第41話 市場の端で鳴る一音
星冠暦826年・収穫月21日・陽耀日
月耀日の朝、リディアは仕事鞄の隣に、小さな布包みを置いていた。
朝食を終えたミアが椅子から身を乗り出すと、包みの中で金属がかすかに触れ合った。
「ママ、それなに?」
「今日、仕事で使おうと思っているものよ」
布をほどくと、両手に収まるほどの小鐘が現れた。その胴には、細い銀色の輪が一つ掛けられている。
フィンが水の杯を置いた。
「保健院で鐘を鳴らすの?」
「今日は市場に相談卓を出すの。その横へ、これも置いてみようと思って」
リディアは銀の輪へ指先を触れた。
淡い光が一度だけ輪を走ったが、鐘は鳴らなかった。
「いま、ならなかったよ?」
ミアが首をかしげる。
「今は音を預けただけ。夕方に鐘を一度鳴らすと、今日ここへ預けた分だけ余韻が少し長くなるの」
大きな音になるわけではない。輪へ触れるたび、決められた一回分の響きだけが蓄えられ、最後に鐘の音を長くする。それだけの単純な魔法具だった。
エルナが銀の輪を眺める。
「何回触ったかは分かるの?」
「触れた回数だけね。誰が触ったかまでは分からないわ」
「じゃあ、一人一回っていうのは道具の決まりじゃないんだ」
「ええ。私たちの方の決まり」
リディアは小さな札を見せた。
そこには、
『一人一回。夕方、ひとつの音にします』
とだけ書いてある。
札の上には少し迷った跡があり、その横に小さく『今日の一音寄せ』と添えられていた。
「ひとおとよせ!」
ミアは一度で気に入ったらしい。
「ミアもする!」
「幼年学舎から帰って、市場へ来られたらね」
「ルーちゃんも?」
窓辺にいたルクスの白い頭が上がった。
「なぜ俺まで入っている」
「いっしょのほうがながくなるよ」
「俺一羽で鐘の余韻を伸ばす必要はない」
ミアは何か言い返そうとしたが、エルナが時刻を見て立ち上がった。
「ミア、先に学校」
「あっ」
今日は三人とも通常の登校日だった。
エルナとフィンが先に家を出たあと、リディアも仕事鞄と布包みを持つ。ミアの手を取って花鈴幼年学舎まで送り、それから自分の仕事へ向かった。
いつもの朝の道だった。
ただ今日は、仕事鞄の中で小さな鐘が、ときどき静かに揺れていた。
昼前のリーデン市市場は、収穫月らしい色に満ちていた。
果物を積んだ籠の赤や黄色が軒下へ並び、乾燥香草の匂いの向こうから、荷車の軋む音や客を呼ぶ声が重なってくる。
通路の端に置かれた保健院の相談卓は、その賑わいの中では少し地味だった。
椅子が二つ。
案内札が一枚。
その隣に、小鐘と銀の輪。
リディアは準備を終えると、少し離れて全体を眺めた。
相談卓を市場へ出すこと自体は難しくない。
難しいのは、その前で足を止めてもらうことだった。
具合が悪いとはっきり分かっている人なら、治療院や保健院へ行けばいい。けれど地域保健の仕事で出会うのは、そういう人ばかりではない。
この程度で相談していいのだろうか。
家族のことを少し聞きたいだけなのだけれど。
病気というほどではないけれど、最近何となく気になる。
そう思いながら、相談卓の前を一度通り過ぎる人をリディアは何度も見てきた。
だから今日は、座るより前に立ち止まれる場所を一つ作ってみたかった。
小鐘はそのための入口だった。
ところが、最初のしばらくは誰も触れなかった。
通りすがりの人は札を読む。
鐘を見る。
相談卓へも目をやる。
それでも、そのまま市場の人波へ戻っていく。
リディアは少し考えてから、自分で銀の輪へ触れた。
朝と同じ淡い光が、一度だけ灯る。
それを見ていた買い物客の一人が足を止めた。
薄青い籠を腕に掛けた女性だった。
「これ、相談しなくても触っていいんですか?」
「もちろんです」
「鐘だけでも?」
「鐘だけでも」
女性は少し笑ってから、輪へ指を置いた。
光が一つ増える。
それだけ済ませると、相談卓の椅子へ座ることなく市場の奥へ歩いていった。
リディアは呼び止めなかった。
それでよかった。
何も相談しないで帰れる場所なら、必要になったときにも来やすい。
次に立ち止まった人は、鐘へ触れたあとで案内札を読んだ。
「食事のことで一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
その一人が椅子へ座ると、相談卓はようやく相談卓らしくなった。
そこからは、不思議なくらい自然だった。
鐘だけ触れて帰る人もいれば、そのついでに短い質問をする人もいる。話しているうちに、後日保健院へ来てもらった方がよいと分かることもあった。
銀の輪には少しずつ光の点が増えていく。
その一つ一つが何を願って置かれたものなのか、輪には分からない。
健康を願ったのか。
家族のことを考えたのか。
ただ面白そうだから触っただけなのか。
魔法具には、その区別がない。
それでもリディアには、それで十分だった。
午後になると、紙包みを抱えたトビアス・ヘルンが通りかかった。
「何だ、今日は保健院が鐘屋になったのか?」
「治療師の仕事は辞めてないわよ」
「なら安心した」
トビアスは札へ顔を寄せる。
「一人一回か」
「ええ」
「右手で一回、左手でもう一回なら?」
リディアは笑顔のまま答えた。
「トビアスさんは一人でしょう?」
