第34話 同じ距離のはずだった
星冠暦826年・収穫月14日・月耀日
朝の玄関で、エルナは自分の鞄を背板から外した。
左の保持点がふっと力を抜く。中央のミアの鞄も、右のフィンの鞄も動かなかった。
「今日は普通だね」
隣で靴を履いていたフィンが言う。
「普通でいいの。毎朝三つで集まられたら困るでしょ」
ミアは自分の鞄を両手で抱え、念のためという顔で背板を振り返った。
「きょう、ぎゅーしない?」
「しないよ」
ミアが「ぜったい?」と念を押したところで、フィンが笑った。
「鞄は、だろ?」
「学校へ行くだけで、ほかに何が起きるのよ」
そう言って外へ出たエルナは、昼前にはその言葉を少しだけ後悔していた。
高等学院の魔法理論の授業で、教員が床へ長い試験用導魔線を広げたからである。
線は授業室の中央に置かれた小さな起点片から左右へ分かれ、机の間を通って二枚の感応札へ続いていた。札は掌より少し小さく、魔力の変化が自分の位置を通ったときだけ淡く光る。
「今日使う導魔線は、変化が進む様子を比べられるよう、わざと遅くしてあります」
教員が起点片に触れると、左の札がちかりと光った。ほんの少し置いて、右も光る。
目で追えるほどの差だった。
「二枚ができるだけ同時に光る場所を探してください。動かしていいのは札だけです」
同じ机についた生徒が床へしゃがみ込み、エルナもその隣で起点片を見た。
それなら難しくない。
床の石目を数え、起点片から左へ六つ、右へ六つ。二枚をきれいに同じだけ離したところで、エルナは満足して手を引いた。
「これで同時」
再び教員が起点片を作動させると、左がちかりと光り、そのわずか後を右の光が追った。
エルナは一度瞬きをした。
隣の生徒も、同じような顔をしている。
「今、左が先だったよね」
「うん」
エルナは二枚の札を見比べた。形も大きさも同じに見えるが、中の術式にはわずかな個体差があるのかもしれない。
「札を入れ替えてみよう」
左右を交換して、位置はそのままにする。
これでさっき右にあった札が先に光れば、札の違いだ。
教員が三度目の起動をすると、先に光ったのはまた左だった。エルナの眉が寄る。
札を替えても、先になる側は替わらない。
ならば札そのものではない。そこまではすぐに分かったのに、次にエルナが見たのは、また床だった。
左も右も、起点片から石目六つぶん。数え直しても、その数だけは変わらない。
念のためもう一度確かめかけたところで、隣から小さな笑い声がした。
「エルナ。そこじゃないんじゃない?」
「でも距離は同じ――」
言いかけて、エルナはようやく相手の視線を追った。
右側の導魔線は、起点片からまっすぐ札へ向かっていなかった。途中にある机の脚を避け、その奥を回り込み、椅子の後ろをくぐるようにしてから札へ戻っている。
左側は、机と机の隙間をほとんど一直線に抜けていた。
床の上で起点片と札を結べば、どちらも石目六つぶん。
けれど今日の魔力の変化が通るのは、床の上の見えない直線ではない。
目の前に敷かれた導魔線だった。
「……そっちか」
エルナは膝へ額がつきそうなくらい項垂れた。
隣の生徒が今度こそ笑う。
「床、三回くらい数えてたよ」
「二回半。途中で気づいたから」
半分をどう数えるのかと笑われ、エルナ自身もとうとう吹き出した。
導魔線には一定間隔で小さな印が入っている。今度は石目ではなく、その印を起点から数えた。右側の方が三つ多い。
エルナは右の札を線に沿って少しずつ起点へ寄せた。
左右の印の数がそろったところで、教員へ合図する。
起点片が淡く光る。
二枚の感応札は、今度こそほとんど一つの瞬きのように明るくなった。
「できた」
さっきまでの悔しさを忘れて、声が弾んだ。
教員は二枚の札と導魔線を見てうなずいた。
「何を同じにするのか、分かりましたね」
