第36話 窓の膜は見えない
星冠暦826年・収穫月16日・水耀日
「これ、最初からこんな色?」
西工房区の紙店で、フィンは窓辺の赤い紙を一枚持ち上げた。
正確には、赤かった紙である。
上の方にはまだ鮮やかな朱色が残っているのに、窓へ近い側だけが白っぽい。隣の青い紙も同じで、日の当たるところほど色が頼りなくなっていた。
トビアス・ヘルンが棚の向こうから顔を出した。
「それが最初からなら、俺は仕入れ先へ文句を言いに行ってるよ」
「じゃあ違うんだ」
「違うとも。昨日見たときより、また少し薄くなってる」
放課後、オスカーはトビアスから展示窓を見てほしいと頼まれていた。
フィンは学校で使う厚紙を一枚買うつもりだったので、それなら一緒に行く、とついてきただけである。
本来なら買い物を済ませて終わるはずだった。
ところが店へ入ってすぐ、窓際の紙見本の色がおかしいことに気づいた。
オスカーは展示窓へ顔を近づけた。
「護膜は塗り直したんだよな?」
「昨日な」
「その前は?」
「三日前」
「その前」
トビアスの返事が少し遅れる。
「……先週」
フィンが振り向いた。
「ずっと塗り直してるの?」
「塗った直後はきれいなんだよ」
トビアスは窓を指した。
紙店の展示窓には、透明な透光護膜が定着させてある。
普通に正面から見れば、窓の明るさはほとんど変わらない。けれど決められた種類の強い光が当たると、その一部をごく弱い熱に変えて散らす。
紙が何色かを護膜が見分けているわけではない。
光の条件へ反応しているだけだった。
「どこが変なんだ?」
フィンには、最初はただの窓にしか見えなかった。
オスカーが横から見るよう促す。
フィンは二歩ほど位置をずらした。
夕方の光が斜めに反射したところで、ガラスの表面へ淡い青みが浮かぶ。
「あ」
一枚につながっているはずの青が、ところどころ途切れていた。
小さな透明の穴が集まり、まだらになっている。
「ぶつぶつだ」
「そこなんだよ」
トビアスがため息をつく。
「だから上から足してるんだが、しばらくするとまた戻る」
オスカーは窓の端から端まで眺めた。
護膜材そのものが一様に悪いのなら、窓全体に同じような異常が出てもよさそうだった。
けれど上の隅には、きれいな青が残っている。
窓枠の近くにも穴は少ない。
フィンは二人の会話を聞きながら、少し離れたところから窓全体を眺め直した。
穴が多いのは真ん中から下だった。
それだけではない。
初めはばらばらに見えた透明な部分が、細長い筋になっている。
右上から左下へ伸びたもの。
左右へ何度か往復したもの。
半円を描くように曲がったもの。
フィンは自分の右手を上げた。
目の前に布があるつもりで、窓を拭くように動かしてみる。
右へ。
戻して、少し下へ。
また右へ。
手の動きと、膜の抜けた筋が重なった。
「父さん」
「ん?」
「これ、拭いた跡みたいじゃない?」
オスカーがフィンではなく、窓を見た。
トビアスも黙って青い筋を追う。
フィンは上の隅を指した。
「ここ、手が届きにくいだろ。だから穴が少ないとか」
トビアスの顔つきが変わった。
「あ」
今度は店の奥へ行き、細い瓶と布を持って戻ってくる。
「最近、窓拭きをこれに替えた」
オスカーが瓶を受け取った。
速乾用の清拭液だった。
「護膜を塗る前も?」
「もちろん。汚れたままより、きれいな方がいいと思って」
「普通はそう思うよな」
オスカーは瓶の表示を読み直した。
フィンも横から覗いたが、術式名を見てもよく分からない。
ただ、窓の穴が布で拭いたような形をしていることだけは分かっていた。
「試してみよう」
オスカーは今日の点検用に持ってきた小さなガラス片を二枚取り出した。
一枚は水だけを含ませた布で拭く。
もう一枚には、トビアスの清拭液をほんの少し使った。
見た目には、どちらもすぐ同じ透明な板へ戻った。
その上へ護膜材を一滴ずつ落とす。
水で拭いた方では、淡い青が静かに円形へ広がった。
もう一枚も、最初は同じように見えた。
やがて縁がわずかに震える。
「あれ」
フィンが顔を近づけた。
青い膜が、何かを避けるように中央へ寄り始める。
一つの円だったものが途中で割れ、小さな島のようになった。
島と島の間には、透明なガラスが見えている。
展示窓にあった穴と同じだった。
「こいつか……」
トビアスが瓶を見下ろす。
