第47話 三つ角ぶんの旅
星冠暦826年・収穫月27日・陽耀日
陽耀日の昼過ぎ、エルナとミアは夕食に使う果物を買いに、西工房区の市場へ向かっていた。
急ぐ用事ではない。
収穫月も終わりに近づき、日なたにはまだ暖かさが残っているものの、通りを抜ける風には夏とは違う軽さがあった。
小広場を横切ろうとしたところで、ミアが足を緩めた。
広場の端に小さな卓が出ている。
大げさな飾りはなく、白い紙の束と、手のひらほどの木片が籠へ入っているだけだった。
その後ろに立てられた札には、一文だけ書かれていた。
『はじめて西工房区へ来た人に、一つだけ見せるなら?』
ミアは札を見上げた。
「おねえちゃん」
「うん」
「ひとつだけ?」
「そう書いてあるね」
卓の係に聞くと、その日の午後だけ行っている小さなまち歩きだった。
近所を自由に歩き、初めてこの辺りへ来た人に見せたいものを一つ探す。見つけたら紙へ絵か短い言葉で残し、広場へ戻ってくる。
ミアは果物の買い物より先に白紙を受け取った。
「忘れないでよ。市場にも行くんだから」
エルナも一枚受け取りながら念を押す。
「わすれないよ」
もう市場と反対方向を見ている。
エルナは少しだけ不安になった。
白紙と一緒に、小さな木の案内片が貸し出された。
表面には短い光の筋がある。
手のひらへ水平に乗せると、光は広場の卓の端に固定された小さな基準印の方角を向いた。
ミアが案内片を回す。
光だけがするりと元の向きへ戻る。
「これが、いいところ、おしえてくれる?」
「それは教えてくれないって」
係の人が笑った。
案内片が示すのは、ここへ戻るための方角だけだった。
どの道を歩けばよいかも、どこが面白いかも知らない。
ミアは案内片を裏返し、何もない裏面まで確認した。
「じゃあ、どこいくの?」
「そこを決めるのが今日の遊びなんじゃない?」
エルナが言う。
ミアはしばらく考えたあと、白紙を胸へ抱えた。
「じゃあ、すごいのさがす」
どうやら目的だけは決まったらしい。
市場には、収穫月らしい色がまだたくさん残っていた。
赤や黄の果物が籠へ高く積まれ、香草の束が軒下で揺れている。行き交う買い物客の間を、荷物を積んだ車がゆっくり抜けていった。
エルナが果物を選んでいる間、ミアは市場を端から端まで眺めた。
けれど白紙には何も描かない。
「市場じゃないの?」
帰り際に尋ねると、ミアは首を横へ振った。
「ここ、しってるもん」
そこから歩き出しても、事情はあまり変わらなかった。
紙店の窓へ並んだ色の違う紙も、図書館へ続く道も、角を曲がったところにある工房の並びも、ミアにとっては「見たことがあるもの」だった。
知らない人なら初めて見る。
けれど自分が見慣れているせいで、どうしても「すごいもの」には思えないらしい。
三つ目の角を曲がったころには、白紙はまだ真っ白だった。
「西工房区に、何もないわけじゃないんだけどなあ」
エルナが言った。
「あるよ」
「じゃあ描けば?」
「もっと、はじめてのがいい」
「ミアにとって初めてじゃなくて、初めて来た人に見せるものを探すんでしょ」
分かってはいるらしい。
それでもミアは納得しない。
しばらく歩くと、西工房図書館の近くで見覚えのある人とすれ違った。
休日のマーレン・ヴィッテだった。
仕事中ではないらしく、手には本ではなく、ミアたちと同じ白紙と木の案内片を持っている。
「マーレンさんもやってるの?」
ミアが尋ねる。
「ええ。まだ決めてないけれど」
「としょかんじゃないの?」
「毎日いるからこそ、今日は少し別のところを見てみようかなと思って」
そう答えて、マーレンは二人とは違う通りへ歩いていった。
司書だから図書館を選ぶわけでもないらしい。
ミアはその背中を見送った。
それから自分の真っ白な紙へ視線を落とした。
「みんな、さがしてるんだね」
「そうみたい」
エルナも自分の紙を見た。
こちらもまだ白い。
姉も大して進んでいないと分かり、ミアは少し安心した顔をした。
気づけば、二人は風見鶏通りまで戻ってきていた。
遠くへ行ったつもりはなかったのに、知っている場所ばかり避けて歩いているうち、自分たちの家へ近づいてしまったらしい。
クラウゼル魔法具店の店先が見える。
「おうちだ」
ミアが言った。
声には少し負けたような響きがあった。
すごいものを探しに出たのに、とうとう毎日出入りしている場所まで戻ってきた。
店の扉のそばでは、以前から一枚の絵が風に揺れていた。
黄色い点に囲まれた、大きな風見鶏。
ミアが描き、家族で選んで、店先へ飾った絵である。
見慣れすぎていて、ミアはもうほとんど意識せず前を通る。
けれど今日は、その前に知らない子どもが立っていた。
