第30話 十番目の輪の部屋
星冠暦826年・収穫月10日・木耀日
朝の窓辺に残っていたのは、10番の紙輪だけだった。
九日前には十個も並んでいた輪が、一つになると妙に頼りなく見える。開けた窓から風が入るたび、最後の色紙の輪は紐の先でゆっくり向きを変えていた。
ミアは朝食のあとから、その下を何度も行き来している。
窓辺を見上げては壁際へ行き、また窓へ戻る。
三度目で、フィンが気づいた。
「何してるんだ?」
「みてる」
「それは分かる」
ミアが今度指したのは、壁に掛かっている「おえかきのおうち」だった。
色あせた青灰色の布に、形も深さも違う六つの袋が付いている。八月に古い小物掛けを使い直してから、色鉛筆や紐や紙片を預かり続けてきた、ミア専用の収納場所である。
一昨日には袋の口へ札も付いた。
そのうち、大きなぐるぐるを描いた「わっか」の札がある深い袋には、1番から9番までの紙輪が重なっている。
ミアは袋の口をそっと広げた。
赤や黄や青の輪が、互いに押し合うように入っていた。
「いっぱい」
フィンも覗き込む。
「まあ、九個あるからな」
「きょう、じゅうもくるよ」
「夕方になったらな」
ミアはもう一度、窓辺の10番を見た。
「つぶれちゃう」
畳めば入らないことはない。
けれどミアは毎日、輪の丸い形をなるべく残してしまってきた。少し歪んだものはあっても、自分から平らに押し潰したものは一つもない。
リディアがその様子に気づいた。
「そんなにいっぱいになったの?」
ミアは無言で袋を開いて見せる。
リディアは九つの輪を覗き、それから窓に残る最後の一つを見た。
「では、一部屋増やしましょうか」
ミアが振り向く。
「おへや?」
「輪っかのための、少し大きなお部屋」
その言葉だけで、曇っていた顔が明るくなった。
「つくる!」
話はすぐ決まった。
ただし、この「おうち」は普通の布袋ではない。
壁から外して大机へ広げると、昔の縫い跡があちこちに走っている。古い糸の一部には、布を決められた形へ戻す術式が今も残っていた。
八月にそれを見つけたとき、全部をほどいて同じ形へ作り直すことはしなかった。
だから今も六つの袋は不揃いである。
細長いもの。
浅いもの。
底だけ妙に深いもの。
けれどミアにとっては、もうその形が「おえかきのおうち」だった。
工房から呼ばれたオスカーは、布へ触れる前に縫い筋を目で追った。
「この辺は残ってるな」
「まだ元へ戻るところ?」
エルナが尋ねる。
「そう。新しく縫うなら、生きてる縫い筋そのものは避けた方がいい」
布の下側には、形戻し術式が残っていない場所がある。
リディアが余り布を当ててみると、横長の袋を一つ足すには十分だった。
「ここならどう?」
「いいと思う」
オスカーが答える。
ミアはもう紙輪を持ってきていた。
深い袋から1番を取り出し、余り布の上へ置く。2番、3番と横へ並べ始めたので、フィンも途中から手伝った。
10番の代わりには、同じくらいの大きさへ丸めた紙を一つ置く。
全部並んでも、布の端には少し余裕があった。
「ぜんぶ、はいる!」
「まだ袋じゃないぞ」
フィンが笑う。
「でも大きさはよさそうね」
リディアも笑い、九つの輪を元の袋へ戻した。
今日増やすのは一部屋だけだった。
昔からある六つを揃え直す必要はない。
新しい役目が欲しい場所へ、新しい布を一枚足せばいい。
リディアは裁縫箱から普通の針と二色の糸を取り出した。
赤い糸と、生成りの糸。
「にこつかうの?」
ミアが尋ねる。
「今日はね」
リディアは余り布で一針だけ見せた。
