第50話 三つの陰りが消えるまで
星冠暦826年・収穫月30日・水耀日
夕食が終わったあと、ミアは居間の壁にある「おえかきのおうち」の前で、ずいぶん長いことごそごそしていた。
色鉛筆を探しているのかと思えば違う。
紙を出すのかと思えば、それでもない。
やがて、普通布でできた横長の七つ目から、紙輪を三つだけ抱えて戻ってきた。
夏休みの残りを数えるために作った十個の輪である。役目を終えたあとは、全部まとめてそこへしまってあった。
「何するの?」
本を読んでいたエルナが尋ねた。
ミアは答える代わりに、三つの輪を床へ少し離して置いた。
「おはなし」
「読むの?」
「やるの」
フィンも食後の水を持ったまま近寄ってくる。
「何の話?」
「まだない」
「ないのかよ」
「これから!」
そこだけは自信満々だった。
ミアは三つの紙輪を眺め、一つを窓寄りへ、もう一つを食卓の近くへ、最後の一つを少し離れた場所へ置き直した。
それだけで何かが始まるらしい。
窓辺から見ていたルクスが白い頭を傾けた。
「床に輪を三つ置けば話になるのか?」
「なるよ」
「ずいぶん簡単だな」
そこへ、夕食後に一度離れへ戻っていたアルノが母屋へ入ってきた。
居間の床を見て足を止める。
「今度は何を始めたんじゃ?」
「おはなし!」
「まだ何も起きておらんようじゃが」
ミアは三つの紙輪を見つめていたが、何か思いつくとアルノの袖を引いた。
「おじいちゃん、くらくするまる、ある?」
アルノが一度瞬きをする。
先に分かったのはエルナだった。
「減光環?」
「それ!」
「ああ、三枚ともあるぞ」
ミアは嬉しそうに床を指さした。
「みっつ!」
どう使いたいのか、アルノにも見えてきたらしい。
少しして、離れから黒い減光環三枚と低い支持台が運ばれてきた。
店を閉めたオスカーも居間へ戻り、床の様子を見るなり足を止めた。
「今日は何を作ってるんだ?」
「おはなし」
「何を作るか聞いたつもりなんだけどな」
「だから、おはなし!」
ミアには違いがないらしい。
アルノは紙輪の位置に合わせ、三枚の減光環を十分に離して据えた。順に起動すると、それぞれの下へ柔らかな円い陰りが落ちる。
三つの紙輪は、その陰りの中に一つずつ収まった。
完全な暗がりではない。
普段の居間より少し光がやわらいだ場所が、床に三つできただけだった。
けれどミアの目には、さっきまでとまるで違って見えたらしい。
「ここ、おみせ!」
窓寄りの輪を指さした。
「何の店?」
フィンが聞く。
「まだわかんない」
「店なのに?」
「これから!」
二つ目は山になった。
三つ目は海になった。
どうしてそう決まったのかは、誰にも分からない。
ミアがそう言ったので、そうなった。
店には誰かが住んでいて、その誰かが山へ行くらしい。
「パンを買いに行く」
フィンが言った。
エルナが笑う。
「山まで?」
「山のパン屋」
「今できたでしょ」
「できた」
「ミアのおはなしだから、いいの!」
本人の許可が出た。
紙輪のそばにあった小さな紙片が、店から山へ移動する。
それが人なのか荷物なのかも決まっていなかったが、ミアが高い声で喋らせると、フィンが妙に低い声で返事をした。
聞いているうちに、エルナも山の向こうに別の誰かを一人増やした。
オスカーは旅人が通る扉の音を頼まれてもいないのに引き受け、重そうな戸が開く音を口で作る。
「そんな扉、どこにあったの?」
フィンが笑った。
「今できた」
「俺と同じじゃん」
「パパもこれから!」
ミアが嬉しそうに言う。
少し離れた椅子から眺めていたリディアは、海になった紙輪へ紙片が移ったところで、短い節を口ずさんだ。
それまで笑っていたミアがぴたりと止まる。
「ママ、もういっかい」
今度は少し長く歌う。
ミアはその声に合わせて海の中の紙片を揺らした。
フィンが指先で静かな波音を足し、オスカーの重たい扉まで、なぜかいつの間にか海辺へ移っている。
「父さん、その扉さっき山にあっただろ」
