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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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43/87

第43話 手のひらの向こう側

 星冠暦826年・収穫月23日・水耀日

 その日の午後、エルナの教室では、机が壁際へ寄せられていた。

 いつものように黒板へ向かう列はなく、椅子だけがゆるい半円を描いている。その中央に立っていたのは、肩までの茶色い髪を後ろでまとめた女性と、その隣の通訳者だった。

 女性はニーナ・ロート。リーデン市で製本の仕事をしていて、日常ではフェルム手話を使っている。

 授業が始まると、ニーナはまず生徒たちを見渡した。

 両手が動く。

 エルナにはまだ、その一つ一つが何を表しているのか分からない。けれど動きが終わってから通訳者が「今日は呼んでくれてありがとうございます」と伝えたとき、教室のあちこちで小さく息を呑む気配がした。

 声が届くより前に、ニーナの挨拶はもう終わっていた。

 教員は、今日触れるフェルム手話について短く説明した。共通語の単語を手の形へ一つずつ置き換えたものではなく、独自の語彙や組み立て方を持つ言語だという。

 エルナは素直に面白いと思った。

 音ではなく、目で受け取る言語。

 魔法でも、何を入力として扱うかが変われば術式の組み方は変わる。似たところがあるかもしれない。

 そう考えたところで、エルナの注意は早くも「どういう仕組みなのか」へ向かい始めていた。

 授業の途中、教員が一つの補助を提案した。

 ニーナがうなずくのを確認してから、教員は彼女の両手だけを対象に、低出力の光跡術式を起動する。

 手が動くと、その位置の変化を追って淡い線が空中へ残った。

 細い光は二呼吸ほどでほどけるように消える。

 術式が見ているのは、指定された両手がどこを通ったかだけだった。形の意味も、話している内容も知らない。

 ニーナが短い表現を一つ示す。

 手の軌道を淡い線が追い、空中に二本の曲線が残った。

「わあ」

 誰かが声を漏らす。

 エルナも少し身を乗り出した。

 右手はここから始まる。

 左手との距離はこれくらい。

 途中で向きが変わって、最後はここへ来る。

 光は余計な解釈をせず、実際に通った場所だけを残してくれる。

 練習するなら、とても便利そうだった。

 やがて生徒たちも、今日教わった短い挨拶を一人ずつ試すことになった。

 エルナの番が来る。

 椅子から立ち、ニーナの正面へ出た。

 まず見本を見る。

 淡い光が手の動きを追い、消える前の線を目で覚える。

 もう一度見せてもらった。

 今度は始点と終点だけでなく、途中の曲がり方まで追った。

 自分の番になると、ほとんど同じ軌道を通せたと思った。

 光の形だけなら、かなり近い。

 エルナがわずかに胸を張ると、ニーナは笑みを浮かべたまま、少し考えるように首を傾けた。

 その手が通訳者へ向かって動く。

「手の動きは、とてもよく見ていました」

 褒められた。

 エルナの表情が明るくなる。

 けれど通訳は、そこで終わらなかった。

「ただ、ほとんど光を見ていましたね、と」

「あ」

 思わず声が出た。

 ニーナを見ていたつもりだった。

 けれど思い返してみると、目で追っていたのは手そのものですらない。手が通り過ぎたあとへ残った、淡い線だった。

 ニーナが教員へ合図する。

 今度は光跡を使わず、同じ挨拶をもう一度見せてくれた。

 エルナは最初こそ手の形を追ったが、すぐに前とは違うものが目へ入ってきた。

 ニーナの視線がこちらへ向いている。

 手が動くのに合わせて、顔にも小さな変化がある。

 身体の向きも、光の曲線だけを見ていたときにはほとんど意識していなかった。

 同じ動きを見ているはずなのに、前とは違って見える。

 光跡に間違いがあったわけではない。

 最初から、残せるものだけを正確に残していた。

 ニーナが何かを伝える。

「手だけを写せば、全部になるわけではないそうです」

 エルナは、消えてしまった光のあった場所から目を離し、ニーナを見た。

 もう一度、自分でやってみる。

 今度は空中へ同じ線を描くことより、目の前の相手へ挨拶することを意識した。

