第51話 北門から風見鶏通りまで
星冠暦826年・紅葉月1日・木耀日
紅葉月の最初の日は、月の名前ほどにはまだ紅くなかった。
風見鶏通りの街路樹も、庭の木々も、ほとんど昨日までと同じ色をしている。変わったのは、学校から帰ってきたフィンが玄関へ鞄を置いたとき、開け放した戸口から入ってきた風が少し冷たかったことくらいだった。
店の奥では、オスカーが上着を手にしていた。
「父さん、どっか行くの?」
「北門。頼んでた部材を取ってくる」
「工房?」
「ああ」
フィンは父の手にある空の布袋を見たあと、玄関へ戻したばかりの自分の鞄を振り返った。
「俺も行っていい?」
オスカーが少し意外そうな顔をする。
「いいけど、見学じゃないぞ。受け取ったら帰るだけだ」
「分かってる。ちょっと歩きたい」
夏なら、学校から帰ったあとにわざわざ遠くまで歩きたいとは言わなかっただろう。
オスカーはしばらく息子を見てから、笑って上着へ腕を通した。
「宿題は?」
「帰ってから」
「覚えとくぞ、その言葉」
「ちゃんとやるって」
台所のリディアへ声を掛け、二人は風見鶏通りへ出た。
西工房区を歩いているあいだは、いつもの景色が続いた。
住宅と小さな店が肩を寄せ合い、開いた工房の戸口から金属を叩く音が漏れてくる。夕食の買い物を抱えた人とすれ違い、店先へ出ていた荷箱を避けながら角を曲がった。
北門の方角へ進むにつれ、建物の表情が少しずつ変わっていく。
家と店が一つになった小さな建物が減り、その代わり、荷を出し入れできる広い戸口を持った作業場が目につくようになった。
向こうから小ぶりな荷運車が来た。
オスカーが自然に建物側へ寄り、フィンもその横へ並ぶ。
荷台には籠がいくつも載っている。荷へ掛かった術式が重さを和らげ、別の推進術式が石畳の上で車輪をゆっくり進めていた。
運び手が二人の横を通るときに速度を落とす。
フィンは荷運車が過ぎていくまで目で追った。
「この辺、大きいの多いな」
「工房が多いからな」
オスカーの返事は、それだけだった。
昔ここで働いていたころの話を始めるわけでもない。フィンも特に聞かなかった。
北門機巧工房へ着くころには、歩いてきたぶん身体が少し温まっていた。
以前、試験車を動かした中庭の方から金属音が響いている。
だが今日は柵の向こうを見る用事ではない。
オスカーは工房棟へ入り、ほどなくして両手に載るほどの木箱を抱えて戻ってきた。
「それ?」
「ああ」
「持つよ」
「持ちたいのか?」
「手伝いに来たんだから」
オスカーは笑って箱を渡した。
腕へ載せた瞬間、フィンの肘が少しだけ下がる。
見た目より中身は詰まっているらしい。
それでもすぐに抱え直した。
「重い?」
「平気」
返事だけは早かった。
ちょうどそのとき、工房の大きな戸口からヘンリク・バウアーが出てきた。
仕事着の袖を少し捲り、片手の手袋を外しながらオスカーへ目を向ける。その隣で箱を抱えるフィンに気づくと、わずかに眉を上げた。
「今日は息子連れか」
「フィンだ」
「どうも」
フィンが頭を下げる。
「ヘンリクだ。よろしくな」
挨拶はそれで済んだ。
ヘンリクの視線はすぐ工房の方へ戻る。まだ仕事の途中らしい。
その先では、小ぶりな荷運車へ木箱や籠が積まれていた。荷を軽くする術式が淡く働く横で、運び手が固定具を一つずつ確かめている。
「それも出るのか?」
オスカーが尋ねる。
「ああ。西側へ何件か」
ヘンリクはそれだけ答え、フィンの抱えている箱を見る。
「持ち替えるときだけ気をつけろよ」
「落としません」
「ならいい」
「最初から脅すなよ」
オスカーが言うと、ヘンリクは笑って工房へ戻っていった。
二人が門を出たころ、荷運車も少し先から動き始めた。
車輪が低く石畳を鳴らし、同じ西の方へ進んでいく。
フィンがその後ろ姿を見る。
「先行った」
「行き先が同じとは限らないぞ」
「途中までは同じって言ってたじゃん」
「だからって競走するなよ」
「してないよ」
そう言いながら、フィンは少し早足になった。
オスカーは笑ったが、何も言わず隣を歩いた。
帰り道は、来た道をそのまま逆へたどらなかった。
