第3話 ひなたは勝手に冷やさない
星冠暦826年・実成月14日・金耀日
「いた!」
実成月の朝、開け放した窓から入り込んでいた生ぬるい風を、ミアの声が勢いよく突き抜けた。
二晩続けて夜空を眺めたクラウゼル家では、夏休みらしい少し遅めの朝が流れていた。居間ではエルナが本を開いているものの、頁をめくる間隔はいつもより長い。フィンも食後の水を飲みながら、まだ抜けきらない眠気に何度目かの欠伸をかみ殺していた。
そんな家族の中で、五歳のミアだけは朝から元気だった。
「おにいちゃん、きて!」
庭からもう一度呼ばれ、フィンは仕方なさそうに立ち上がった。ところが石畳へ出た途端、当のミアが唇に人差し指を当てて「しーっ」と言う。
「呼んだのミアだろ」
小声で文句を言うと、ミアはさらに真剣な顔で、もう一度「しーっ」と念を押した。
その指が示している先を見て、フィンも自然と声を潜める。
庭の縁にある平たい石の上で、小さなトカゲがじっと朝日を浴びていた。灰色がかった緑の身体は石の色によく紛れ、瞬きをした拍子に見失いそうなくらいだ。
「ほんとだ」
フィンがミアの隣へ腰を落とすと、トカゲの目だけがこちらを警戒するように動いた。
「かわいいね」
「近づきすぎたら逃げるぞ」
「ミア、さわらないよ」
そう答えながら、小さな両手は膝の上にぎゅっと押しつけられている。触ってみたい気持ちと我慢していることの両方が、一目で分かった。
やがて窓辺から様子を見ていたエルナも庭へ降りてきた。三人が少し離れて並ぶころには、石畳にも夏の日差しが広がり始めている。
額に浮いた汗を手の甲でぬぐいながら、フィンは石の上の小さな生き物を見た。
「暑くないのかな」
「今はそこにいるね」
エルナが答えた。
「でも、もう暑いぞ」
「フィンが暑いのは分かるけど」
「俺じゃなくて、トカゲが」
フィンとしてはかなり真面目な心配だったのだが、言葉にしてみると根拠が薄いことに自分でも気づいたらしい。眉間に少し皺が寄る。
そこへ台所からリディアも顔を出した。ミアが「トカゲさん」と小声で教えると、彼女も近寄りすぎずに足を止める。
「おみず、いるかな?」
ミアが尋ねた。
「勝手にかけるのはやめておきましょうね」
リディアが柔らかく答えると、ミアはすぐにうなずいた。
けれどフィンの方は、まだトカゲと夏の日差しを交互に見ていた。
困っていそうな相手を見つけると、何もしないでいる方が落ち着かない。それが本当に困っているのかと問われれば分からないのに、「暑いなら何かしてやれるかも」という考えだけが先に浮かんでしまう。
「冷たい場所もあった方がいいんじゃないかな」
フィンは庭の端にあった小ぶりの平石を一枚持ってくると、トカゲから離れた場所へ置いた。
「嫌なら使わなきゃいいんだし」
それなら押しつけることにはならない、と考えたらしい。
手のひらを石へかざし、ほんの少しだけ熱を引かせる。学校の魔法基礎でも扱うような単純な冷却で、夏の水差しを飲みやすい温度にするのと大差はない。魔力が術式に沿って流れるにつれ、日に温められていた石から熱がゆっくり抜け、指で触れば心地よく感じる程度の冷たさになった。
「これならいいだろ」
自信を取り戻したフィンの横で、ミアがさっそく「トカゲさん、こっち」と手招きした。
もちろん、トカゲにその意味は通じない。
しばらく何事も起こらなかったが、やがて小さな身体が動いた。フィンが用意した石とは反対へ素早く走り、少し離れた別の平石へ乗る。
そこも、朝日がよく当たる場所だった。
「そっちの方が暑いって」
フィンは立ち上がった。
「少し待ってみたら?」
エルナの声が背中に届いたものの、フィンは「すぐ終わるから」と、今度はその近くにある石へ手をかざした。
二枚目の石がひんやりすると、トカゲはしばらくして、また別の場所へ移った。
そこにも日が当たっている。
フィンは首をかしげた。
「気づいてないのかな」
三枚目も冷やした。
ところがトカゲは、そこからも離れていく。
四枚目まで同じことを繰り返したころには、庭のあちらこちらに、周囲より少しだけ冷たい石が点々とできあがっていた。その表面には夏の湿った空気から生まれた小さな水滴が浮き、朝日にきらきら光っている。
そして肝心のトカゲは、その冷たい点々を避けるように日なたから日なたへ移動していた。
ミアにはすっかり追いかけっこに見えてきたらしい。
「おにいちゃん、トカゲさんとあそんでる!」
「遊んでない。涼しくしてやってるんだって」
そう言ったフィンの声から、最初にあった自信が少しだけ消えていた。
エルナは答えず、庭を見渡した。
「ねえ、フィン。さっきから、その子が自分で行った場所って、どこもどんなところ?」
「どんなって……」
言われて、フィンも自分の作った冷たい石ではなく、トカゲの通った道を目で追った。
最初にいた石には朝日が当たっていた。
次に選んだところにも。
その次にも。
そしてフィンがそこを冷やすと、トカゲは別の日なたへ移っている。
そこでようやく、フィンの顔に「あ」という表情が浮かんだ。
「もしかして俺、ずっと逆のことしてた?」
そのとき、トカゲが急に石から飛び降りた。
庭木の根元を抜け、植木鉢の陰へ小さな身体が消える。
「あっ」
フィンは思わず追いかけかけた。
けれど一歩踏み出したところで、自分から足を止めた。
「……追ったら駄目だ」
