第52話 四枚の中で葉っぱが飛ぶ
星冠暦826年・紅葉月2日・金耀日
紅葉月二日の午後、花鈴幼年学舎の門の前には、朝より少し冷たい風が通っていた。
まだ木々のほとんどは緑を残している。それでも枝の中には、一足先に秋へ追いついたような葉が何枚か混じっていた。
オスカーが迎えに着いたとき、園舎から子どもたちが順に出てくるところだった。門の内側ではクララ・ヴェントが一人ずつ送り出している。
やがて父を見つけたミアが顔を輝かせた。
「パパ!」
駆け出しかけた足が、門のところで少しだけゆるむ。
「さようなら、ミア」
クララが声を掛けた。
「さようなら!」
「また月耀日にね」
「うん!」
オスカーも軽く頭を下げた。
「お世話さまでした」
「お気をつけて」
挨拶が終わると、クララは次に帰る子どもの方へ向き直った。ミアは父の手を握り、二人で学舎を離れた。
明日も、その次の日も学校は休みである。
そのせいか、ミアの足取りはいつも以上に軽かった。
「パパ、あしたおやすみ」
「そうだな」
「あさっても」
「そうだな」
「そのつぎは?」
「学校」
「……そっか」
ほんの少し残念そうになった顔は、すぐ道端のものへ向いた。
石壁の隙間。
小さな水たまり。
窓辺の鉢。
五歳の歩幅で歩けば、風見鶏通りまでの道には立ち止まりたくなるものがいくらでもある。
オスカーも急がせなかった。
道の途中で、一度だけ少し強い風が吹いた。
頭上で葉が擦れ合い、そのうちの一枚が枝を離れる。
くるくる回りながら落ちてきた葉は、地面まで届かなかった。
オスカーの肩へ、ぺたりと載った。
「あ」
ミアが声を上げる。
「どうした?」
「パパ」
「ん?」
「そこ」
自分の肩を叩いて教える。
ところがオスカーは反対側を見た。
「こっち?」
「ちがう」
今度は袖を見る。
「ここ?」
「ちがうよ」
ミアはもう笑っていた。
オスカーも何か付いているらしいことまでは察したが、どこなのか分からない。
「じゃあ、どこだよ」
ミアが背伸びをした。
小さな指が葉へ届きかける。
その瞬間、もう一度風が来た。
肩から浮いた葉は二人の間をひらりと回り、今度はミアの頭へ載った。
オスカーが黙った。
ミアは気づかない。
さっきまで父を笑っていた顔のまま、肩のあたりを探している。
「パパ、はっぱなくなった」
「そうだな」
「どこいった?」
「さあな」
「パパ、しってる?」
「ちょっとだけ」
オスカーが笑いながら娘の頭を指さした。
ミアは上を見た。
当然、見えない。
両手で頭を探って、ようやく葉へ触れる。
「あった!」
葉を高く掲げる。
「ミアにきた!」
「来たな」
二人で笑った。
出来事は、それだけだった。
葉はしばらくミアの手にあったが、指を開いた拍子にまた風へ乗り、今度こそ石垣の向こうへ消えていった。
追いかけるほどのことでもない。
二人はそのまま家へ帰った。
けれど、ミアの中ではまだ終わっていなかったらしい。
風見鶏通り17番地へ着いて鞄を置き、水を飲んだあとも、肩を指さしたり頭を押さえたりしながら、帰り道の出来事を何度もオスカーへ話していた。
家族が居間へ揃うころには、話したい相手が増えている。
「それでね、パパに葉っぱがいてね」
「父さんに葉っぱが生えたの?」
フィンが聞いた。
「ちがう!」
「じゃあ、どうなったの?」
エルナも笑いながら話を聞く。
「パパのここに、はっぱがきて、ミアがこうやっていって、でもパパがこっちみて、それでミアがとろうとしたら――」
言葉より先に両手が動く。
右肩を叩き、左肩を見て、背伸びをして、今度は自分の頭を押さえる。
動きだけが先へ進んでしまい、途中から聞いたフィンはますます分からなくなった。
「葉っぱ、最後どこ行ったの?」
「ミア!」
「ミアになったの?」
「ちがう!」
また最初へ戻りそうになった。
ミアは口を開きかけて止まり、居間の壁を見た。
「かく」
「葉っぱを?」
「ぜんぶ」
「おえかきのおうち」から紙と色鉛筆を出してくる。
一枚ではなかった。
小さめの紙を四枚、食卓の端へ並べた。
最初の紙には、並んで歩く自分とオスカー。
次の紙へ移ると、今度は父の肩に葉を描く。
葉は実物よりかなり大きかった。
工房から戻ってきたオスカーが覗き込む。
「俺より葉っぱの方が目立ってないか?」
