第39話 冗談にはくるりをひとつ
星冠暦826年・収穫月19日・土耀日
土耀日の午前、クラウゼル魔法具店の作業台には、よく似た二枚の木札が立てかけられていた。
どちらも両手に収まるほどの大きさで、中央だけが白く滑らかに磨かれている。端には小さな蓄魔石と、対になる札を示す細い共鳴紋。
オスカーが片方へ専用筆を当てた。
『試験』
書き終えるそばから、隣の札にも同じ形の線が浮かんでいく。
「まねっこ!」
作業台へ頬がつきそうなほど近づいていたミアが喜んだ。
「字だって分かって真似してるわけじゃないぞ」
オスカーは最後の一画を確かめる。
札が写すのは筆の動いた位置と形だけだった。丸なら丸、文字なら文字と同じ形が向こうへ出る。何を書いたかまでは知らない。
修理に預かっていた品で、工房内の試験ではもう問題なく動いている。
今日は返却前に、少し距離を離して線の欠けが出ないか確かめるつもりだった。
「それなら、わしが一枚持っていこうか」
庭へ出ようとしていたアルノが戸口から声をかけた。
「ちょうどお願いしようと思ってました、先生」
オスカーが一枚を渡す。
「離れまでで十分です。何度か書いたり消したりします」
「了解じゃ」
札を小脇に抱え、アルノは庭を渡っていった。
ほどなく、母屋に残った白い面へ細い線が現れ始めた。
『見えておる』
「おじいちゃん!」
ミアが札へ手を振る。
当然、向こうからは見えない。
オスカーが『こちらも見えます』と返すと、少しして、
『ならまずは合格じゃな』
と文字が浮かんだ。
それから昼まで、札は家族の手を渡った。
エルナが細かい文字を何行か書き、オスカーが途中で消去を試す。ミアは大きな花を描いた。
離れから返ってきたのは、
『花か?』
の三文字だった。
「わかった!」
自分の絵が通じたことが嬉しいらしく、ミアは何度も札と庭を見比べている。
そんなやり取りを見ていたフィンも、やがて筆を取り上げた。
工房の戸口には修理待ちの箱が積まれ、その奥には工具や部品が作業途中のまま並んでいる。
きれい、とは言いにくい。
フィンは口元を緩めた。
『父さんの工房は今日もたいへんきれいです』
書き終える。
隣で本を読んでいたエルナが、文章を見て眉を上げた。
「それ、本気で書いた?」
「見れば分かるだろ」
「こっちではね」
その一言に、フィンはまだ気づかなかった。
しばらくして庭から足音がした。
離れへ戻ったばかりのアルノが、また母屋へやって来る。
店へ入るなり工房を覗き、箱の山を見て立ち止まった。
「……片づけたというから見に来たんじゃが」
フィンが吹き出した。
「じいちゃん、本気にしたの?」
「わしのところから今の工房が見えると思うのか?」
アルノは札をフィンへ向ける。
「昨日まで散らかっておったとしても、今朝片づけた可能性くらいあるじゃろう」
言われて、フィンの笑いが少し小さくなった。
確かに離れへ届いたのは、あの一文だけである。
笑いながら書いた顔も、わざと丁寧にした声も、一緒には届いていない。
「声で言えば分かったと思う?」
エルナが尋ねる。
「おそらくな。少なくともフィンが笑いをこらえておる声くらいは聞こえたじゃろう」
アルノ自身も可笑しくなってきたらしく、口元が緩んでいる。
オスカーは二枚の札を見比べた。
修理の失敗ではない。
札は頼まれた線を一画も省かず向こうへ送っていた。
送らなかったのは、最初から札の仕事ではないものだった。
「じゃあ、『冗談です』まで書く?」
フィンが言った。
「それ、冗談を言ってから説明することになるよ」
エルナが笑う。
横で聞いていたミアが、白い面の隅へ筆を置いた。
小さく一周。
そのまま内側へ巻いて、最後だけ外へ跳ねる。
「くるり!」
「何だ、それ」
「くるり!」
二度言っても説明は増えなかった。
けれど小さく、一筆で書けて、普通の文字とは見分けやすい。
アルノが顔を近づける。
「これを冗談の印にするのか?」
「この札を試してる間だけなら、分かりやすいかも」
エルナが言った。
今日だけ。
この二枚を返すまで。
文の最後にくるりがあれば冗談で、なければ普通の伝言。
それは魔法具の決まりではない。
札の向こうとこちらにいる人間だけが知っている、小さな約束だった。
アルノは自分の札を持って離れへ戻った。
しばらくして、母屋の白い面へ新しい文字が現れる。
『わしの研究室はいつでも完璧に片づいておる』
最後に、小さなくるり。
店の中で笑い声が上がった。
「おじいちゃん、つかった!」
ミアがいちばん喜んでいる。
フィンも負けじと筆を取り、
『父さんも片づけが大好きです』
と書いた。
もちろん最後にはくるりがついた。
工房からオスカーの「フィン」という声が飛んできて、さらに笑いが増えた。
アルノは離れへ戻ると、札を研究机の端へ置いた。
広げた資料の邪魔にならない場所で、白い面だけがこちらを向いている。
声を送る継声石と違って、文字は研究中の耳へ割り込んでこない。
ふと顔を上げたときに、何か書いてあれば読めばよかった。
昼が近づくまでの間にも、母屋から短い伝言がいくつか届いた。
普通の用件には何もつかず、ときどき妙な一文の後ろだけに小さなくるりが巻かれる。
アルノも一度、真面目な返事を書いたあとで、少し考えて別の一文へくるりを添えた。
たった一筆なのに、それがあるだけで文章の声が変わって見えるのが面白い。
実際には札の線は何も変わっていない。
変わったのは、読む自分の方だった。
昼食の支度ができたという知らせには、くるりがなかった。
アルノは疑いもせず椅子を立つ。
庭を渡りながら、朝のフィンの文章を思い出した。
工房が本当に片づいたと考えた自分も間違いではない。
フィンが冗談として書いたのも嘘ではない。
一枚の札に足りなかったものを、今度は読む側と書く側で一つだけ足した。
それだけのことだった。
午後になっても写し札は線を欠かさず、消去も正常に働いた。
返却前の確認としては、もう十分だった。
オスカーが蓄魔石を外す前に「最後に一つだけ」と言うと、ミアが筆を持ちたがった。
長い文章はまだ難しいので、フィンが隣から文字を教える。
ゆっくり並んだのは、
『ルーちゃんはやさしい』
という一文だった。
窓辺で昼寝をしていたルクスの白い頭が上がる。
ミアは書けたことに満足し、フィンはその文を見て口元を曲げた。
そして筆先を、文末の空いたところへ運ぶ。
朝から何度も描いた、小さなくるりの位置へ。
ルクスの目が細くなった。
「そこに足したら、次に向こうへ写すのはお前の謝罪文だ、フィン」




