第46話 白い紙に午後が積もる
星冠暦826年・収穫月26日・土耀日
土耀日の朝、ルクスは開いた窓へ戻りかけ、翼を一度余計に打った。
いつもの窓台に、白い紙が置かれていたからだ。
紙は窓台いっぱいというほど大きくない。それでもルクスが普段腰を落ち着ける場所の、ちょうど真ん中を占めている。
隅には小さな札が添えられていた。
『一時間。そのままにする』
ルクスは空中で進路を変え、窓枠の一段高いところへ止まった。
「何だ、これは」
居間で時刻を書き留めていたリディアが振り返る。
「今日だけの観察よ。西工房区の何軒かで、同じ大きさの紙を一時間置いてみるの」
「なぜ俺の場所に置く」
「窓を開けている時間が長い場所だから、ちょうどいいかなって」
「俺にとってはよくない」
ミアが窓辺へ近づき、白紙を覗き込んだ。
「なにがでるの?」
「何かが出てくる紙じゃないわよ」
リディアは笑い、窓台の端へ手を添えた。
「いつもなら、ここに細かい埃があれば掃除用の魔法具で払えるでしょう。でも、この一時間だけは紙に付いたものを払わず、そのままにしておくの」
「まほう、つかわないの?」
「この紙にはね。消してしまったら、何が付いたか見られないもの」
ミアはしばらく白紙を見つめた。
まだ何もないように見える。
「たいへんじゃないね」
「始まったばかりだからな」
工房へ向かう途中だったオスカーが言った。
「こういうのは、何もしない方が難しいときもあるぞ」
ルクスが鼻を鳴らす。
「少なくとも、お前たちが紙を一時間放っておく程度のことなら、俺は毎日やっている」
そう言いながらも、窓台へ降りようとはしなかった。
白紙の上へ羽毛でも落とせば、それも一時間の中へ混じる。
参加する気はないらしいが、邪魔をする気もないらしい。
リディアは何も言わず、そのまま時刻だけを札へ書いた。
半刻ほど過ぎたころ、オスカーが包装紙を買い足しに出ることになった。
ミアもついていく。
二人が風見鶏通りを離れて西工房区へ入ると、あちこちに小さな白い四角が見つかった。
ある家では開けた窓のそば。
小さな工房では戸口の内側。
店先の棚の端にも一枚ある。
どの紙にも、置いた時刻と場所を書いた札が添えられていた。
ミアは歩きながら、見つけるたびに指をさした。
「ここにも」
「あるな」
「こっちにも」
「あるな」
三枚目を見つけたところで、オスカーは笑った。
「全部数えなくてもいいぞ」
「でも、しろいの、みつけやすいよ」
同じ白紙でも、置かれたところが違えば周囲の景色まで違って見える。
道に近いもの。
庭木のそばにあるもの。
室内の奥へ少し引っ込んだもの。
ただ紙を並べただけなのに、普段は通り過ぎてしまう場所へ目が向いた。
紙店へ着くと、トビアス・ヘルンは客を迎えるより先に、店先の窓台を見ていた。
そこにも白紙が一枚置かれている。
紙屋の店先だけあって、白さだけなら周囲の商品にも負けていない。
ただし中央には、朝にはなかった小さな灰色の点が落ちていた。
「こんにちは、トビアスさん」
オスカーが声を掛ける。
「おう」
トビアスは答えながらも、まだ紙を見ている。
「さっきから何をそんなに睨んでるんだ」
「拭きたい」
真剣な声だった。
オスカーが吹き出す。
「観察中だろ」
「分かってる。だから我慢してるんだ」
トビアスは腕を組んだ。
「紙屋の店先で、白い紙に点が増えていくのを見てみろ。仕事と真逆のことをしてる気分になるぞ」
ミアが白紙を覗く。
「よごれた?」
「そう言いたくなるが、今日はまだ『何か付いた』までらしい」
トビアスが妙に慎重な言い方をしたので、オスカーが眉を上げる。
「ちゃんと説明を聞いたんだな」
「紙を渡されたときに何度も言われた。見ただけで正体を決めるな、一枚で店がどうこう決めるなって」
「俺より真面目じゃないか」
「俺は紙については真面目だ」
そこへ、軒の上から白い影が滑り降りてきた。
ルクスだった。
店先の窓台へ止まろうとしたらしい。
けれど白紙に気づいた瞬間、翼の角度が変わった。
そのまま少し高い看板の支えへ着地する。
トビアスが見上げた。