ミアと同じくらいか、少し大きいくらいの子だった。
隣には大人が一人いる。
二人とも、広場で貸し出していた木の案内片と白紙を持っていた。
「あれ、なに?」
子どもが店先の絵を指す。
「風見鶏じゃないかな」
大人が答えた。
「おみせのしるし?」
ミアの足が止まった。
子どもは絵を見上げたまま、手元の白紙へ鉛筆を動かし始める。
大きな鳥。
その周りの黄色い点。
絵の下には店の扉まで描こうとしていた。
ミアは自分の紙を抱えたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、そっと近づいた。
「それ、ミアがかいたの」
子どもの鉛筆が止まる。
「ほんと?」
「うん」
「このおっきい鳥?」
「かざみどり」
「すごいね」
短い返事だった。
けれどミアは、すぐには何も返せなかった。
自分にとっては、毎日見る絵だった。
店を出るときも、帰ってくるときもある。
何度も風で揺れるところを見た。
だから今日ずっと、「見せるもの」には入らないと思っていた。
ところが、この子には今が初めてだった。
初めて足を止めて、初めて見上げて、わざわざ紙へ残そうとしている。
窓辺から白い頭が覗いた。
店の中にいたルクスだった。
子どもが絵を描いているのを一度見てから、今度はミアを見る。
何も言わない。
ミアもルクスへは声を掛けなかった。
自分の白紙を見下ろした。
そして、ようやく鉛筆を取り出した。
ミアが描いたのは、店先だった。
大きな風見鶏の絵。
その下の扉。
通りの石畳。
紙の端には、小さく知らない子の後ろ姿まで入った。
エルナは横から覗いたが、途中で口を出さなかった。
描き終えたミアは満足そうに紙を持ち上げる。
「決まった?」
「うん」
「ずいぶん近くまで帰ってきたね」
「でも、はじめてだった」
「何が?」
ミアは自分の風見鶏の絵と、その前に立つ子を指した。
「このこには」
それだけ言うと、もう十分だったらしい。
広場へ戻ろうとして、ミアは貸し出された案内片を手のひらへ置いた。
細い光が、家並みの向こうを指す。
「こっち!」
勢いよく進もうとして、すぐ前の建物を見て止まった。
光の向きは、壁の向こうだった。
「いけない」
「方角しか教えてくれないからね」
エルナが笑う。
ミアは案内片を睨んだ。
「みち、おしえてよ」
光は知らん顔で同じ方向を向いている。
「言っても無理だと思う」
仕方なく二人は角まで歩き、自分たちで道を選んだ。
曲がるたびに案内片を確かめる。
光は広場がある方を示すだけで、近道を褒めても、遠回りを止めてもくれない。
それでも、帰る方角を見失わないという役目だけは最後まできちんと果たした。
三つ角ほど回ったところで、小広場が見えてきた。
戻ってきた参加者たちは、それぞれ違う紙を持っていた。
大きな建物を描いた人もいる。
市場の一角を描いた人もいる。
何を選んだのか、紙を伏せたまま持ち帰る人もいた。
先ほど別の道へ向かったマーレンも、ちょうど反対側から戻ってきた。
「決まった?」
マーレンが尋ねる。
ミアは自分の紙を胸の前へ出した。
「おうちのまえ」
「いいわね」
それだけ言うと、マーレンも自分の紙を受付へ見せに行った。
何を描いたのか、ミアは追いかけて聞かなかった。
それぞれ一つずつ選べばいいのだと思えた。
貸してもらった木片を返す。
広場の基準印も、活動が終わるころには片づけられるという。
ミアの手元に残ったのは、自分で描いた一枚だけだった。
帰り道では、もう案内片はない。
それでも迷わなかった。
今日歩いた道は、全部いつもの西工房区だった。
知らない街へ行ったわけではない。
なのに朝より少しだけ、店先や窓や通りが目に入りやすくなっている。
いつもあるものが、いつもと同じに見えない。
そんな帰り道だった。
夕方、ミアは新しい絵を居間へ持っていった。
壁の「おえかきのおうち」から以前の絵を何枚か出し、その横へ今日の一枚を置く。
店先に飾られている風見鶏の絵を、また自分で描いた絵。
同じものを二度描いたのに、紙の中身は少し違っている。
今度は、見上げている知らない子がいるからだ。
窓辺にはルクスがいた。
昼間、店先でその子を見ていたので、絵を覗き込むだけで何を描いたのか分かったらしい。
ミアは何も説明せず、今日の絵をほかの紙と一緒にしまった。
果物を買いに出ただけのはずなのに、ずいぶん長く歩いた気がする。
ルクスは翼を整えながら、しまわれた絵の方へ一度だけ目をやった。
「三つ角ぶん歩いて、持ち帰ったのがいつもの店先か。……まあ、毎日見てるものを見直したなら、手ぶらの旅ではなかったな」




