第4話 金色はどこまでついてくる
星冠暦826年・実成月15日・土耀日
実成月の朝、風見鶏通り17番地の庭には、花の香りに混じって低い羽音が漂っていた。
まだ一日の暑さが本格的になる前で、花壇には朝の日が斜めに差し込んでいる。その明るい花の間を、小さな蜂が忙しそうに行き来していた。
最初に見つけたのはミアだった。
昨日、庭へ来たトカゲを「まず見る」と覚えたばかりだからか、今日は駆け寄らなかった。花壇の縁から少し離れたところで足を止め、膝へ両手を置いてしゃがみ込んでいる。
隣にはフィンもいた。
「いっぱい来てるな」
「おはな、ぜんぶいくのかな」
ミアは蜂が一輪へ潜り込むたび、首だけをゆっくり動かして追いかけていた。
その様子を台所の窓から見つけたリディアが、庭へ出てくる。
「二人とも、見るだけにしましょうね。触ったり、追いかけたりしないこと」
「うん」
ミアはすぐに返事をした。
フィンもうなずく。
「近くへ飛んできても、手で追い払おうとしないでね。慌てないで、そっと離れればいいから」
「わかった」
「ミアも!」
怖がらせるような言い方ではなかった。
庭へ来た蜂を追い出す必要もない。ただ、相手は人間の遊び相手ではないのだから、互いに余計なことをしない。それだけの話だった。
ちょうど一匹が近くの花へ降りた。
ミアは手を出さず、代わりに目を大きくする。
「おにいちゃん。あし、きいろい」
フィンも目を凝らした。
蜂の脚には、花へ入る前より黄色いものが目立っている。
そこへ、本を片手に庭へ出てきたエルナが加わった。
「花の粉じゃない?」
「ついてるの?」
「花を回ってるうちに、別の花まで運ばれることがあるんだよ」
ミアは蜂を見て、それから花を見た。
「おはなの、にもつ?」
「そう見えなくもないかな」
エルナが笑う。
「おてがみ?」
「荷物から手紙になったな」
フィンも笑った。
けれどミアの中では、その呼び方がすっかり気に入ったらしい。
次の花へ飛んでいく蜂を見送りながら、
「おはなのおてがみ、はこんでる」
と嬉しそうにつぶやいていた。
朝食のころになっても、その話は続いた。
そこで興味を持ったのがオスカーだった。
「目で見えたら、もっと分かりやすそうだな」
そう言って工房へ引っ込んだ父親が、しばらくして戻ってきたときには、手に木製の花を三つ抱えていた。
急ごしらえらしく、花弁は少し不揃いだったが、ミアはそんなことを気にしない。
「おはな!」
「そう。で、こっちが蜂の代わり」
オスカーは先端へ丸い布を巻いた細い棒も食卓へ置いた。
エルナが木の花を持ち上げる。
「何をするの?」
「花から花へ何かが移っていくところを、見えるようにしてみる」
オスカーが取り出したのは、小さな術式板だった。
使うのは、ごく弱い可視化用の試験術式である。
術式を起動すると、指定した面に淡い金色の光痕がつく。その光痕が有効な間に別の面と触れれば、そこへ一部だけが転写される。
転写された先がさらに何かへ触れれば、またその一部が移る。
ただし、そのたびに光は薄くなる。
術式が判断しているのは接触したかどうかだけで、相手が花なのか、人なのか、布なのかを理解しているわけではない。十五分ほど経てば術式そのものが切れ、金色も消えるようにしてあった。
熱も力も発生しない。
「昨日までの反省を踏まえて、安全側にした」
オスカーが言う。
エルナが少し笑う。
「三日分の反省?」
「日数は数えなくていい」
オスカーは布を巻いた棒の先に金色の光痕をつけ、一つ目の木の花へ触れさせた。
光が少し移る。
その花を二つ目へ触れさせると、今度はもっと淡い金色が残った。
さらに三つ目。
そこへ移った光は、もう最初の半分にも見えない。
ミアの目が輝いた。
「おてがみ!」
