第31話 丸の外へ、やわらかく
星冠暦826年・収穫月11日・金耀日
朝の窓辺には、もう紙輪がなかった。
昨日まで10番が揺れていた紐だけが残り、開けた窓から入る風に細く揺れている。
ミアはパンをかじりながらそこを見上げ、それから食卓の脇に置かれた自分の鞄へ目を移した。
「きょう、いく?」
「行くわよ」
リディアが答える。
「ほんとに?」
「昨日で夏休みは終わったでしょう?」
知っていたはずなのに、念のため確かめたかったらしい。
向かいではフィンが、夏休み中ならまだ急いでいなかった時間に朝食を終えようとしている。エルナも自分の鞄を膝へ引き寄せ、留め具を確かめていた。
ミアは兄の鞄を見て、姉の鞄も見る。
「おにいちゃんも?」
「行くよ」
「おねえちゃんも?」
「私も」
そこでようやく、自分だけが家から出されるわけではないと納得した顔になった。
窓辺ではルクスが白い翼へ嘴を入れている。
「ルーちゃんは?」
呼ばれても顔を上げない。
「ルーちゃん、おやすみ?」
白い頭がわずかに動いたが、返事はなかった。
「ルクスに学校はないからな」
オスカーが言うと、ミアは少し羨ましそうな顔をした。
「ずるい」
その言葉には、さすがに金色がかった目が向いた。
朝食が終わるころ、離れからアルノも顔を出した。
「ミア、帰りはわしが迎えに行こう」
「おじいちゃん?」
「うむ」
今日は朝を、保健院へ向かうリディアと一緒に行く。
帰りに迎えへ来るのはアルノ。
それを聞いたミアは、自分の鞄を背負い直した。
「いってきます!」
家を出るころには、さっきまでの「ほんとに?」はもう声から消えていた。
収穫月の朝には、まだ夏の暖かさが残っている。
けれど盛夏のころとは違い、建物の影へ入れば風は軽かった。
途中でエルナが高等学院へ向かう道へ分かれ、フィンも少し先で初等学院の方へ曲がる。最後にはミアとリディアだけになり、二人は手をつないで花鈴幼年学舎へ向かった。
門が見えるころになると、ミアの歩幅がほんの少し小さくなった。
止まりはしない。
リディアも急かさず、その速さへ歩みを合わせた。
「久しぶりね」
「うん」
門の内側では、3年を受け持つクララ・ヴェントが登園してくる子どもたちを迎えていた。
「おはよう、ミア」
「おはようございます!」
思ったより大きな声が出て、言った本人が少し驚く。
クララが笑った。
リディアは、帰りには祖父のアルノが迎えに来ることを伝えた。
ミアもそれを聞いてから母の手を離す。
「いってきます」
数歩進んだところで一度振り返り、まだ門のところにいる母を見つけると、今度は自分から建物の方へ歩いていった。
その少し後、園舎の屋根より高いところを、白いものが一瞬だけ横切った。
雲の切れ端にしては速かったが、見上げている者はいなかった。
久しぶりだったのは、朝のうちだけだった。
顔を合わせれば話したかったことがいくつも出てくる。
夏休みに描いた絵のこと。庭で見つけたもののこと。紙の輪を十個作って、最後には全部しまったこと。
昼食を食べるころには、門の前で歩くのが少し遅くなったことなど、ミア自身がもう忘れていた。
午後になると、園庭の砂地へ今日の遊び場所が作られた。
四本の短い支柱が、子どもたちから十分離れたところに大きな四角を作っている。その中央には、白い粉で丸が一つ描かれていた。
丸より、四角の方がずっと広い。
一本の支柱の根元には小さな蓄魔石が固定され、四本の内側だけへ弱い術式が通っている。
クララは掌ほどの軽い木製駒を一つ持ち上げた。
下面には銀色の小さな印があった。
「今日は、これを丸へ落としてみましょう」
子どもたちの目が集まる。
「でも、落ちたらすぐ拾いに行きません。全部止まって、先生がいいと言ってからです」
見本の駒が手を離れた。
初めは普通に落ちていく。
ところが砂地へ近づくころになると、勢いがふっと弱まった。
空中で止まったわけではない。
落ちる速さが決められた範囲を越えようとするたび、四本の支柱の内側から弱い押し返しを受け、最後には落ち葉のような速さで砂へ触れた。
丸の中だった。
歓声が上がる。
次は丸の端近くへ、その次は少し外へ落ちた。
着いた場所は違っても、銀色の印を持つ駒は、どれも地面へ近づくころには同じようにやわらかくなっていた。
やがてミアの番になった。
低い台へ上がり、両手で駒を持つ。
下には大きな丸がある。
「ここ?」
「そこで大丈夫」
クララの返事を聞いて、ミアは真ん中を狙った。
指が開く。
そのとき手がほんの少しだけ前へ動いた。
駒は真下ではなく、斜めに落ちていった。
地面が近づくと下降だけがやわらかくなる。それでも前へ進む動きは消えず、木片は丸の縁を越えたところへ、ふわりと着いた。
ミアの肩が落ちた。
「はずれた」
「丸は外れたね」
クララはそこを誤魔化さなかった。
ミアは砂の上の駒を見る。
欠けてもいない。
跳ね飛んでもいない。
けれど狙った丸の中ではなかった。
だからやっぱり、そのときのミアには失敗に見えた。
園舎の軒よりさらに上で、白い影が一度だけ位置を変えた。