「道具は俺の右と左を見分けないんじゃないのか」
「見分けないわ」
「なら――」
「でも私が見ています」
トビアスは銀の輪へ伸ばしかけていた左手を引っ込めた。
「保健院の規則より厳しいな」
「今日だけの約束よ」
結局、右手で一度だけ触れる。
淡い光を見届けたトビアスは、相談卓へ座るでもなく、「夕方まで市場にいたら聞いていく」と手を振り、自分の用事へ戻っていった。
依頼も修理もない。
ただ同じ街に暮らす人が、通りがかりに一度立ち止まっただけだった。
そんな時間が、リディアには妙に心地よかった。
陽が傾き始めたころ、学校を終えた子どもたちが市場へやってきた。
ミアは迎えに出たアルノと一緒で、エルナとフィンのそばにはオスカーもいる。
一日市場にいたリディアには、五人の姿が人波の向こうから近づいてくるだけで、急に仕事の終わりが見えた気がした。
「ママ、まだできる?」
ミアが真っ先に銀の輪を覗き込んだ。
「まだ大丈夫よ」
朝から待っていた一回である。
ミアは慎重に指先を置いた。
小さな光が灯る。
「はいった!」
満足そうに笑ったあと、すぐに心配そうな顔になった。
「これ、ミアのおとってわかる?」
「輪には分からないわ」
「きえちゃった?」
「消えてはいないわよ。一回分はちゃんと残ってる。ただ、それがミアの一回だっていう意味は、輪の中には入ってないの」
ミアは銀の点をじっと見た。
リディアはその隣へしゃがむ。
「誰の分かを覚えているのは、私たちの方ね」
「じゃあ、ママはわかる?」
「ミアが今触ったのは見てたもの」
それで納得したらしく、ミアは笑った。
ほかの家族も、それぞれ一度ずつ輪へ触れた。オスカーだけは途中で銀輪の縁を覗き込みかけたが、リディアが名前を呼ぶ前に自分で姿勢を戻した。
少し離れた市場の屋根には、いつの間にか白い影も増えていた。
ミアは気づいたが、今日は呼ばなかった。
朝に断られたことを覚えていたらしい。
ルクスも降りてはこなかった。
ただ、市場の端に置かれた小鐘を、ときどき屋根から見下ろしていた。
やがて、一音寄せを終える時刻になった。
リディアは札を裏返し、これ以上の受付を止める。
鐘の周りには大きな人垣ができたわけではなかった。
買い物の途中で足を止めた人が何人かいる。昼に参加した人もいれば、何となく周囲につられて立っている人もいる。
市場そのものはいつもどおりだった。
少し離れれば商人の声が聞こえ、荷車が石畳を通り、果物を詰める木箱の音もしている。
その日常の片隅で、そこにいる人たちだけが、一つの鐘が鳴るのを待っていた。
リディアは銀の輪へ手を添えた。
「では、鳴らしますね」
輪に残っていた淡い点が、一斉に細い線となって鐘へ流れた。
澄んだ音が一つ、市場へ広がった。
音量は小鐘らしいままだったが、いつもならすぐに消えるはずの余韻が、今日はなかなか途切れなかった。細い響きは市場の軒や積み上げられた木箱の間を抜け、石壁へ柔らかく返りながら、少しずつ薄くなっていく。
一つの大きな音ではなかった。
小さな一回が重なって、ただ少し長く残る音になっていた。
リディアは鐘ではなく、その向こうにいる人たちを眺めた。
今日ここへ来た理由も、輪へ触れた理由も同じではない。それぞれ別の一日を過ごし、その途中で市場の端へ立ち寄っただけだ。
銀の輪は、その違いを何一つ知らない。
人の名前も、気持ちも、願いも数えてはいない。
けれど、人の方が「一人一回」と決めて、その一回をここへ置いていった。
響きが最後の細い震えを残し、やがて市場の物音の中へ溶けていった。
すぐに誰かの笑い声が戻り、止まっていた足がまた動き始める。
一音寄せは、それで終わりだった。
リディアが小鐘を片づけようとしたとき、午前中に薄青い籠を持っていた女性が、人の流れから戻ってきた。
朝より籠が重そうだった。
女性は空いた相談卓を見てから、少し迷う。
「あの……もう相談は終わりですか?」
リディアは包みかけた布から手を離した。
「まだ大丈夫ですよ」
女性はほっとしたように椅子へ座った。
話は鐘より長く続いた。
急ぐ必要のある症状ではなかった。それでも本人がずっと気にしていたことがあり、リディアは一つずつ聞き、家で確認できることと、必要なら保健院で相談できることを分けて伝えた。
家族は少し離れたところで待っていた。
誰も帰ろうとは言わなかった。
相談が終わるころには、市場の影が朝よりずっと長く伸びていた。
女性を見送ったリディアは、今度こそ小鐘と銀の輪を布へ戻した。預けられていた響きはすべて使い切っている。札も外し、「今日の一音寄せ」はそこで本当に終わった。
仕事鞄を肩へ掛けると、ミアがすぐ隣へ来た。
「ママ、かね、おわったね」
「ええ」
「でも、おはなしはあとだったね」
リディアは少し驚いてから、笑った。
「そうね」
市場を出ようとしたとき、屋根から白い翼が降りた。
ルクスは家族の輪へ入るでもなく、少し先の石塀へ止まる。
一日ほとんど鐘へ近づかなかったくせに、最後まで見ていたらしい。
リディアが目を向けると、ルクスは布包みになった小鐘を一瞥した。
「鐘はとっくに鳴り終わったのに、最後まで残ったのは話の方だったな。……あっちが本番なら、悪くない呼び鈴だったんじゃないか、リディア」