「本物の花粉が光ってるわけじゃないぞ」
オスカーが笑う。
「今日は、移っていく様子を見やすくしてるだけだ」
フィンも三つの花を見比べた。
「どんどん薄くなるんだな」
「そういう設定にしてある。一か所についたものが、そのまま無限に増えるわけじゃない」
エルナは三つ目の光を覗き込み、納得したようにうなずいた。
実験は、それで無事に終わった。
――終わったはずだった。
オスカーは術式が自然に切れるまで木の花を食卓へ置き、そのまま工房へ戻った。
数分後。
開け放した窓から夏の風が通り抜けた。
木の花は倒れなかったものの、そのうち一つがわずかに動く。
花弁の先が、椅子の背に掛けてあった布巾へ触れた。
金色の光が、ごく薄く移った。
誰も見ていなかった。
やがてリディアが食卓を片づけに来て、その布巾を手に取る。
朝食で残っていた水滴を拭けば、布巾から食卓へ金色が移る。
そこへ庭から戻ったフィンがやってきた。
「父さん、これ工房に持ってけばいい?」
木の花を指さしながら、何気なく食卓へ肘をつく。
また金色が移った。
本人は気づかない。
花を抱えて工房へ向かい、戸を開ける。
取っ手へ、さらに薄い金色。
そのあと同じ取っ手を握ったオスカーの掌へ、また一部。
工房の棚。
工具。
机。
金色はだんだん淡くなりながら、それでも着実に枝分かれしていった。
最初に異変を見つけたのはエルナだった。
居間で本を読んでいると、頁の隅が妙にきらりと光ったのである。
陽射しかと思って本を傾けた。
光は消えない。
よく見ると、文字の脇に小さな金色の跡が残っている。
「……これ」
指を近づけかけて、途中で止めた。
昨日までの出来事が、少しは役に立っている。
何か分からないものを見つけたとき、とりあえず触って確かめる必要はない。
エルナは本を机へ置いたまま、工房へ声をかけた。
「お父さん」
「ん?」
「朝の術式、もう切れた?」
「まだじゃないか?」
オスカーが工房から出てきた。
その右手に、細い金色の筋がある。
エルナは父の顔と右手を交互に見た。
オスカーも自分の掌を見る。
「……つけた覚えがないな」
「私の本にもある」
二人は同時に食卓を振り返った。
ちょうどそこへフィンが庭から戻ってくる。
「何してんの?」
エルナの目が、弟の肘で止まった。
「フィン。そのまま」
「え?」
「肘」
見れば、父親の手よりずっと濃い金色がついている。
「なんだこれ」
フィンも目を丸くした。
オスカーの表情が職人のものへ変わった。
フィンの肘。
自分の手。
エルナの本。
同じ金色だが、濃さが違う。
「薄くなる方向を追えば、どこから来たか分かるかもしれない」
「触らずにね」
エルナが付け加える。
「もちろん」
そこで家族は、金色の痕跡をたどり始めた。
フィンの肘から食卓へ。
食卓から布巾へ。
布巾から椅子へ。
やがて、一枚の木の花が布巾へわずかに触れているのを見つけた。
「これだ!」
フィンが反射的に手を伸ばし――自分で止めた。
「……触ったら増えるな」
「学習したね」
エルナが笑う。
原因は見つかった。
けれど問題は、その先だった。
フィンは工房への戸を触った。
オスカーはその取っ手を触った。
オスカーは工具も棚も触った。
エルナは本に触れる前に止まったが、リディアは布巾を持っている。
皆が自分の手元を確かめ始めるうちに、リディアの親指の付け根にも淡い金色が見つかった。
「あら」
その一言で、とうとうフィンが吹き出した。
オスカーも肩を揺らす。
エルナまで我慢できなくなった。
たった一枚の木の花から始まった光が、本人たちの知らない間に家族を渡り歩いている。
ミアだけは状況がよく分かっていなかった。
みんなの手や服に金色があると知ると、自分の両手を表と裏まで念入りに調べる。
