第44話 返す前の一往復
星冠暦826年・収穫月24日・木耀日
朝の店先へ光が入り始めたころ、オスカーは修理帳の一行で筆を止めた。
修理完了。
間違ってはいない。
工房の棚には、薄い木箱へ収めた二枚一組の写し札が置かれている。
九月十九日、返却前の確認をした品だった。
片方へ専用筆で書けば、その線が対になった札へ同じ位置と形で現れる。書かれたものが冗談か本気かまで札が知るわけではなく、あの日は家族が勝手に小さなくるり印を作って遊んだ。
書写も消去も正常だった。
返却前の確認としては、とっくに終わっている。
それでも木箱はまだ棚にあった。
オスカーは「修理完了」の下へ、小さく書き足した。
返却待ち。
「終わったのに待つんだ」
登校前のフィンが、工房の戸口から帳面を覗いていた。
「直す方は終わったんだよ」
「じゃあ、まだ終わってないんだろ?」
「朝から面倒なことを言うな」
フィンは笑いながら鞄を背負い直し、そのまま店を出ていった。
一人残ったオスカーは、もう一度棚を見る。
修理品が客の手へ戻るまで店の仕事だということくらい、昔から知っている。
知っていることと、帳面の一行として目にすることは、どうも少し違うらしかった。
昼前、写し札の持ち主が店を訪れた。
「お待たせしました、アンネさん」
アンネ・バルツは、西工房区の布地店で帳場と在庫の確認をしている女性だった。
写し札も、店先と奥との短いやり取りに使っているという。
オスカーは木箱を開き、二枚を布の上へ並べた。
修理した箇所と返却前に確認したことを、必要な範囲だけ説明する。アンネは途中で質問を挟みながら聞き、最後に修理内容を記した紙まで読み終えた。
「分かりました」
そう言ったものの、彼女の手は木箱へ伸びなかった。
二枚の札を見比べている。
「どうかしましたか?」
「一度、私が使ってみてもいいですか?」
オスカーは少し意外に思った。
「もちろんです」
「店へ戻ったら、向こうにいる人へ私が使い方を説明することになるので。ここで一回、自分でやっておきたくて」
言われてみれば自然な話だった。
それなのにオスカーは、返却のときには自分が動かして見せるものだと、どこかで決めていたらしい。
職人が扱う。
客が見る。
それで説明になると思っていた。
「では、アンネさんはこちらを」
一枚を店先の卓へ残し、オスカーはもう一枚を持って工房へ下がった。
扉は開いているが、互いの札の面は見えない。
布地店でも、帳場から奥の在庫置き場までは直接見通せないという。
「普段と同じような用件を書いてみてください」
奥から声を掛ける。
しばらくすると、オスカーの手元の白い面へ線が現れ始めた。
灰布 三巻 店先へ
短い文だった。
日常で何度も使う形なのだろう。返却試験で家族が書いた冗談より、ずっと迷いがない。
オスカーはその下へ、
見えています。
と返した。
店先からアンネの声が届く。
「はい。こっちにも出ました」
続いて、
二巻でよくなりました
と新しい文字が来る。
オスカーも、
了解しました
と返す。
それだけだった。
けれど店先へ戻ると、アンネは最初に説明を聞いていたときより、ずっと気楽な顔をしていた。
「そう、これなら大丈夫です」
「書く方は問題なさそうですね」
「消す方も、自分でやってみます」
アンネは教えられるのを待たず、先ほど説明された操作を思い出しながら札を扱った。
少し慎重ではあるが、手は止まらない。
書かれていた線が消え、対札の文字も同じようになくなる。
一度、自分の手で一往復させただけだった。
写し札の働きは、五日前と何も変わっていない。
変わったのは、札を持って帰る人の顔だった。
「これなら、店でも説明できます」
アンネは二枚をもう一度確かめてから、木箱へ収めた。
「紙を読んだときも分かったつもりでしたけど、自分で書いて向こうから返ってくると、どこを説明すればいいかも分かりますね」
「そうですね」
オスカーは素直にうなずいた。
用意した説明書には、書写の方法も消去の手順も書いてある。
間違ったことは書いていない。
けれど、その紙自身が札を使ってみせてくれるわけではない。
「私も、説明できれば十分だと思っていました」
客に向かってそう言ってから、オスカーは棚の方へ目をやった。
「使うのはアンネさんなのに」
「職人さんが全部やって見せてくれたら、私、帰ってからもう一回初めて触ることになりますから」
「それもそうですね」
二人で笑った。
アンネは修理内容の紙も木箱へ入れ、蓋を閉じた。
その動きを見て、オスカーはようやく、棚にあった品が客の持ち物へ戻ったような気がした。
「ありがとうございました」
「こちらこそ。使っていて不具合が出たら、また持ってきてください」
いつもの言葉を口にしかけ、少し考える。
「不具合じゃなくても、使いにくいところがあったら教えてください」
アンネは一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「はい。そうします」
木箱を抱え、店を出ていく。
扉が閉じると、五日前から写し札が置かれていた棚の一角だけが、ぽっかり空いていた。
オスカーは修理帳を開いた。
朝に書いた、
修理完了。
その下の、
返却待ち。
二行目を消す代わりに、その横へ日付と短い一語を足した。
返却済み。
書いてしまえば、たったそれだけだった。
それでも朝の「完了」とは、少し違って見える。
午後の仕事へ戻ろうとして、オスカーは次の修理品を棚へ置きかけた。
そこで一度手を止める。
今日から、どんな品でも必ず客自身に試してもらう――そんな決まりを作る気はなかった。使い方が単純なものもあれば、職人が確認すべきものもある。
ただ、持ち主が日々の仕事の中で扱う道具なら、その人の手へ戻る前に一度触れてもらった方がいい場合もある。
今日はそうだった。
覚えるのは、そのくらいでよかった。
夕方になると、空いた棚へ西日が差した。
幼年学舎から帰ってきたミアが店を覗き、そこにあったはずの木箱が消えていることに気づいた。
「パパ、あのおふだ、おわった?」
朝なら少し迷った質問だった。
オスカーは帳面を閉じる。
「ああ。今度こそ終わったよ」
「おうち、かえった?」
「持ち主のところにな」
ミアはそれだけで納得し、夕食の匂いがする方へ戻っていった。
店を閉めるころには、西日の四角も棚から消えていた。
窓辺ではルクスが白い翼を整えている。
五日前の返却前確認も、今日アンネが木箱を抱えて出ていったところも、この家にいれば目に入る範囲だった。
オスカーが最後に修理帳を閉じると、ルクスは空いた棚へ一度だけ目をやった。
「返却前の確認から五日。線はすぐ向こうへ届くのに、札そのものはずいぶんゆっくり戻ったな、オスカー」




