第43話 手のひらの向こう側
星冠暦826年・収穫月23日・水耀日
その日の午後、エルナの教室では、机が壁際へ寄せられていた。
いつものように黒板へ向かう列はなく、椅子だけがゆるい半円を描いている。その中央に立っていたのは、肩までの茶色い髪を後ろでまとめた女性と、その隣の通訳者だった。
女性はニーナ・ロート。リーデン市で製本の仕事をしていて、日常ではフェルム手話を使っている。
授業が始まると、ニーナはまず生徒たちを見渡した。
両手が動く。
エルナにはまだ、その一つ一つが何を表しているのか分からない。けれど動きが終わってから通訳者が「今日は呼んでくれてありがとうございます」と伝えたとき、教室のあちこちで小さく息を呑む気配がした。
声が届くより前に、ニーナの挨拶はもう終わっていた。
教員は、今日触れるフェルム手話について短く説明した。共通語の単語を手の形へ一つずつ置き換えたものではなく、独自の語彙や組み立て方を持つ言語だという。
エルナは素直に面白いと思った。
音ではなく、目で受け取る言語。
魔法でも、何を入力として扱うかが変われば術式の組み方は変わる。似たところがあるかもしれない。
そう考えたところで、エルナの注意は早くも「どういう仕組みなのか」へ向かい始めていた。
授業の途中、教員が一つの補助を提案した。
ニーナがうなずくのを確認してから、教員は彼女の両手だけを対象に、低出力の光跡術式を起動する。
手が動くと、その位置の変化を追って淡い線が空中へ残った。
細い光は二呼吸ほどでほどけるように消える。
術式が見ているのは、指定された両手がどこを通ったかだけだった。形の意味も、話している内容も知らない。
ニーナが短い表現を一つ示す。
手の軌道を淡い線が追い、空中に二本の曲線が残った。
「わあ」
誰かが声を漏らす。
エルナも少し身を乗り出した。
右手はここから始まる。
左手との距離はこれくらい。
途中で向きが変わって、最後はここへ来る。
光は余計な解釈をせず、実際に通った場所だけを残してくれる。
練習するなら、とても便利そうだった。
やがて生徒たちも、今日教わった短い挨拶を一人ずつ試すことになった。
エルナの番が来る。
椅子から立ち、ニーナの正面へ出た。
まず見本を見る。
淡い光が手の動きを追い、消える前の線を目で覚える。
もう一度見せてもらった。
今度は始点と終点だけでなく、途中の曲がり方まで追った。
自分の番になると、ほとんど同じ軌道を通せたと思った。
光の形だけなら、かなり近い。
エルナがわずかに胸を張ると、ニーナは笑みを浮かべたまま、少し考えるように首を傾けた。
その手が通訳者へ向かって動く。
「手の動きは、とてもよく見ていました」
褒められた。
エルナの表情が明るくなる。
けれど通訳は、そこで終わらなかった。
「ただ、ほとんど光を見ていましたね、と」
「あ」
思わず声が出た。
ニーナを見ていたつもりだった。
けれど思い返してみると、目で追っていたのは手そのものですらない。手が通り過ぎたあとへ残った、淡い線だった。
ニーナが教員へ合図する。
今度は光跡を使わず、同じ挨拶をもう一度見せてくれた。
エルナは最初こそ手の形を追ったが、すぐに前とは違うものが目へ入ってきた。
ニーナの視線がこちらへ向いている。
手が動くのに合わせて、顔にも小さな変化がある。
身体の向きも、光の曲線だけを見ていたときにはほとんど意識していなかった。
同じ動きを見ているはずなのに、前とは違って見える。
光跡に間違いがあったわけではない。
最初から、残せるものだけを正確に残していた。
ニーナが何かを伝える。
「手だけを写せば、全部になるわけではないそうです」
エルナは、消えてしまった光のあった場所から目を離し、ニーナを見た。
もう一度、自分でやってみる。
今度は空中へ同じ線を描くことより、目の前の相手へ挨拶することを意識した。
形が完全だったかは分からない。
途中で手の高さに迷ったところもある。
