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風見鶏通り17番地、今日も魔法日和  作者: リタイアルーキー


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37/87

第37話 足りない車はちゃんと止まる

 星冠暦826年・収穫月17日・木耀日

「これ、できてない!」

 北門機巧工房の中庭へ入るなり、ミアが声を上げた。

 オスカーは、受け取りに来た部材の札から顔を上げる。

「何が?」

「あのくるま!」

 小さな指の先には、銀灰色の大きな車体があった。

 太い四つの車輪。前輪を向けるための機構。車体下にはいくつもの術式環が並んでいる。

 けれど、荷台がない。

 人が乗る場所も最低限の骨組みしかなく、何より車体中央には、大型車なら目立つはずの推進核がなかった。

 幼年学舎帰りのミアにも、それくらいは分かる。

「まんなか、ないよ」

「ないな」

「パパ、なおす?」

「直さない」

「じゃあ、ここのひとがなおす?」

「それも違うな」

 ミアは父親を見上げ、それからもう一度車体を見た。

 どう考えても納得できない、という顔だった。

「最初からつけてないんだよ」

 声をかけてきたのは、油の染みた仕事着を着た男だった。

 四十代半ばほどで、片手に薄い記録板を持っている。

「久しぶりだな、オスカー」

「ヘンリク。受け取りついでに見せてもらってる」

 オスカーはミアの肩へ軽く手を置いた。

「娘のミア。こっちはヘンリク・バウアー。昔、パパがここで働いてたころの仲間だ」

「ミアです!」

「ヘンリクだ。よろしくな」

 挨拶を済ませても、ミアの関心はすぐ銀灰色の車へ戻った。

「なんで、はしるのつけないの?」

「今日は、走らせるところを試さないからだ」

 ヘンリクの答えに、ミアはますます首を傾げた。

 車なのに、走らせるところを試さない。

 その二つがどうして一緒になるのか、まだよく分からないらしい。

 試験車の周囲には低い柵が巡らされ、その内側の石床へ一本の試験路が引かれていた。

 まっすぐ伸びた先で緩く左へ曲がり、終端には白い停止域がある。路面には小さな誘導鋲が間隔を空けて埋め込まれていた。

「見るなら柵の外からな」

 オスカーに言われ、ミアは素直に黄色い線の手前で止まった。

 そこへ工房の牽引機から伸びた太い帯が、試験車の前部へつながれる。

 低い駆動音とともに帯が張り、大きな車体がゆっくり動き始めた。

「うごいた!」

「今は引っ張ってもらってる」

 ミアは太い帯を目で追った。

 歩く人と大きく変わらない速さで、試験車が直線を近づいてくる。

 中央の印を越えたところで、牽引帯の留め具が外れた。

 ミアが息を呑んだ。

 前から引くものがなくなったのに、車体はすぐには止まらない。それまでについた勢いのまま、ゆっくり先へ進んでいく。

「まだいく!」

 車体の下を最初の誘導鋲が通った。

 小さな術式環が淡く光り、前輪の向きがわずかに変わる。

 次の鋲を越えると、もう少し。

 試験車は床に描かれた曲線へ沿うように、大きな身体をゆっくり左へ向けていった。

「まがった!」

 ミアの声が弾んだ。

 推進核はない。

 自分で速くなることもない。

 それでも、車体の中には操向と制動を試すための小さな蓄魔石が積まれている。

 床の誘導鋲を車体下の感応部が拾えば、決められた分だけ前輪を動かす。停止域へ入れば、今度は車輪へかかる制動を強める。

 試験車自身が「ここで曲がろう」「あそこへ止まろう」と考えているわけではなかった。

 目の前で起きているのは、最初から決められた条件への反応だけである。

 白い停止域へ近づくにつれ、車輪の回転がゆっくり落ちた。

 そして大きな車体は、ほとんど揺り戻すこともなく静かになった。

 四つの車輪が、すべて白い枠の中に収まっている。

 中庭に残ったのは、工房の遠い金属音だけだった。

 ミアはしばらく車を見つめていた。

「とまった」

「それを確かめてる」

 ヘンリクは記録板へ目を落とす。

「曲がる方も、止まる方も、最初の一回としては範囲内だな」

 オスカーも停止位置を眺めた。

「きれいに入ったな」

「まだ調整はするけどな」

 大人二人にとっては、それで十分通じるらしい。

