第35話 最後の印まで光る
星冠暦826年・収穫月15日・火耀日
「これ、壁の中に入れるの?」
放課後の風見鶏通り17番地で、フィンはオスカーの掌を覗き込んだ。
そこに載っているのは、胡桃ほどの半透明な珠だった。薄い灰色を帯びた表面の内側に、細い術式線が幾重にも巻かれている。
隣からミアも顔を寄せた。
「たま?」
「巡見珠っていう点検具だ」
「たまちゃん!」
「名前を教えた意味がなかったな」
オスカーが苦笑する。
午後の仕事が一区切りした工房では、壁際にある小さな点検口が開けられていた。
普段、作業で使った空気を外へ逃がしている導気路である。壁の中を通って庭側へ抜けているため、内部を直接覗ける場所はほとんどない。
今日はそこに魔法の残りが余計に溜まっていないか確かめることになった。
窓枠ではルクスが白い翼を休めている。点検口を開けたときには一度だけこちらを見たが、今は興味がないような顔で羽づくろいをしていた。
オスカーは巡見珠の隣へ、細長い受信板を立てた。
「珠は中の空気に乗って進む。通っている間に表面が魔法残滓へ反応すると、こっちへその強さだけが伝わる」
受信板には細かな目盛りが並んでいた。
巡見珠の中に蓄えられているのは、一度の点検に使うぶんだけの弱い魔力である。珠自身が道を選ぶわけでも、何が危険かを考えるわけでもない。
流された場所を進み、触れたものへ反応し、その強さを対になった板へ送る。
それだけだった。
「中をころころするの?」
ミアが聞く。
「たぶんな」
オスカーが導気具を弱く動かすと、点検口の前に置いた紙片がゆっくり奥へ引かれた。
ミアがすぐに身を乗り出しかけたところで、後ろからリディアの手が肩へ触れる。
「見るのはそこからね」
「はーい」
返事と一緒に一歩戻る。
フィンも点検口から少し離れた。
オスカーが巡見珠へ起動用の魔力を送ると、灰色の表面に細い光が一周した。
次の瞬間、珠は空気に押されるように点検口の奥へ消えた。
「いった!」
ミアの声が工房へ響く。
壁の中は見えない。
代わりに、受信板の最初の目盛りが淡く灯った。
しばらくすると、その隣も光る。
さらに一つ。
明るさはどれも少しずつ違っていたが、急に強くなる場所はない。
そのうち壁の奥から、ごく小さな音が聞こえてきた。
ころ。
少し間を置いて、ころころ。
フィンが壁へ耳を近づける。
「ほんとに転がってる」
「曲がり角だろうな」
オスカーは受信板を見たまま答えた。
新しい目盛りがまた一つ灯る。
ミアは壁の向こうを見通せるつもりらしく、音がするたび顔を少しずつ右へ動かしていた。
「たまちゃん、がんばれー」
ころ。
「がんばれー」
「応援しても空気は速くならないぞ」
フィンが笑う。
「きこえてるかも」
「聞く仕組みないだろ」
「きこえてる!」
妙に強い断言だった。
オスカーまで笑いながら、受信板の端近くへ視線を移した。
巡見珠は順調に出口へ近づいている。
途中で導気が止まれば珠もそこで止まり、蓄えた魔力が尽きれば受信板への反応も終わる。だが今日は、点検開始から流れは安定していた。
「そろそろ向こうだな」
三人は工房を出て、庭側の外壁へ回った。
導気路の出口には、管につながった小さな陶製の壺が固定されている。
蓋は閉じられており、上部の小さな覗き窓から白い粒状の中和材だけが見えた。
ミアは少し離れたところへしゃがむ。
「ここにくる?」
「ああ」
オスカーが持ってきた受信板では、残りわずかな目盛りがまだ暗いままだった。
壁の中から音が近づく。
ころ。
ころ。
少しだけ静かになり、
ころん。
壺の中で硬いものが転がった。
同時に、受信板の最後の目盛りがちかりと灯る。
「あ!」
ミアが覗き窓を見る。
灰色の巡見珠が、中和材の上に落ちていた。
ほんの一瞬だけ表面の術式線が明るくなる。
次いで、その丸い輪郭がゆっくり崩れ始めた。
割れたのではない。
薄い外膜からほどけるように形が失われ、灰色が白い粒の間へ染み込んでいく。
数呼吸もしないうちに、珠は跡形もなくなった。
「……たまちゃん?」
ミアの声が小さくなる。
フィンも覗き窓へ目を近づけた。
「消えた」
受信板では、最後まで並んだ目盛りの色だけが淡く残っている。
フィンは壺の蓋へ手を伸ばしかけた。
途中で、その手が止まった。
自分の指先と閉じた蓋を見比べてから、オスカーへ尋ねる。
「これ、開けない方がいい?」
「ああ。そのままでいい」
それだけ聞くと、フィンは素直に手を引いた。
ミアだけは、まだ覗き窓の向こうを探している。
「こわれたの?」
「壊れてないよ」
オスカーはしゃがみ、二人と同じ高さから壺を見た。
巡見珠の表面は、通ってきた導気路の中から魔法残滓を少しずつ捕まえるように作られている。
その珠を入口まで戻せば、拾ったものまで工房側へ連れ帰ることになる。
だから最初から戻さない。
最後まで反応を送り終えたら、出口で中和されて役目を終える。
オスカーが説明すると、フィンはもう一度、受信板の端まで続く印を見た。
「じゃあ、これで成功なんだ」
「そういうこと」
「帰ってこないのに?」
ミアが聞く。
「帰ってこないから成功する道具なんだよ」
ミアはしばらく考えた。
視線が壺と受信板の間を何度か往復する。
やがて、暗くなった覗き窓へ向かって小さく言った。
「たまちゃん、おつかれさま」
オスカーは笑った。
「最後までちゃんと働いたな」
フィンも、もう蓋へ手を伸ばさなかった。
受信板の記録を最初から眺め直している。
途中に強すぎる反応はなく、最後の印まで途切れもない。
今日知りたかったことは、それで十分だった。
工房へ戻る途中、ミアは一度だけ振り返った。
けれど今度は、壺の中を確かめに戻らなかった。
夕方が深くなるころには、いつもの食事の匂いが家の中へ満ちていた。
点検そのものはもう終わっている。
巡見珠の話も、食卓では長く続かなかった。
ミアが「たまちゃん、かえってこなかった」と言うと、フィンが「帰らないのが仕事だったんだよ」と教え、そこで話は今日の学校のことへ移っていった。
オスカーも詳しい仕組みをもう一度説明することはなかった。
必要だったのは、珠を惜しむことではない。
通った場所の様子が最後まで分かり、拾ったものを工房へ戻さなかったことだった。
その夜、片づけを終えたフィンとミアが居間の窓際を通った。
暗くなった庭の向こうには、導気路の出口と中和壺が小さな影になって見えている。
二人とも、ほとんど同時にそちらへ目を向けた。
「もういないね」
ミアが言う。
「うん。でも最後まで光ってた」
フィンの答えに、ミアは少しだけ笑った。
昼から同じ窓辺にいたルクスが、白い頭を二人へ向ける。
「珠は一度で仕事を終えたのに、お前たちは何度あの壺を見れば気が済むんだ」