「ミア、ない」
朝から庭へ出ていたおかげで、一度も触れていなかった。
「よかったじゃない」
リディアが言う。
ところがミアは少しだけ唇を尖らせた。
「ミアも、きらきらしたかった」
「これは、つかない方がいいきらきらだと思うぞ」
フィンが笑う。
術式が切れるまで、残りは数分だった。
ここから慌てて痕跡を回収しようとすれば、触れる場所を増やしてしまう。
オスカーは家族を見回した。
「よし。切れるまで、なるべく何も触らない」
それからの数分間は、妙に長かった。
普段なら意識もしない動作が、禁止されると急に難しくなる。
フィンは鼻がかゆくなり、腕を上げかけて必死に止める。
エルナは本を閉じたいのに手を出せない。
オスカーはいつもの癖で腰へ手を当てようとして、宙ぶらりんのまま動きを止めた。
リディアだけが、そんな家族を見て楽しそうに笑っている。
窓辺にはルクスがいた。
白い翼にも嘴にも、金色は一つもない。
朝から家族の動きを眺めてはいたが、騒ぎへ首を突っ込まずにいた結果である。
「ルーちゃん、きんいろないね」
ミアが感心したように言う。
ルクスは一度だけミアを見た。
それから、「当然だ」とでも言いたげに顔をそむける。
ようやく十五分が過ぎた。
フィンの肘から金色が薄れていく。
オスカーの掌も、リディアの指も、エルナの本も。
家のあちらこちらへ散らばっていた光の跡が、一つずつ消え、最後には最初から何もなかったように元へ戻った。
「消えた!」
ミアが嬉しそうに言う。
「助かった……」
フィンはやっと鼻をかいた。
オスカーは木の花を持ち上げる前に、今度は術式が完全に切れていることを確認した。
「実験は成功だったんだけどな」
「予定してた範囲より、ずっとよく分かったね」
エルナが言う。
「物が移るっていうより、触れた先からまた別のところへつながっていく感じ」
フィンはさっきまで金色だった自分の肘を見る。
「蜂も、俺たちが見てないところで花から花へ行ってるんだよな」
「同じ仕組みそのものじゃないけど、目に見えなくても運ばれていくものがあるっていうのは分かりやすかったかもね」
エルナが答える。
ミアは二人の話を聞いていたが、ふと思い出したように庭へ向かった。
今度も走って花壇へ突っ込んだりはしない。
少し離れたところまで行き、そこでしゃがむ。
フィンも後からついていった。
花壇では、朝と同じように蜂が花を訪れていた。
一輪から次の一輪へ。
小さな羽音を残して飛び、花へ降り、また飛び立っていく。
一匹が二人の近くへ回ってきた。
ミアの身体が一瞬だけ固くなる。
けれど、手は振らなかった。
蜂がそのまま別の花へ移るまで静かに待ち、遠ざかってから小さく息を吐く。
「できた」
「何が?」
「ぱたぱたしなかった」
フィンは笑った。
「ちゃんと覚えてたな」
「うん。みるだけ」
二人はそのまま、少し離れたところから花壇を眺めた。
午後、オスカーは朝の試験術式を収めた術式板へ、小さな注意札を追加した。
『接触転写の試験中は、対象を周囲から離して置くこと』
エルナがそれを見つける。
「また増えた」
「経験が増えたと言ってくれ」
「四日続けて?」
オスカーはしばらく黙った。
「……日数を数えるのは禁止にしよう」
家族の笑い声が工房へ広がった。
少し離れた窓辺では、ルクスが相変わらず白いまま翼を休めている。
金色が家中を渡り歩いていた間も、蜂を眺めるミアがきちんと手を出さなかったときも、そこから動かなかった。
夕方の光の中で、ルクスは家族をひととおり見回し、いかにも面倒そうに目を細めた。
「蜂でも光でも、むやみに手を出さなければ余計な騒ぎは増えない。……お前たちはまず、触る前に一度考える癖をつけろ」