 ミアだけが、車体と空っぽの推進核の場所を交互に見ていた。

「でも、まだできてないよ?」

 ヘンリクが振り返る。

「どこが?」

「じぶんで、はしれない。にもつもない」

「そうだな」

「じゃあ、できてない」

 今度はオスカーが笑った。

「ミア。幼年学舎で色鉛筆を使う前に、紙の端へ一本だけ線を引くことあるだろ」

「ある」

「赤がちゃんと出るか確かめるのに、絵を一枚全部描く?」

 ミアはすぐ首を横へ振った。

「いっぽんだけ」

「この車も、今日はそれに近い」

 ミアが銀灰色の車を見る。

 実物と同じくらい大きいのに、確かめているのは全部ではない。

「いっぽんだけなの?」

「曲がるところと、止まるところだけな」

 ヘンリクが答えた。

「そこを試すための車としては、今の形でちゃんと作ってある」

 ミアはしばらく黙っていた。

 もう一度、推進核のない空間を見る。

「つけるの、わすれたんじゃない?」

「忘れてない」

 ヘンリクの返事だけが妙に早く、オスカーが吹き出した。

 二回目の試験まで少し間があったので、オスカーは注文していた部材を受け取りに工房棟へ向かった。

 ミアもその手を握ってついていく。

 ここが父親の昔の職場だと聞いてから、彼女は車より建物の方も気になり始めたらしい。

 すれ違う職人がオスカーへ声をかけるたび、ミアはその人と父親を交互に見た。

「パパ、ここにもいたの?」

「店を始める前にな」

「ここで、おしごとしてた?」

「してたよ」

「くるまも?」

「大きい魔法具はいろいろ触った」

 それだけ聞くと、ミアは妙に満足そうだった。

 家にいるときのオスカーは、工房と店を行き来している父親である。

 けれど自分が生まれるよりずっと前にも、同じように工具を持って働いていた場所があった。

 そのことが、五歳のミアには少し不思議だった。

 部材を受け取って中庭へ戻ると、次の試験準備が終わりかけていた。

 今度のミアは、車体中央の空白を見ても「できてない」とは言わなかった。

 牽引帯が外れたあと、前輪が最初の誘導鋲に応じて向きを変えるところをじっと見る。

 白い停止域へ車体が収まると、誰より先に拍手した。

「できた!」

 ヘンリクが記録板から顔を上げる。

「今のは言っていい」

 帰り道でも、ミアの頭の中では銀灰色の車がまだ曲がっていたらしい。

「ひっぱるの、とれたのに、すぐとまらなかったね」

「最初に引っ張られてた勢いが残ってたからな」

「それで、まがった」

「曲げたのは車の中の魔法だけどな」

「でも、はしるのない」

 そこが一番気に入ったらしい。

 何度確認しても、ミアは嬉しそうだった。

 風見鶏通り17番地へ戻るころには、話の中の試験車は実物より少しだけ大きくなっていた。

 夕食では、丸いパンがその代わりになった。

 ミアは自分の皿を試験区画に見立て、オスカーの匙でパンをそっと押してもらった。

 匙が離れる。

 パンはほんの少し動いて、すぐ止まった。

「ちがう」

 ミアは眉を寄せた。

 工房で見た大きな車は、引くものがなくなってからも、もう少し進んだのだ。

 フィンが笑いながらパンの底を見る。

「車輪ないもんな」

 その一言で、ミアも笑った。

 完全な再現は早々に諦めたらしく、そのあとは自分の指でパンを曲げ、皿の中央へぴたりと置いた。

「ここで、とまる」

 試験車よりずっと人の手を借りた走行だったが、本人は満足そうである。

 エルナが何を見てきたのか尋ねると、ミアはもう「壊れた車」とは言わなかった。

「ぜんぶないけど、まがるのと、とまるのはできてた」

 言葉は少し足りない。

 けれど今日見たものとしては、それで十分だった。

 自分で走れないことも、荷物を運べないことも、あの車にとって今日の失敗ではなかった。

 確かめたいことを、余計なものに邪魔されず確かめる。

 そのためには、ついていない方がいいものもある。

 ミアはそこまで言葉にすることなく、試験車だった丸パンを二つに割って食べ始めた。

 窓辺では、夕食の話を聞いていたルクスが白い翼を整えている。

 皿の上から試験車が消えたころ、ようやく金色がかった目をミアへ向けた。

「足りない車はちゃんと役目を果たしたのに、完成したパンへ車輪まで欲しがるな」


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