風に動いた光のようにも見えたが、すぐ屋根の向こうへ消えた。
遊びが終わるころ、門の向こうには迎えのアルノの姿があった。
ミアはすぐ気づいたものの、まだクララから帰りの合図は出ていない。
「おじいちゃん!」
門の内側から手を振る。
アルノも笑って片手を上げた。
そのころ園庭では、使った木製駒が浅い籠へ集められていた。
籠も四本の支柱の内側にある。
子どもたちは外側で待ち、クララが最後の確認をしていた。
そこへ風が通った。
そばへ畳んであった薄い敷布の端がふくらみ、籠の側面へ軽く当たる。
籠が傾いた。
中の木片がまとめて縁を越えた。
「あっ」
声は上がったが、誰も追わなかった。
クララの手もすぐ上がる。
「そのままでいてね」
いくつもの駒が斜め下へ落ちていった。
銀色の印が緩降域へ入ると、それまで速かった下降だけが一斉に弱くなる。
けれど、駒は籠からそれぞれ違う方向へ飛び出していた。
下向きの速さを抑えられても、横へ進む動きまでは消えない。
木片の群れは真下へまとまる代わりに、低い空中でほどけるように広がった。
白い丸を越え、砂地のあちらこちらへ降りていく。
一つは草の際へ、別の一つは四本の支柱の端近くまで進んでから、軽く砂を跳ねさせて止まった。
それでも、どれも広い作用域の外までは出ていない。
数秒前には一つの籠へ入っていた木片が、今は大きな四角の内側いっぱいへ散らばっていた。
最後の一個が転がるのをやめるまで、子どもたちはその場で見ていた。
クララが蓄魔石を止める。
「もう大丈夫」
ようやく張っていた空気がほどけ、あちこちから笑い声が上がった。
ミアも園庭を見回す。
「ぜんぶ、まるじゃない!」
本当に、一つも丸の中へ残っていなかった。
その光景がおかしくて笑ったあと、ミアは急に自分の昼間の駒を思い出した。
さっきの自分の駒も、丸の外だった。
けれど、今の駒たちと同じように、最後にはやわらかく降りている。
「せんせい」
「なあに?」
「これ、まるはぜんぶはずれた?」
「そうね」
「でも、どーんってしてない?」
クララは散らばった駒を見回した。
「してないね」
ミアは少し考える。
「じゃあ、おりるのはできた?」
「うん。そっちはちゃんとできてる」
ミアの目が、自分の駒が落ちた辺りへ向いた。
丸には入らなかった。
でも、全部が駄目だったわけでもなかったらしい。
「ミアのも?」
「ミアのも」
今度の笑顔は、昼間より少しだけ大きかった。
術式が止まったことを確認してから、子どもたちは散らばった木片を籠へ戻した。
丸から一番遠いところの駒を拾った子が得意そうに掲げ、別の子は「こっちも遠い」と言い張っている。
さっきまで失敗に見えていた丸の外側が、今はすっかり遊びの続きになっていた。
迎えに来たアルノと一緒に門を出るころには、ミアはもう話したくて仕方がない顔をしていた。
「おじいちゃん、ミアね、はずれた!」
第一声がそれだった。
「ほう」
「でも、やわらかかった!」
「それはよかったのう」
「あとね、ぜんぶ、ばらばらーってなった!」
両腕を広げて説明するので、鞄まで一緒に揺れる。
アルノはそれを直してやりながら笑った。
「丸へ入った話より、外れた話の方が楽しそうじゃな」
「だって、いっぱいだった!」
帰り道のミアは、朝に門へ近づいたときとは違い、足取りまで軽かった。
高い屋根の上を風が渡る。
そのずっと先で、白い何かが風見鶏通りの方へ先に流れていったように見えたが、ミアは祖父へ話す方に忙しく、空を見なかった。
17番地へ戻ると、家の中には夏休み中とは違う夕方が待っていた。
朝には四人分あった外出の気配が、少しずつ家へ戻っている。
玄関近くには学校から帰った鞄が増え、家の奥からは工房の音が聞こえていた。
窓辺には、白いルクスがいつもの顔で座っている。
ミアは戸を開けるなり、
「ただいま!」
と声を上げた。
オスカーが工房から「おかえり」と返す。
ルクスは白い翼へ嘴を入れたまま、こちらを見もしなかった。
「ルーちゃん、きょうね」
ミアは鞄を下ろしながら話し始めた。
丸を狙ったこと。
外れたこと。
木がたくさん散ったこと。
でも全部、やわらかく降りたこと。
話しているうちにエルナもフィンも帰り、夕食のころには朝それぞれ別の方向へ出ていった家族の声が、また同じ食卓のまわりへ集まっていた。
昨日まで一日中そこにあった声が、今日からは夕方になって帰ってくる。
窓辺には夏休みを数える紙輪はもうない。
壁の「おえかきのおうち」には、その十個が今も全部しまわれている。
なくなったのではなく、置き場所が変わっただけのものもある。
一日の終わり近く、ミアは明日も使う鞄を玄関のそばへ置いた。
それから窓辺へ行く。
「ルーちゃん」
白い頭が少しだけ動いた。
「ミア、あしたもいってくるね」
返事はすぐにはなかった。
ルクスはミアを見て、それから何でもないことのように窓の外へ目を戻す。
しばらくして、短く言った。
「勝手に行け。……丸を外したくらいで、あんな顔をするな、ミア」