「お前、家でも追い出されたのか?」
「追い出されてない」
「じゃあ今日は白紙に負けてるな」
「お前の店が紙屋だからといって、止まる場所まで紙にするな」
トビアスは声を上げて笑った。
ルクスは不機嫌そうに翼を畳んだが、別の店へ飛び去ることはなかった。
一時間が過ぎるころ、観察に参加した家や店の人たちが、小広場へ紙を持ち寄り始めた。
17番地の紙はオスカーたちが家へ戻ったときに回収し、リディアが記録札と一緒に持ってきている。
トビアスも紙店の一枚を手にしていた。
広場の端へ置かれた長い板には、白紙が少しずつ並んでいく。
朝のまま白く見えるものもあれば、近くで見ると小さな点が散っているものもある。細い繊維らしきものが付いた紙では、その周りへ何人かが顔を寄せていた。
ただ、紙だけを見て「ここが一番きれいだ」「こちらが悪い」と順位を付ける者はいなかった。
紙の隣には必ず札がある。
どこへ置いたか。
何時から何時までだったか。
窓が開いていたか。
近くで何をしていたか。
紙を見ながら話しているうち、白い面そのものより、その周りにあった一時間の方が少しずつ形を持ち始めた。
「これは紙の繊維じゃないか?」
トビアスが自分の店の一枚を指した。
リディアが隣から覗き込む。
「紙屋さんにはそう見える?」
「見える。俺は毎日見てるからな」
「じゃあ、『紙の繊維に見えるものがあった』までは書けるわね」
「紙の繊維だ、じゃないのか」
「そこまで確かめるなら、また別の確認がいるでしょう?」
トビアスは紙へ顔を近づけ、しばらく考えた。
「なるほど。俺が紙屋なのと、こいつが紙の繊維なのは別か」
「そういうこと」
「面倒だな」
そう言った声は、少し楽しそうだった。
近くでは、別の住民が「うちは通り側の窓だった」と話し、その隣から「こっちは庭側だった」と声が返る。
誰かが答えを言うたびに話が終わるのではなく、置いた場所の話がもう一つ増えていく。
ミアはリディアの袖を引いた。
「ママ。うちのかみは、いいかみ?」
リディアは板の中から17番地の一枚を見つけた。
「今日の一時間、あの窓に置いてこうなった紙よ」
「いいの?」
「いいか悪いかは、まだ決めてないの」
「じゃあ、なんでみるの?」
リディアは答える前に、並んだ紙を見渡した。
「決める前に、ちゃんと見るためかな」
ミアも同じ方を見る。
今度はどの紙が一番白いか探さなかった。
紙の横にある札を、一枚ずつ読むにはまだ字が多すぎるらしく、場所の名前だけを拾おうとしている。
広場の屋根では、ルクスがその様子を眺めていた。
家の窓台を譲り、紙店でも止まる場所を変え、とうとうここまでついてきたことになる。
もちろん本人に聞けば、偶然同じ方角へ来ただけだと言うに違いない。
やがて回収の時刻になり、保健院の担当者たちが紙と札を組にして重ね始めた。
今日の観察はそこで終わる。
一時間分の白紙を見ただけで、明日から街の清掃方法が変わるわけではない。新しい設備が付くわけでもない。
今日集まったのは、次に何かを確かめるときのための、小さな材料だった。
最後の紙が板からなくなる。
空いた手すりへ、白い翼がふわりと降りた。
ルクスは当然のような顔でそこへ腰を落ち着けた。
ミアは気づいたが、声を掛けなかった。
ただ少し笑って、リディアと一緒に帰り支度を始めた。
夕方、風見鶏通り17番地の窓台も朝の姿へ戻っていた。
観察紙も札もない。
薄く積もった埃まで急いで払うことはせず、いつもの掃除は明日でもいいだろうということになった。
日が傾くころ、ルクスが帰ってきた。
今度は窓の前で進路を変えない。
いつもの場所へ降り、足元を一度確かめてから翼をたたむ。
居間では、今日見た紙について家族がまだ少し話していた。
何が付いていたのか。
どこから来たのか。
今日と違う時間ならどうなるのか。
答えの出ていない話ばかりだった。
ルクスはしばらく黙って聞き、やがて窓の外へ顔を向けた。
「一枚で街じゅうを分かった顔にしなかったのは、まあ悪くない。……俺の窓台を一時間取ったぶんくらいはな」