「同じ扉かもしれない」
「山から海まで?」
「そこはまだ決めてない」
ミアが声を上げて笑った。
話は、そのあたりから誰のものともつかなくなった。
山へ向かったはずの旅人は途中で海へ寄り、海にいたはずの誰かが店から返事をする。
エルナが筋道を戻そうとすれば、アルノがその隙に妙に荘重な声を差し込んだ。
「そこで旅人は、ついに気づいたのじゃ」
「何に?」
フィンが尋ねる。
アルノは少し間を置いた。
「まだ決めておらん」
フィンが吹き出し、エルナもとうとう本を脇へ置いた。
誰が最初の主人公だったのかも、何のために山へ出かけたのかも、もう怪しい。
けれど誰かが声を変えるたびに、同じ紙片が旅人になり、店の人になり、海から返事をする誰かになった。
リディアの声が流れる間だけ、窓寄りの陰りまで海の続きのように思える。
三枚の減光環は、そんな家族の都合とは関係なく、最初から変わらない柔らかな陰りを床へ落としていた。
窓辺にいたルクスは、かなり長いこと騒ぎを眺めていた。
ミアが一番端の陰りを指さす。
「ここ、ルーちゃんのおうち!」
「違う」
「じゃあ、おやま」
「違う」
「うみ!」
「俺をどこかへ住ませるのをやめろ」
ルクスは窓枠の上で向きを変えた。
それで会話は終わったように見えた。
ところがしばらくすると、白い翼がふわりと開いた。
ルクスは床へ降り、三つの陰りの前で一度だけ足を止める。
それから、一番端の円へ歩いて入った。
柔らかな影の中央へ白い身体を収め、そこで何事もなかったように翼を畳む。
さっきまで紙輪しかなかった場所が、それだけで急に賑やかになった。
ミアが口を開く。
フィンも何か言おうとした。
二人とも、ルクスの目が細くなったのを見て声を抑えた。
結局、ミアだけが小さく言った。
「ルーちゃん、でた」
「出てない」
それ以上、ルクスは動かなかった。
物語の方は続いていった。
白い鳥が何役なのかは、誰も決めなかった。
海にいるのか、山から来たのか、そもそも話とは関係なく、少し暗い場所へ座りたかっただけなのかもしれない。
ミアも無理に役を付けず、ルクスのいる陰りをそこに残したまま、紙片だけをあちらこちらへ動かした。
やがて、最初に起動した陰りの輪郭がふっと薄くなった。
床へ戻った普通の明るさに、紙輪が一つだけ残る。
少しして二つ目もほどけ、最後にはルクスのいる円からも柔らかな影が消えていった。
居間は、何事もなかったように元の明るさへ戻った。
店も山も海もなくなった。
残ったのは紙輪と紙片、それから影の消えた場所へ座ったままのルクスだった。
「まだ、おはなしおわってない」
ミアが少し残念そうに言う。
オスカーは消えた陰りの跡を見るように床へ目を落とした。
「道具の方が先に終わったな」
「でも、どこまでやったんだっけ」
エルナが聞くと、フィンはしばらく考えた。
「山にパンを買いに行って、海に行って、父さんの扉がついてきた」
「扉はついていってないぞ」
「二か所にいただろ」
「同じものとは言ってない」
「じゃあ二枚あったの?」
「それも決めてない」
話し合うほど、ますます分からなくなった。
誰も結末を決めようとはしなかった。
ミアも途中で笑い出し、三つの紙輪を集めると、残りの輪と一緒に「おえかきのおうち」の横長の収納部へ戻した。
アルノは減光環を一枚ずつ支持台から外し、三枚とも離れへ持ち帰った。
少し前まで三つの場所があった床には、もう何もない。
それでもルクスだけは、一番端の陰りがあったところに残っていた。
今は居間の灯りをまともに受け、白い羽がさっきよりずっと明るく見える。
ミアが戻ってくる。
「ルーちゃん」
「何だ」
「また、でる?」
ルクスは床に残っていた小さな紙片を見つけると、嘴の先でミアの方へ押した。
それから、何でもないことのようにその場へ座り直す。
「芝居に出た覚えはない。……ただ、あの暗い席なら、もう一度くらい使ってもいい」




