第48話 三つの鞄が帰るころ
星冠暦826年・収穫月28日・月耀日
収穫月二十八日の朝、玄関脇には三つの鞄が並んでいた。
壁際の一枚背板へ、エルナ、ミア、フィンの鞄がそれぞれ背を預けている。底は石床についたままなのに、肩紐が通路へ倒れてこない。それだけのことが、学校のある朝にはずいぶん便利だった。
最初に支度を終えたエルナが、自分の鞄の上端を手前へ引いた。壁側へ預けられていた背がすっと離れ、底を持ち上げれば、あとはいつもの鞄である。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
台所からリディアの声が返った。
少し遅れてフィンも玄関へ来た。片方の靴を履いてから忘れ物に気づき、居間へ戻り、今度こそ鞄を背負って戸口へ向かう。
「俺も行ってきます」
「今日は二回目で出られたな」
店へ回る支度をしていたオスカーが笑った。
「まだ忘れ物したって決まってないだろ」
「何を取りに戻った?」
「……筆箱」
「忘れ物じゃないか」
フィンは聞こえないふりをして外へ出た。
最後まで残っていた中央の鞄は、ミアのものだった。
本人はその前にしゃがみ込み、口を開けて中を覗いている。
「ミア、きのうの絵もってく?」
「昨日の絵は店先にあるでしょう?」
リディアに言われ、ミアは顔を上げた。
「じゃあ、もってけない」
「そうね」
少し考えたあと、何を納得したのか大きくうなずき、鞄を背負う。
リディアが差し出した手を握って、ミアも元気よく玄関を出ていった。
「いってきます!」
三人分の声がなくなると、一枚背板の前だけが妙にすっきりした。
朝の光が石床まで伸び、いつもなら鞄に隠れている板の下端までよく見える。
オスカーは店へ入る前に玄関を振り返った。
「広いな」
窓辺で羽づくろいをしていたルクスが、白い頭を上げる。
「玄関の話か?」
「ほかに何があるんだ」
「お前の店も、物を三つ減らせばそれくらい広くなる」
「朝から嫌なこと言うなよ」
ルクスは返事をせず、また翼の間へ嘴を入れた。
昼を過ぎても、背板の前はしばらく空いたままだった。
この日はフィンが先に帰ってきた。
勢いよく戸を開けかけ、足元の敷居を見て少しだけ速度を落とす。
「ただいま」
鞄を肩から下ろして玄関脇へ置き、背を板側へ軽く押す。弱い保持が受け印を捉えると、鞄は石床へ底をつけたまま壁際へ収まった。
朝には何もなかった場所へ、まず一つだけ戻った。
フィンはそれを確かめることもなく、水を飲みに台所へ消えていった。
しばらくして、戸口の向こうからミアの声が聞こえた。
「ただいまー!」
今日はリディアが迎えに行ったらしい。二人で戻ってきたミアは、鞄より先に長いものを両手で抱えていた。
細い紐へ、赤や黄色や青の小さな色紙がいくつも留めてある。三角の紙が歩くたびに揺れて、玄関へ入るころには半分ほどがミアの後ろをついてきていた。
フィンが居間から顔を出す。
「何それ」
「はた!」
ミアは得意そうに掲げた。
「ながいの!」
「それは見れば分かる」
今日、幼年学舎で作ったものらしい。
ミアは話しながら鞄を中央へ戻したが、飾りまで片づける場所は決めていなかった。考えた末に、紐の真ん中あたりを自分の鞄の持ち手へ掛ける。
左右へ余った分が垂れ、一方の端がフィンの鞄の肩紐へ重なった。
「俺のにも付いてるぞ」
「いっしょ!」
「俺は作ってないけど」
外せば済む話だった。
けれどフィンも急いで使うものではないと思ったのか、そのままにして居間へ戻った。
夕方近くにはエルナも帰ってきた。
「ただいま。……何これ?」
玄関を横切る色とりどりの小旗に気づき、足を止める。
「ミアの!」
「それは分かるけど」
床へ落ちかけていた端を拾い、とりあえず踏まないよう持ち上げたところで、自分の鞄を右端へ置く必要があった。
エルナは少し迷い、その端を鞄の上へ軽く預ける。
それだけだった。
夕食の支度が始まるころには、三つの鞄が朝と同じ玄関脇へ並び、その前を赤、黄色、青の小旗が緩く渡っていた。
朝は一つずつ空いていった場所が、夕方にはまた埋まっている。
ただ、朝にはなかった細い紐だけが三つの間を行き来していた。