 形が完全だったかは分からない。

 途中で手の高さに迷ったところもある。

 それでも終わると、ニーナが笑って、同じ挨拶を返してくれた。

 エルナも笑い返した。

 さっきの方が、光の線はきれいだった。

 なのに今の方が、ずっと「返ってきた」と感じた。

 その後、光跡術式は使わずに授業が続いた。

 分からなくなれば、もう一度見せてもらう。見ただけで分かったつもりにならず、必要なら通訳を介して尋ねる。

 エルナも一つ質問した。

 製本の仕事では、周りの人もフェルム手話を使うのか。

 通訳者がエルナの質問をニーナへ伝えると、ニーナは少し考えてから答えた。

 職場の全員が同じように使えるわけではない。よく手話を使う人もいれば、仕事で必要な短いやり取りを覚えている人もいる。別の方法を使うこともある。

 一つのやり方だけで、何もかも済ませているわけではないらしい。

 エルナはその話を聞きながら、授業の最初に便利だと思った光を思い出した。

 役に立たなかったのではない。

 手がどこを通るか確かめるには、確かに見やすかった。

 ただ、見やすくなったものだけを見ていると、それ以外が目に入らなくなることがある。

 授業の終わりには、中央に残っていた術式も解除された。

 ニーナが生徒たちへ別れの挨拶をする。

 今度は通訳者の声が届く前に、エルナにも今日覚えた一部分だけは分かった。

 意味を全部読み取れたわけではない。

 それでも、午前まで知らなかったものが一つ、自分の目に見えるようになっていた。

 エルナは覚えたばかりの挨拶を返した。

 ニーナも笑って返してくれた。


 夕方、風見鶏通り17番地へ帰ると、フィンが食卓で教本を開いていた。

 エルナは鞄を置き、その向かいへ立つ。

「フィン、ちょっと見てて」

「何を?」

 エルナは答えず、学院で覚えた挨拶をしてみせた。

 弟は最初こそ目を丸くしたが、二度目にはもう、自分でも真似しようと指を動かし始めた。

「待って。そこ、もう一回」

「フィン」

「何?」

「私の手ばっかり見てる」

「手でやってるんだから見るだろ」

 もっともな返事だった。

 だからエルナは笑った。

「私も今日、同じことした」

 フィンの手が止まる。

 エルナは椅子へ座り、学院であったことを話した。手の通った場所だけを残す光のこと。その線をうまく真似できたのに、ニーナ本人をほとんど見ていなかったこと。

 話しているうちに、フィンはもう一度「やって」と頼んだ。

 今度はさっきほど急いで真似をしない。

 エルナが最後まで終えるのを待ってから、不器用な手つきで同じ挨拶を返した。

「どう?」

「最初よりいい」

「どこが?」

「少なくとも、私が終わる前に始めなくなった」

「そこから?」

 二人で笑っていると、帰ってきたミアが何事かと寄ってきた。

 事情を聞いたミアは、自分もやるとは言わず、まずエルナの正面へ立った。

「おねえちゃん、やって」

 エルナが一度だけ見せる。

 ミアの目は忙しかった。手を追ったかと思えば顔へ戻り、また指先へ移る。

 最後まで見届けてから、小さくうなずく。

「わかった」

「ほんとに?」

「おねえちゃん、さいごににこってした」

 エルナは一瞬きょとんとしてから、笑った。

「そこはちゃんと見てたね」

「おてては?」

「そっちは、もう一回見ようか」

 今度は三人で向かい合った。

 フィンは形を確かめようとし、ミアは途中で左右を間違え、エルナも教わった一つの挨拶以上のことはできない。

 それでも誰かが先に正解を言う必要はなかった。

 分からなければ、もう一度見る。

 それだけでしばらく遊べた。

 窓辺では、ルクスが白い翼へ嘴を入れながら、ときどき三人の方を見ていた。

 ミアが左右を間違えるたびにフィンが笑い、フィンが手順を急ぐたびにエルナが止める。声を出している時間より、黙って相手を見る時間の方が長くなっているのに、居間は少しも静かな感じがしなかった。

 やがてミアが、自分の手を見下ろした。

「こえをつかわなくても、おはなしできるんだね」

 ルクスは三人を眺め、白い頭をわずかに傾けた。

「声を使わないからって、話してないことにはならない。……お前たちは静かになっても、ずいぶん騒がしいな」


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