第54話 日なたを冷やした午後
星冠暦826年・紅葉月4日・陽耀日
紅葉月四日の午後、庭の木々はまだ名前ほど紅くなっていなかった。
葉の端に少しだけ色を変えたものが混じる程度で、窓から入る日差しも、秋だからと急に弱くなったわけではない。
居間の床には、昨日リディアが縫い上げた膝掛けが広がっていた。
長椅子から半分ほど垂れた毛織布へ、午後の光が斜めに伸びている。
日に当たったところだけが、手のひらで触れると少し暖かい。
ミアはそこへ足を入れ、膝掛けを腰まで引き上げていた。
隣ではフィンが紙を読んでいる。身体は日陰にあるのに、靴下の先だけはしっかり光の中へ出ていた。
「そこだけ夏みたい」
エルナが本から目を上げた。
「夏はもっと暑いよ」
フィンが答える。
「知ってる。見た目の話」
「ひなた、あったかいよ」
ミアが両足を伸ばす。
そこへ工房からオスカーが出てきた。
抱えていたのは、腕ほどの長さがある薄い灰青色の板だった。
角には古い擦れ跡が残り、側面には小さな蓄魔石と平たい停止片が付いている。
フィンが紙から顔を上げた。
「あ、それまだ出してたんだ」
「奥に置いたままだった」
夏に店で使った、古い低出力の冷却板である。
「片づけるの?」
ミアが尋ねた。
「拭いて工房の奥へ戻す。その前に、一度だけ動くか見る」
オスカーは居間の端へ低い木台を置いた。
床へ直接載せないのも、子どもたちが近づかないのも、もう一度教える必要はなかった。
ミアは膝掛けの中から見ている。
フィンもその場を動かない。
オスカーだけが板へ手を掛けた。
「動いたらすぐ止めるぞ」
「今日は追いかけないの?」
フィンが笑った。
「あれは一回で十分だ」
夏の午後、店の中を移っていく涼しさを家族で追ったことがある。
今さら同じことをするつもりはないらしい。
オスカーが停止片を起こした。
板は光らない。
風も吹かない。
側面の小さな表示だけが静かに変わり、冷却板はいつもの地味な働きを始めた。
しばらく何も起きなかった。
リディアが台所から茶を運んできて、食卓へ杯を並べる。
頁をめくる音と、庭で葉の擦れる音が重なった。
そのうち、膝掛けの中でミアの足がもぞもぞ動いた。
「ん?」
布から片足を出す。
もう一度入れる。
「ママ」
「なあに?」
「ここ、あったかくない」
フィンも自分の足元へ手を伸ばした。
窓からは、変わらず午後の日差しが入っている。
「ほんとだ」
さっきまで温まっていた毛織布が、そのあたりだけ少し冷えていた。
エルナが窓を見上げる。
空には雲らしい雲もない。
オスカーは板の表示と、窓際の床を一度ずつ見た。
「ああ」
それだけで分かったらしい。
「ちゃんと動いてるな」
「そこ冷やすの?」
ミアが不満そうに尋ねた。
「今日は、そこを冷やしてほしくなかったな」
オスカーは笑いながら停止片を戻した。
確認はそれで終わった。
「もうおしまい?」
「おしまい」
「別のところも見なくていいの?」
フィンが聞く。
「動くのも止まるのも見た。十分だろ」
板の仕組みを確かめるために、暖かな物を持ってきたり、日向を別の場所へ作ったりする者はいなかった。
夏に一度、散々見たからである。
オスカーは冷却板を木台から下ろし、乾いた布で表面を拭き始めた。
それを横目に、ミアは膝掛けの中へもう一度足を入れた。
「あったかくならない」
「すぐには戻らないわよ」
リディアが茶を一口飲む。
日差しは同じでも、さっきまで冷やされていた布と床が、急に元の温度へ戻るわけではない。
ミアは少し考え、膝掛けを自分の方へ引いた。
昨日付けた中央の明るい縫い目が、床をするすると横切る。
「そっちまで持っていくの?」
フィンが紙を持ち上げた。
「こっち、あったかい」
冷やされた場所から、まだ温かさの残る隣の日向へ布をずらしたらしい。
一枚になった膝掛けは、片方を動かせば全部ついてくる。
フィンの足元も一緒にずれた。
「俺まで動いた」
「おにいちゃんも、あったかい」
「まあいいけど」
エルナの膝へ掛かっていた端まで少し引かれた。
本を持ったまま身体をずらし、布が落ちないところへ座り直す。
「昨日から、これ人の方を動かすよね」
「布は何もしてないでしょう?」
リディアが笑った。
「使ってる人たちが勝手に引っぱってるだけよ」
それを聞いても、ミアは膝掛けを離さなかった。
日向の中で足を丸める。
冷却板の方はもう静かだった。
オスカーは拭き終わった板を持ち上げ、工房へ戻っていく。
特別な調整もしなければ、「紅葉月だからもう使わない」と札を付けることもしなかった。
必要になれば、また出せる。
今日はしまう。
それだけだった。
居間へ残った家族の方も、ほどなく冷却板の話をしなくなった。
茶が少し冷める。
本の頁が進む。
日差しは窓枠の形に沿って、ゆっくり床の奥へ伸びていく。
ミアがそれに合わせて膝掛けを少し引いた。
今度は誰も何も言わなかった。
フィンも紙を持ったまま足を寄せ、エルナは布の端が膝へ残る程度に椅子をずらす。
一人ずつ場所を決めたわけではない。
暖かいところへ一枚の布が寄っていき、その周りへ人の方がなんとなく収まっただけだった。
外では風が吹いた。
紅葉月という名前にはまだ少し早いような緑の葉が揺れている。
けれど、枝の先から一枚だけ乾いた葉が離れ、庭へ落ちた。
ミアは窓越しにそれを見つけた。
「きのうのはっぱみたい」
「昨日のより大きい?」
フィンが聞く。
「おっきい!」
「また大きくなってる」
笑い声が小さく続いた。
夕方へ近づくにつれて、午後の日差しは少しずつ弱くなった。
膝掛けを追っていた光も細くなり、とうとう布の端から外れていく。
誰かがそれを引き戻そうとはしなかった。
今度は毛織布そのものの暖かさだけで十分だった。
窓辺では、昼からずっと高いところにいたルクスが羽を整えている。
夏に冷却板を使った日は、直射日光の来ない棚からほとんど動かなかった。
今日は冷却板が工房へ消えてから、かなり時間が経っていた。
白い翼が開く。
ルクスは床へ降りると、膝掛けには乗らず、そのすぐ脇に残っていた細い日向へ歩いていった。
そこだけは、まだ床に少し温もりがある。
白い身体を収めると、翼を畳んだ。
ミアがすぐに気づいた。
「ルーちゃんも、あったかいのすき?」
ルクスは目を閉じかけたまま、ほんの少しだけ嘴を上げた。
「今日はな。明日の俺まで勝手に決めるな」