「だいじょうぶ」
「何が?」
答えはなかった。
開けていた窓から風が入り、まだ白い三枚の角を揺らした。
ミアが腕を伸ばして押さえる。
描きかけの一枚を守ると、反対側が浮く。
「まって」
今度は両肘まで使った。
その姿を見ていたオスカーは工房へ戻り、折り畳んだ薄い網を持ってきた。
「これなら飛ばないぞ」
工房用の仮留め網だった。
食卓へ広げた網に四枚の紙を触れさせ、位置を決めてからオスカーが起動する。
次の風が窓から入っても、紙はさっきのように逃げなかった。
ミアは満足そうに続きを描いた。
父が違う肩を見ているところ。
背伸びをしている自分。
風に浮く葉。
最後の一枚には、頭の上へ葉を載せたミアが笑っている。
時々、帰り道を思い出してはオスカーへ聞いた。
「パパ、こっちみた?」
「最初はそっち」
「ミア、ここ?」
「もう少し横だったな」
言われるたびに少し直すが、道の形まで正確に描く気はないらしい。途中からオスカーの足はずいぶん長くなり、葉っぱもさらに大きくなった。
四枚を描き終えたミアは、椅子から少し身体を離して全体を眺めた。
しばらくして、眉が寄る。
「ちがう」
「何が?」
「こっちがさき」
真ん中の二枚を指さした。
話しているうちに、順番を逆に描いたらしい。
ミアは片方の紙へ指を掛け、隣へ少し寄せようとした。
紙は動いたぶんだけ、するりと元へ戻った。
「あれ?」
もう一度、今度はそっと押す。
やはり同じところへ戻ってくる。
ミアは紙と網を交互に見た。
「パパ。これ、もどっちゃう」
「今は戻すために使ってるからな」
「でも、こっちにしたい」
オスカーはそれ以上説明せず、網を止めた。
今度は紙が指の動くまま横へ滑る。
ミアは二枚を入れ替え、満足そうに四枚を眺め直した。
「できた!」
そこへ、窓から風が吹き込んだ。
止滑網はもう働いていない。
さっきまで行儀よく並んでいた四枚が一斉に身軽になる。
一枚は食卓を滑り、もう一枚はふわりと椅子の向こうへ落ちた。残る二枚も端を持ち上げられ、家族が慌てて手を伸ばす間をすり抜けていく。
最後の一枚は窓辺へ向かった。
白い頭が動いた。
ルクスは飛んできた紙の端を嘴でつまむと、そのまま床へ落とすことなく食卓の方へ顔を向けた。
ミアが駆け寄る。
「ルーちゃん!」
ルクスは紙を渡すように嘴を開いた。
「ありがと!」
返事はない。
窓を少し閉めれば、騒ぎもそれで終わった。
床や椅子のそばへ逃げた紙も拾われ、四枚がもう一度食卓へ揃う。
今度は魔法を使わず、窓も閉じたままだった。
ミアは紙の間隔を自分の手で整えた。
肩に葉っぱを載せたオスカー。
それに気づかず、あちこちを見るオスカー。
笑いながら背伸びをするミア。
そして最後には、自分の頭へ巨大な葉っぱを載せたミアがいる。
「こんなに大きかったか?」
オスカーが最後の葉を見た。
「おっきかった」
「そこまではないな」
「パパ、きづかなかった」
「それは本当」
フィンが四枚を端から眺めるうちに、最後の絵で笑い始めた。
「ミアも気づいてないじゃん」
「このあときづくの」
「じゃあ、その絵もいるんじゃない?」
ミアは答えず、四枚をもう一度見た。
最後の紙では、頭に大きな葉を載せた自分が、何も知らず笑っている。
しばらく眺めてから、首を横へ振った。
「ここまで」
「気づく前で終わるの?」
「うん」
それ以上、誰も紙を増やそうとはしなかった。
夕食の支度が始まるころにも、ミアは四枚を並べて一度だけ話をした。
最初よりずっと短くなっていた。
絵を順に指させば、肩を間違えたところも、風で葉が飛んだところも、いちいち最初から説明しなくていい。
ただし葉っぱだけは、話すたびに少し大きくなった。
最後にはオスカーの頭より大きかったことになっていた。
「それはもう別の葉だろ」
本人が抗議すると、ミアは四枚目を見て笑った。
紙は重ねて「おえかきのおうち」へしまわれ、止滑網もオスカーの工房へ戻った。
居間にはいつもの食卓だけが残る。
窓辺ではルクスが、さっき紙をくわえた嘴を何でもなかったように翼へ入れていた。
ミアがその姿を見つけた。
「ルーちゃん、五まいめにする?」
白い頭が上がる。
「いらない。俺は絵の外にいた方が、飛んだ紙を拾いやすい」