それでも終わると、ニーナが笑って、同じ挨拶を返してくれた。
エルナも笑い返した。
さっきの方が、光の線はきれいだった。
なのに今の方が、ずっと「返ってきた」と感じた。
その後、光跡術式は使わずに授業が続いた。
分からなくなれば、もう一度見せてもらう。見ただけで分かったつもりにならず、必要なら通訳を介して尋ねる。
エルナも一つ質問した。
製本の仕事では、周りの人もフェルム手話を使うのか。
通訳者がエルナの質問をニーナへ伝えると、ニーナは少し考えてから答えた。
職場の全員が同じように使えるわけではない。よく手話を使う人もいれば、仕事で必要な短いやり取りを覚えている人もいる。別の方法を使うこともある。
一つのやり方だけで、何もかも済ませているわけではないらしい。
エルナはその話を聞きながら、授業の最初に便利だと思った光を思い出した。
役に立たなかったのではない。
手がどこを通るか確かめるには、確かに見やすかった。
ただ、見やすくなったものだけを見ていると、それ以外が目に入らなくなることがある。
授業の終わりには、中央に残っていた術式も解除された。
ニーナが生徒たちへ別れの挨拶をする。
今度は通訳者の声が届く前に、エルナにも今日覚えた一部分だけは分かった。
意味を全部読み取れたわけではない。
それでも、午前まで知らなかったものが一つ、自分の目に見えるようになっていた。
エルナは覚えたばかりの挨拶を返した。
ニーナも笑って返してくれた。
夕方、風見鶏通り17番地へ帰ると、フィンが食卓で教本を開いていた。
エルナは鞄を置き、その向かいへ立つ。
「フィン、ちょっと見てて」
「何を?」
エルナは答えず、学院で覚えた挨拶をしてみせた。
弟は最初こそ目を丸くしたが、二度目にはもう、自分でも真似しようと指を動かし始めた。
「待って。そこ、もう一回」
「フィン」
「何?」
「私の手ばっかり見てる」
「手でやってるんだから見るだろ」
もっともな返事だった。
だからエルナは笑った。
「私も今日、同じことした」
フィンの手が止まる。
エルナは椅子へ座り、学院であったことを話した。手の通った場所だけを残す光のこと。その線をうまく真似できたのに、ニーナ本人をほとんど見ていなかったこと。
話しているうちに、フィンはもう一度「やって」と頼んだ。
今度はさっきほど急いで真似をしない。
エルナが最後まで終えるのを待ってから、不器用な手つきで同じ挨拶を返した。
「どう?」
「最初よりいい」
「どこが?」
「少なくとも、私が終わる前に始めなくなった」
「そこから?」
二人で笑っていると、帰ってきたミアが何事かと寄ってきた。
事情を聞いたミアは、自分もやるとは言わず、まずエルナの正面へ立った。
「おねえちゃん、やって」
エルナが一度だけ見せる。
ミアの目は忙しかった。手を追ったかと思えば顔へ戻り、また指先へ移る。
最後まで見届けてから、小さくうなずく。
「わかった」
「ほんとに?」
「おねえちゃん、さいごににこってした」
エルナは一瞬きょとんとしてから、笑った。
「そこはちゃんと見てたね」
「おてては?」
「そっちは、もう一回見ようか」
今度は三人で向かい合った。
フィンは形を確かめようとし、ミアは途中で左右を間違え、エルナも教わった一つの挨拶以上のことはできない。
それでも誰かが先に正解を言う必要はなかった。
分からなければ、もう一度見る。
それだけでしばらく遊べた。
窓辺では、ルクスが白い翼へ嘴を入れながら、ときどき三人の方を見ていた。
ミアが左右を間違えるたびにフィンが笑い、フィンが手順を急ぐたびにエルナが止める。声を出している時間より、黙って相手を見る時間の方が長くなっているのに、居間は少しも静かな感じがしなかった。
やがてミアが、自分の手を見下ろした。
「こえをつかわなくても、おはなしできるんだね」
ルクスは三人を眺め、白い頭をわずかに傾けた。
「声を使わないからって、話してないことにはならない。……お前たちは静かになっても、ずいぶん騒がしいな」