騒ぎになったのは、そのあとだった。
「姉ちゃん、昨日の算術の紙見なかった?」
居間で本を開いていたエルナが顔を上げる。
「知らない。自分の鞄は?」
「見たと思ったんだけどな」
そう言いながら、フィンは玄関へ戻った。
左端の鞄を手前へ傾ける。
背板の弱い支えから抜けたのは、フィンの鞄だけだった。
ところが一歩持ち上げようとしたところで、小さな色紙が一斉にぱたぱたと鳴った。
「ん?」
足が止まる。
フィンの肩紐へ引っ掛かっていた飾り紐が伸び、中央を通って右端までぴんと張っている。
ミアとエルナの鞄は、壁際から動いていない。それぞれ自分の場所で、いつものように背を預けたままだ。
引かれたのは、その間を勝手につないでいた細い紐だけだった。
赤い小旗が一枚、危なっかしく横を向く。
「フィン、そのまま」
エルナの声に、フィンは鞄を下ろした。
「動いてない」
「鞄はね」
「これ、ミアの旗か」
居間からやってきたミアが、張った紐を見て目を丸くする。
「さんこ、つながってる!」
「今だけな」
フィンが苦笑した。
店からオスカーも顔を覗かせたが、玄関を一目見ただけで足を止めた。三つの鞄を順番に確かめるようなことはしない。
「今日は板を開けなくてよさそうだな」
「最初から開けなくていいよ」
エルナが答える。
「紙が切れる前に外そう」
結局、必要だったのは工具ではなく、三人分の手だった。
フィンが自分の鞄をそれ以上引かないよう支え、エルナが右端で肩紐に入り込んだ飾りを少しずつ抜く。ミアは中央に立ち、自分の鞄へ掛けたところを両手で持ち上げた。
途中で紐の端が指から滑った。
石床へ落ちた細い紐が、するすると窓辺の方へ逃げていく。
白い影が先に動いた。
ルクスは窓枠から降りると、流れてきた紐の端を片足で押さえた。
「ルーちゃん!」
白い頭が、いかにも不本意そうにミアへ向く。
「そこ、おさえてて!」
頼まれたから押さえたわけではない、と言いたげな顔だった。
それでも足は動かなかった。
エルナが最後の引っ掛かりを抜くまで、ルクスはそのまま紐を踏んでいた。
ほどけてしまえば、騒ぎはそれで終わった。
フィンの鞄を元の位置へ戻すと、弱い支えがその背だけを壁際へ受け止める。中央も右も最初から何も変わっていない。
三つの間から色紙の飾りだけがなくなり、玄関は第32話以来の見慣れた姿へ戻った。
フィンが探していた算術の紙は、鞄の一番底から出てきた。
「やっぱり入ってた」
「最初からちゃんと探せば、旗も引っぱられなかったね」
エルナが笑う。
「見たって」
「底まで?」
「……今見た」
台所から聞いていたリディアの笑い声まで重なった。
ミアは助かった小旗飾りを両手へ集め、一枚ずつ確かめている。少し折れた赤い旗があったが、破れたものはなかった。
窓辺へ戻ろうとしていたルクスの前で、ミアはそれを高く掲げた。
「きれなかった!」
「それはよかったな」
返事があまりに素直だったので、ミアが一瞬きょとんとした。
ルクスも気づいたらしい。
「次は鞄に絡ませるな」
「はーい」
夕食のころには、小旗飾りも玄関から片づいていた。
午後まで空だった背板には、布地も大きさも違う三つの鞄が並んでいる。
朝、それぞれ別の学校へ向かって家を出た三人が、別々の時間に同じ戸口をくぐって戻った。その間に何をしていたのかは、鞄を外から眺めても分からない。
フィンの底には折れかけた算術の紙があり、ミアの中には工作の切れ端が少し残っている。エルナの鞄には、明日また学院へ持っていく本が入っていた。
どれも朝とは少し違う。
それでも置かれる場所だけは、朝と同じだった。
食後、ミアが玄関を通りかかり、三つ並んだ鞄を見て足を止めた。
ルクスも少し離れた窓辺にいる。
「ルーちゃん」
白い頭だけが動いた。
「みんな、かえってきたね」
ルクスはミアではなく、玄関脇へ目を向けた。
朝には板の前がすっかり空いていたことも、昼から一つずつ鞄が戻ってきたことも、ずっとこの家にいたルクスは知っている。
三つの影が石床へ並び、夕方より少し早く暗くなった玄関を狭くしていた。
「朝はずいぶん広かったんだがな。……三つとも戻ると、やっぱりこの家は狭い」




