第32話 三つの鞄、一枚の板
星冠暦826年・収穫月12日・土耀日
午後の風見鶏通り17番地で、リディアが玄関脇を通ったときだった。
足首へ、何か柔らかいものが触れた。
「あら」
見下ろすと、ミアの鞄から伸びた肩紐だった。
鞄そのものは壁際に置かれているのに、紐だけが石床へ倒れ、通路へ少しはみ出している。
その隣にはフィンの鞄があり、さらに奥にはエルナのものがあった。
夏休みのあいだはあまり気にならなかった場所に、学校生活が戻った途端、三つの鞄が毎日の居場所を求め始めたらしい。
リディアが肩紐を拾って鞄の上へ載せると、居間にいたフィンが顔を上げた。
「そこ、狭い?」
「鞄がちゃんと立っていれば大丈夫なんだけどね」
フィンは玄関まで来ると、三つを見比べた。
ミアの小さな鞄は柔らかく、少し触るだけで傾く。自分のものも、中身の入り方によっては口が壁から離れる。エルナの鞄は一番しっかりしているが、それでも肩紐は床へ落ちやすい。
「だったら、板を一枚つければいいじゃん」
「板?」
リディアが尋ねる。
フィンは壁へ向かって手を横に動かした。
「三人ぶん並べるんだよ。姉ちゃん、俺、ミアって場所を作って、帰ったらそこへ置く。そうすれば倒れないだろ」
そこへ工房から出てきたオスカーが足を止めた。
「一枚に三つか」
「できる?」
「板を付けるだけならな」
フィンはすぐに首を振った。
「ただ置くだけだと、また倒れるかもしれないじゃん」
オスカーの眉が少し上がる。
エルナが長椅子からその顔を見た。
「今、何か足そうとした?」
「まだ何も言ってないぞ」
「その顔のときは大体そうだから」
「家族に読まれすぎだろ、俺」
ミアはすでに自分の鞄を抱え、まだ何もない壁へ背中を当てている。
「ミア、まんなか」
「場所取りだけ早いな」
フィンに言われても動かなかった。
結局、木の背板はフィンの案どおり一枚にすることになった。
ただし鞄を掛けて宙へ浮かせるのではない。底は床へ置いたまま、背中だけを壁側へ軽く預ける。
オスカーは三つの位置へ小さな保持点を作り、それぞれの鞄には仮の受け印を付けた。
「この印が板の前へ来たら、弱く引く」
「ミアもひっぱられる?」
「印を付けるのは鞄だけだ。それに、受け印の方にも受けられる力の上限を決めてある。三つから同時に引かれても、鞄を横へ少し動かすくらいだよ」
「三つから?」
エルナが聞き返した。
「たとえばの話だ」
オスカーはそう答え、背板を裏返した。
正面から見れば保持点は三つに分かれている。
一方、裏側では小さな蓄魔石から伸びる導魔層を一枚にまとめてあった。
三つへ別々の術式線を引くより簡潔で、背板も薄くできる。
フィンはそれを見て満足そうだった。
「裏も一枚なんだ」
「そこが気に入るのか?」
「だって、すっきりしてる」
実際に動かす前に、三つの鞄から中身を出した。
底は床へ着けたまま。
子どもたちは少し離れる。
何か予定外の動きをしたら追わず、解除されるまで触らない。
それまでに何度も身についた約束を確認してから、オスカーは背板を玄関脇へ仮留めした。
「じゃあ、一度だけ見るぞ」
ミアの鞄は本人の希望どおり中央へ置かれた。
エルナのものが左。
フィンのものが右。
どれも背板からわずかに離れている。
蓄魔石が淡く光った。
最初に動いたのは三つ同時だった。
それぞれの鞄が、板へ背を預けるようにわずかに傾く。
「できた!」
フィンが言った、その直後だった。
左にあったエルナの鞄が、壁へ寄るだけでは止まらなかった。
ずるり、と右へ滑る。
「え?」
反対側では、フィンの鞄が左へ動いていた。
ミアの鞄は中央で小さく揺れている。
「きた!」
ミアだけが嬉しそうな声を上げた。
「来なくていい!」
左右から近づいた二つの鞄は、中央の小さな鞄へ両側から寄った。
肩紐が重なり、フィンの持ち手へエルナの紐が掛かる。その隙間へミアの鞄が半分隠れ、三つは玄関の真ん中で妙に仲良く固まった。
オスカーは解除扣を外した。