それだけで次の班へ移っていく。
エルナは返事をしながら、床の石目をちらりと見た。
六つずつという数は、最初から間違っていなかった。
間違っていたのは、それが今日比べるべき距離だと思い込んだ方である。
授業の最後には、教員が片方の導魔線をさらに大きく迂回させた。
今度のエルナは床を数えなかった。線を目で追い、札までの印を確かめる。結果を予想してから起動を待つと、長い方がちゃんと後から光った。
分かってしまえば単純だった。
それでも、最初の二枚がずれて光った瞬間だけは、放課後になっても妙に頭へ残っていた。
風見鶏通り17番地へ帰ると、玄関にはフィンの鞄が先に戻っていた。
エルナが自分の鞄を掛ける。保持点がそれだけを静かに受け止め、隣の鞄は知らん顔をしていた。
朝ならそれで終わっていたはずなのに、今日は二つの鞄の間隔まで少し気になる。
「何見てるの?」
居間からフィンが顔を出した。
「別に。近くにあるのと、同じ道の長さなのは違うなって」
「鞄見て何の話してるんだ?」
説明するには少し長かった。
結局、夕食の席で学院の話を最初からすることになった。
エルナが二枚の札を入れ替えても左側ばかり先に光ったところまで話すと、オスカーは匙を止めた。故障診断を仕事にしているせいか、そこだけ妙に嬉しそうな顔になる。
「入れ替えたのはいいな。道具について回る異常か、場所に残る異常かを分けられる」
褒められて少し気をよくしたエルナは、その直後に床の石目を何度も数えたことまで正直に話した。
フィンの笑い声が食卓へ広がる。
「やっぱり姉ちゃん、そこで遠回りしてるじゃん」
フィンに笑われ、エルナは「結果を知ってから言うのは簡単なの」と言い返した。線そのものは最初から見えていたのだろうと追い打ちをかけられると、今度は反論できず、「だから悔しいの」と匙の先で皿を軽くつつく。
ミアは二人のやり取りを聞きながら、食卓の上で指を動かしていた。
自分の杯とパン皿の間へ布巾の端をくねらせ、もう片方の端はまっすぐ伸ばす。昼の授業を見ていないのに、エルナの話だけで何をしているのかはすぐ分かった。
「こっち、ながい」
杯をぐるりと回る方を指さす。
「そう。見た目には近くても、通る道が長いと今日は後から光ったの」
エルナが答えると、ミアは満足そうにうなずいた。
その横でリディアが布巾をそっと皿から離す。
「分かったところで、今度は夕食の道を塞がないようにしましょうね」
ミアは「あ」と言って布巾を戻した。
オスカーもそれ以上は授業の仕組みを聞かなかった。食卓の話題はいつの間にか別のことへ移り、さっきまで導魔線の代わりにされていた布巾も、今はただの布巾としてミアの口元を拭いている。
それでもエルナの中では、左右に並んだ二枚の光がまだ消えずに残っていた。
同じだと思ったものが、実際には違う。
けれど違いが出たからこそ、自分が何を見落としていたのか分かる。
間違えたことより、確かめ方を一つずつ変えると原因の形が見えてきたことの方が、夕食を終えるころには面白くなっていた。
食後、エルナは翌日の教本を鞄へ入れた。
玄関には三つの鞄が並ぶ。背板の保持魔法はそれぞれ別の系統になっているから、一つを動かしても残りは寄ってこない。
昨日まではそれだけで十分だった景色を、今日は少し違う目で見ている。
近くに並び、同じ板へ掛かり、同じように見えていても、それだけで条件まで同じになるわけではない。
「姉ちゃん、また考えてる」
フィンが背後を通りながら笑った。
エルナは振り返らずに答えた。
「今日はちゃんと、見る場所を変えてるの」
窓辺では、夕食のあいだから話を聞いていたルクスが白い翼へ嘴を入れていた。
しばらくして顔を上げ、玄関のエルナを見やる。
「札より先に自分の考えを入れ替えろ――見えてる道を何度も見落とす方が、よほど遠回りだ」