オスカーは清拭液を使った試験片へ指を近づけたが、触れずに術式線だけを確かめた。
「液はもう乾いてる。でも乾燥術式の方が、しばらく面に残る作りなんだ」
「乾いた後も?」
「ああ。残ったわずかな水気を外へ逃がし続ける。その動きと、護膜を面へ留める術式がぶつかってる」
清拭液そのものが悪いわけではない。
透光護膜そのものが悪いわけでもない。
この二つを、同じ窓で続けて使ったときだけ困る。
トビアスは展示窓と瓶を交互に見た。
「じゃあ、膜をもっと厚くしたら――」
「また同じ跡が残ったら、また穴あくんじゃない?」
フィンが先に言った。
トビアスが口を閉じる。
オスカーが笑った。
「今日はフィンの方が早いな」
「だって、穴を作る方をそのままにして、上から足しても終わらないだろ」
褒められて、フィンは少し胸を張った。
魔法の仕組みが分かったわけではない。
瓶に書かれた術式も、護膜が光を逃がす理屈も、詳しく説明しろと言われれば無理だった。
ただ、穴の形は見えた。
それだけでも今日は役に立ったらしい。
原因が分かると、窓を直す作業は意外なほど静かだった。
オスカーが古い護膜を解除している間に、トビアスは水をたっぷり含ませた布でガラスを拭き直した。
最初の一拭きでは、布の通ったところにごく淡い魔法光がちらつく。
二度、三度と水気を与えるうち、その光は少しずつ弱くなった。
残っていた乾燥術式が、与えられた水分を追い出すたびに力を使い切っているのだという。
やがて何も光らなくなる。
そこで初めて、新しい透光護膜を一度だけ定着させた。
夕方の光を斜めに受けた窓へ、淡い青が端から端まで滑らかにつながる。
さっきまであった拭き跡の穴は、もう見えなかった。
トビアスは清拭液の瓶へ赤い紙片を結びつけた。
『展示窓には使わない』
紙屋らしく、注意札だけはすぐにできる。
「しかしなあ」
トビアスは札を眺め、苦笑した。
「毎朝きれいにして、日が当たるたび少しずつ紙が褪せて、気づくたびに膜を足してたわけか」
「忙しかったな」
オスカーが言う。
「自分で仕事増やしてたけど」
フィンが付け足す。
「君、今日は本当に容赦ないね」
そう言いながらも、トビアスは笑っていた。
フィンは横へ歩きながら、直った窓をもう一度確かめた。
斜めからは青く見える。
正面へ戻ると、色はほとんど消えてしまう。
そこにあるのに、見えなくなる。
「変な感じ」
「何が?」
「直った方が、何もないみたいに見える」
トビアスが窓を一度見上げた。
「何も起きないのが仕事だからな、こういうのは」
フィンはその言葉を聞いてから、買いに来たことをすっかり忘れていた厚紙を思い出した。
帰る前に一枚選び、曲げないよう両手で抱える。
西工房区の通りには、もう長い夕方の影が伸びていた。
「父さん」
家へ向かう途中で、フィンが言った。
「俺、今日けっこう役に立ったよな」
「かなりな」
「魔法のこと、あんまり分かってなかったけど」
オスカーは少し考えるように息子の持つ厚紙を見た。
「分かってないものを見ちゃいけない決まりはないだろ」
フィンが顔を上げる。
「おかしなところがどんな形をしてるか見るのも、ちゃんと手掛かりだ」
それなら自分にもできる。
フィンは今度こそ、遠慮なく胸を張った。
夕食では、買ってきた厚紙より紙店の窓の話の方が長くなった。
フィンが斜めからだけ見えた青い膜と、拭いた跡そっくりに並んでいた穴の話をすると、ミアは自分の杯へ顔を近づけた。
「これも、みえないまくある?」
「それはただの杯」
エルナが笑う。
ミアはそのあと皿や水差しにまで膜があるのか確かめ始めたが、どれにもないと教えられると、ようやく安心して食事へ戻った。
フィンは笑いながら、自分でも昼間の窓を思い出していた。
見えない膜の異変を見つける手掛かりになったのは、見える穴だった。
難しい術式を読めなくても、何がどこにあるかは見られる。
そして直すものばかり見ていると、それを壊している方を見落とすこともあるらしい。
今日の厚紙は、このあと鞄へ入れればいい。
紙店の窓はもう、明日また膜を足す必要はないはずだった。
窓辺では、夕食の話を最初から聞いていたルクスが、白い翼へ嘴を入れている。
しばらくして顔を上げると、いかにも呆れたように目を細めた。
「毎朝自分で穴を開けておいて、守りが足りないと騒ぐのは、ずいぶん器用な話だな」