鞄の動きが止まる。
蓄魔石も外し、反応が完全に消えたのを確かめるまで、フィンたちはその場から動かなかった。
やがてオスカーが近づき、三つの鞄ではなく背板の裏を見る。
ミアは離れたところから首を伸ばした。
「ぎゅーってした」
「したなあ」
フィンは自分の鞄が一番下になりかけているのを見て、困ったように笑った。
「何で真ん中なんだ?」
「鞄が真ん中を選んだわけじゃないよ」
エルナの声に、オスカーもうなずいた。
「俺が分けなかったからだな」
背板を外して裏返す。
三つの保持点は離れているのに、その後ろを通る導魔層は一枚につながっていた。
受け印が作用域へ入ると、その反応は共通の層へ流れる。
人間なら、左に置いた鞄は左の場所へ、右の鞄は右の場所へ、と考える。
けれど術式に分かるのは、三つの受け印から反応が来ていることだけだった。
一枚につないだ導魔層は、それぞれの反応を三つの保持点すべてへ渡していた。
左の鞄は、自分の正面にある保持点だけでなく、中央と右からも引かれる。
右ではその逆が起きる。
真ん中だけは左右の力がおおよそ釣り合う。
その結果、両端が中央へ集まった。
「じゃあ、一枚にしたのが駄目だった?」
フィンが背板を見る。
自分から提案したときの勢いが、少しだけ弱くなっていた。
オスカーは首を横へ振った。
「お前が一枚にしたかったのは何だ?」
「……置くところ」
「だろ。一枚の板へ三つ並べるのは何も悪くない」
指先で背板の表を軽く叩く。
「俺が、裏の働きまで一つにまとめた」
フィンは表と裏を交互に見た。
一枚の板にしたかった。
三つの鞄を、玄関の同じ場所へきれいに並べたかった。
だからといって、左の鞄を支える働きまで、右の鞄と同じものにする必要はない。
「見えるところは一枚で、中は三つ?」
「それがよさそうだな」
フィンの顔から、少しだけ力が抜けた。
「じゃあ板はそのまま?」
「そのまま使う」
「よかった」
「板の方を心配してたのか?」
「俺の案だから」
その答えに、オスカーは笑った。
午後の残り時間、玄関脇から長い背板が消えていたのはそれほど長くなかった。
工房から戻ってきたときも、木そのものは同じ一枚である。
ただ裏側では、三つの保持点へ向かう魔法の通り道が互いに触れないよう分けられていた。
空の鞄を使った確認を済ませてから、背板は玄関の壁へ落ち着いた。
ミアの場所は約束どおり中央だった。
その左にエルナ。
右にフィン。
鞄を戻せば、背面だけが壁側へ軽く預けられる。底は床へ着いたままで、肩紐も通路へ倒れにくい。
それだけなら、昼間の三つが重なった騒ぎが嘘のようだった。
夕方、フィンが自分の鞄へ翌日に使うものを入れ直していると、少し斜めになった背が保持点から離れた。
持ち手を掴み、元の位置へ戻す。
弱い力が鞄だけを板側へ受け止めた。
中央のミアの鞄は動かない。
向こう側のエルナの鞄も、そのままだった。
フィンはしばらく二つを見てから、笑った。
「何?」
エルナが居間から尋ねる。
「いや。ちゃんと俺のだけ動いた」
「それが普通なんだけどね」
「昼は普通じゃなかっただろ」
「それはそう」
二人のやり取りを聞いていたミアも、自分の鞄を少しだけ手前へ引いた。
背板へ戻すと、中央の保持点がそれだけを受け止める。
左右は知らん顔をしている。
「ミアだけきた!」
それが面白かったらしく、もう一度やろうとしたところでリディアに止められた。
「もう鞄で遊ばないの」
「いっかいだけ」
「今ので一回でしょう?」
ミアは指を一本立てたまま考え、それから渋々鞄を置いた。
暮れ始めた光が玄関まで伸び、三つの鞄の影が石床へ並んでいる。
近くにはいる。
けれど、もう互いを引っぱらない。
窓辺から一日じゅう眺めていたルクスは、中央で押し合っていた昼間の三つと、今の静かな並びを見比べた。
しばらくして白い翼へ嘴を入れながら、何でもないことのように言った。
「鞄まで三つで寄り合うな。玄関は持ち主だけで十分狭い」




