。
ルクスは動かない。
一拍。
二拍。
ばさり。
白い翼が一度だけ大きく開いた。
葉は背中から飛ばされ、今度こそ石畳へ落ちる。
ミアが最初に吹き出した。
フィンが続き、エルナも本を下ろす。
オスカーまで笑い始めると、リディアは口元へ手を当て、アルノの白い髭も揺れた。
ルクスだけが不機嫌そうだった。
石畳には六枚の落ち葉がある。
もう一枚も浮いていない。
さっきまでそこに何があったのかは、結局分からない。
夕食の支度を始める声がして、一人ずつ家へ戻っていく。
エルナは本を閉じて立ち上がった。
今日読むつもりだった頁は、思っていたほど進まなかった。
それでも、続きを明日に回すほどではない。
門柱ではルクスが何度も背中を振り返り、葉が残っていないことを確かめていた。
最後まで笑っていたミアへ、細く目を向ける。
「落ちるまで眺めるのは勝手だ。……最後の一枚まで俺に任せるな」