大きな通りを一つ手前で曲がり、オスカーが細い横道へ入る。
「こっちなの?」
「歩きなら通れる」
「近道?」
「さあな」
「知らないの?」
「距離を測って歩いてるわけじゃないからな」
迷っている様子はない。
軒の近い建物の間には大きな荷運車は入ってこず、二人分の足音だけが石壁へ小さく返った。
しばらくすると、フィンが抱える箱の位置が少しずつ下がってきた。
オスカーは横目で見ていたが、すぐには何も言わなかった。
二つ目の角を曲がったところで手を差し出す。
「そろそろ俺が持つか」
「まだ平気」
「じゃあ、俺が持ちたい」
「父さんが?」
「行きは手ぶらだったからな」
その言い方なら譲ってもいいと思ったらしい。
フィンは箱を渡し、空いた両腕を大きく振った。
「軽い」
「そりゃ何も持ってないからな」
「分かってるよ」
広い通りへ戻ったところで、フィンの足が止まった。
少し先に、北門機巧工房を出た荷運車がいる。
道端へ寄せた荷台から、一つの籠を降ろしているところだった。運び手が受け取り相手と話しているあいだ、車輪も推進術式も静かになっている。
フィンの口元が上がった。
「追いついた」
「向こうが止まってただけだぞ」
「でも今はこっちが前」
「競走してないんだろ?」
「してない」
答えながら、その顔だけは少し嬉しそうだった。
二人は止まっている荷運車の横を通り過ぎた。
そのまましばらく行けば、今度はこちらが道を譲る番になった。交差する通りを別の荷車が横切るのを待っていると、後ろから聞き覚えのある車輪の音が近づいてくる。
さっき追い越した荷運車だった。
運び手はオスカーへ軽く頭を下げ、そのまま二人の前へ出ていく。
フィンは何も言わずに見送った。
けれど歩き始めてから、ぽつりと呟いた。
「抜かれた」
「何の勝負なんだよ」
オスカーが笑う。
それから先も、二人の帰り道は真っ直ぐではなかった。
荷を下ろしている店先があれば少し外へ膨らみ、通りが混んでいれば一角だけ別の道へ入る。オスカーの知っている細道を抜けることもあれば、フィンが見慣れない角を気にして、少しだけ遠回りすることもあった。
先へ行った荷運車は、いつの間にか見えなくなった。
どこまで同じ方向だったのかも分からない。
それでもフィンは、角を曲がるたび、一度だけ先の通りへ目をやった。
オスカーは気づいていたが、もう競走するなとは言わなかった。
やがて、見慣れた風見鶏通りへ出た。
夕方の光が石畳を斜めに照らし、遠くにクラウゼル魔法具店の店先が見える。
北門ではフィンが両腕で抱えていた木箱も、今はオスカーの片手に収まっている。
「ただいま!」
フィンが戸を開けると、居間の方からミアの声が返ってきた。
「おかえりー!」
オスカーは受け取ってきた箱を工房へ運び、フィンは水を一杯飲んだ。
それだけで、北門までの用事は終わった。
新しい道具を試したわけでも、大きな仕事をしたわけでもない。
小さな箱が一つ、北門から風見鶏通りへ移っただけだった。
夕食前には、約束どおりフィンが宿題を広げていた。
紙へ向かっていた手を一度止め、工房から戻ってきたオスカーを見る。
「父さん」
「何だ?」
「北門って、思ってたより近かった」
オスカーは少し考えた。
「帰り半分くらい、箱持ってなかったからじゃないか?」
「それで道の長さは変わらないだろ」
「気分は変わる」
フィンは納得していない顔をしたが、少し笑ってまた紙へ向かった。
夕食になってからも、帰り道の荷運車の話だけは残った。
フィンが「一回抜いて、そのあと抜かれた」と話すと、ミアはすぐにどちらが勝ったのか聞いた。
「たぶん俺たち」
「途中までしか同じ道じゃなかっただろ」
オスカーが横から訂正する。
「でも最後に見たときは、俺たちの方が前だったかもしれない」
「見えなくなっただけじゃない?」
エルナに言われ、フィンは少し考え込んだ。
結局、勝敗は分からないままだった。
窓辺で羽を整えていたルクスが、そのやり取りを聞いて白い頭を上げる。
「行き先もゴールも決めてない相手に、勝った顔をするな。荷物を運ぶ車の方がよほど真面目に道を使ってる」