今度は誰かに言われたのではなく、自分でそう決めた。
三人は少し離れたところから植木鉢の向こうを覗いたが、もう姿は見えなかった。石と土と草の色が入り交じる庭では、小さなトカゲが身を隠せば探すのは難しい。
さっきまで張り切っていた分だけ、フィンの肩が目に見えて落ちた。
「逃げちゃったかな」
「そうかもしれないわね」
リディアは、濡れた指先を見つめるように冷えた石へそっと触れた。
「フィンは、涼しくしてあげたかったのよね」
「うん」
「だったら、その気持ちまで間違いだったわけじゃないわ」
フィンが顔を上げる。
「ただ、何をしてあげるか決める前に、その子が何をしているのか、もう少し見ていてもよかったかもしれないわね」
エルナも、朝日を受けている最初の石へ目を向けた。
「私たちが見つけたときから、ずっと自分で日なたを選んでたもんね」
それはトカゲという生き物全部についての話ではない。ただ少なくとも、今朝ここへ来た一匹は、何度場所を変えても日の当たる石へ乗っていた。
フィンは自分が冷やした四枚を見回した。
「じゃあ俺、あいつが行く場所を順番に冷やしてただけか」
「結果だけなら、そうなってるね」
エルナの返事に責める響きはなかった。
フィンも少しだけ情けなさそうに笑う。
「助けるつもりだったんだけどなあ」
「次は先に見ればいいのよ」
リディアが言った。
「何もしない方がいいと分かるのも、ちゃんと見た結果でしょう?」
隣で聞いていたミアが、難しい顔で考え込んだ。
「みるのも、おてつだい?」
「そういうときもあるわね」
その答えに納得したのか、ミアは大きくうなずいた。
それから四人は、トカゲを探すことにした。
ただし今度は、庭を歩き回らなかった。追われればまた隠れてしまうかもしれない。石垣、庭木の根元、草の隙間、植木鉢の陰を、それぞれの場所からじっと眺める。
夏の庭に、先ほどまでとは違う静けさが戻ってきた。
蝉に似た虫の声が遠くから重なり、乾いた葉が風に擦れる。冷やした石についた水滴だけが、少しずつ小さくなっていた。
窓辺では、いつの間にかルクスが白い翼を休めている。
家族の捜索には加わっていない――少なくとも本人としては、そのつもりなのだろう。
ただ、その頭がゆっくりと庭の右側へ向いた。
誰も気づかない。
しばらくして、もう一度同じ方向を見る。
今度はミアが気づいた。
「ルーちゃん?」
呼ばれても返事はない。
けれど金色がかった目は、離れへ続く小道の脇から動かなかった。
ミアがその視線を追い、小さく息を呑む。
「あ……」
今度は叫ばなかった。自分で両手を口に当ててから、囁く。
「いた」
大きな石の上に、小さなトカゲがいた。
朝日がよく届く場所で、何事もなかったように身体を伏せている。
フィンも見つけたが、今度は立ち上がらなかった。冷やすための手も伸ばさない。ただその場へ腰を下ろし、少し離れたところから眺める。
ミアも隣へ座った。
エルナまで加わって、三人でしばらく黙っていた。
何もしないでいると、先ほどまでよりずっとよく見えた。
トカゲはときどき頭を動かし、身体の向きを少し変える。それから十分に時間が経つと、今度は自分から石を降り、庭木の陰へ走っていった。
「行っちゃったね」
ミアが名残惜しそうにつぶやく。
「うん」
フィンは笑った。
「でも、今度は自分で行ったからいいんだよ」
その言葉どおり、追いかけることはしなかった。
昼前には、四枚の石もいつの間にか周りと変わらない温度へ戻っていた。
工房から店の合間に庭へ出てきたオスカーは、不自然な間隔で並んだ石を見つけて首をかしげた。
事情を聞いたあと、「なるほどなあ」と笑う。
「それで、何を直したんだ?」
てっきり冷却術式の話を聞かれると思っていたフィンは、少し考えてから自分の胸を指した。
「魔法じゃなくて、使う前の俺」
オスカーは一瞬きょとんとした。それから、息子の頭を軽く撫でる。
「そっちなら、忘れない方がいいな」
午後になると、ミアは朝の出来事を一枚の絵にした。
紙いっぱいの黄色い太陽。その下に、実物より何十倍も大きな緑のトカゲ。そしてなぜか、その隣には小さな白い鳥まで描かれている。
「ルーちゃんもかいた!」
窓辺にいた本人へ差し出すと、ルクスはしばらく絵を見つめた。
どう見ても、トカゲより小さい。
白い翼の先がぴくりと動いた。
「ルーちゃん、トカゲさんみつけたから!」
説明されても何も答えず、顔をそむける。
フィンはそんな白い背中を見て笑った。
「ありがとな、ルクス」
やはり振り向かなかった。
けれど、窓辺から飛び去りもしなかった。
夕方、日差しがいくらか柔らかくなってから、フィンとミアはもう一度、朝の石のところへ行った。
トカゲの姿はなかった。
明日また来るかもしれないし、もう来ないかもしれない。それは二人には分からない。
「またきたら、ひやさない?」
ミアが聞く。
フィンは少し考えたあと、笑って首を横へ振った。
「まず見る」
「おみずは?」
「まず見る」
「おいかける?」
「それも、まず見る」
ミアはその答えが気に入ったらしく、「じゃあ、いっしょにみる」と満足そうにうなずいた。
少し離れた窓辺から、ルクスが二人を眺めている。
フィンが気づいて手を振ると、白い鷹のような姿は露骨に面倒そうな顔をした。
「助けるなら、まず相手を見ろ。勝手に世話を焼いて追い回した挙げ句、探すのまで付き合わされる方が迷惑だからな」