表から通した赤い糸を小さな輪にして残し、裏側から来た生成りの糸をその輪へくぐらせる。二本をゆっくり引くと、布の間で互いを押さえるように締まった。
「からまった」
「ただ絡ませるのとは少し違うけれど、二本で一針を押さえるの」
ミアが裏表を見比べる。
「なかよし?」
「引っぱり合ってるから、どうかしら」
リディアが笑った。
オスカーも見本を指で引いてみる。
片側の糸だけでは簡単に抜けない。
「これなら輪を十個入れても十分だな」
「では、私はこっちを縫うから、あなたは布がずれないように見ていて」
「了解」
「お父さん、今日は作らないの?」
エルナが聞いた。
オスカーは一瞬だけ考えた。
「今日は縫うだけだ」
「珍しい」
「そんな日もある」
フィンが笑った。
子どもたちは針へ手が届かない側へ回り、ミアも椅子へ膝を乗せず、少し離れたところから出来上がっていく袋を見守った。
最初のうちは静かなものだった。
赤と生成りの糸が一針ごとに布を留め、新しい袋の下辺が少しずつ長くなっていく。
ミアの興味は縫い目より、完成後の方へ向いていた。
「ここ、1もはいる?」
「入るわ」
「9も?」
「もちろん」
「10も?」
「そのために作ってるんでしょう?」
ミアは嬉しそうに笑った。
やがて横長の袋が形になった。
まだ壁へ戻していないので、昔からある六つは大机の上で少し平たくなっている。
オスカーは古い縫い筋を見た。
「仕上げに、一度だけ元の形へ戻してみるか」
それは、新しく作った袋を動かすためではない。
八月から残っている六つが、今日の縫い仕事で変なところへ引かれていないか確認するためだった。
新しい袋には術式がないので、本来なら何も起こらない。
大机の周りを片づけ、ミアたちが十分離れていることを確認する。
オスカーは布の端に残っている起動用の結びへ、ほんの少しだけ魔力を送った。
古い縫い筋が応えた。
平たくなっていた袋の一つがふくらみ、その隣も、記憶していた不揃いな形へ戻り始める。
ミアが楽しそうに見ていた、その途中だった。
新しく増えた横長の袋の左端が、急に内側へ引かれた。
「え?」
袋の底が持ち上がる。
口の片側がくしゃりと折れ、そのまま古い袋の後ろへ潜り込むように縮んだ。
「おへや!」
ミアが目を丸くする。
さらに少し引かれたところで、動きは止まった。
古い形戻し術式が、それぞれ記憶していた形まで戻り終えたのである。
オスカーはすぐ魔力を切り、解除結びにも指を添えた。
それ以上どこも動かないことを確かめてから大机へ近づく。
「新しいところまで引かれた?」
エルナが尋ねた。
「そのはずはないんだけどな」
新しい布には術式を入れていない。
リディアは縮んだ袋をすぐ引っぱらず、まず裏側を覗いた。
そして「あら」と小さく声を上げる。
「オスカー、ここ」
新しい袋の左端。
その裏に、古い収納部の底が少しだけ折れ込んでいた。
しかも、その二枚は別々ではなかった。
赤と生成りの糸が、本体布だけでなく、折れ込んだ古い袋の底まで一緒に留めている。
「三枚縫ってたのか」
オスカーが言った。
新しく足した布と、本体の布。その向こうに入り込んでいた古い袋底まで、数針だけ同じ縫い目に捕まっている。
リディアが縫い目を指先で確かめた。
「平らにしていたから、気づかなかったのね」
フィンも横から覗く。
「だから古い方が戻ったら、新しい方もついていった?」
「そういうことだな」
オスカーは縮んだ新しい袋へ目をやった。
「魔法がこっちまで形戻ししたわけじゃない。古い袋が自分の形へ戻って、その動きを縫い糸がこっちまで引っぱったんだ」
二本の糸は、縫うつもりだった二枚だけを選ばない。
針が通った三枚を、きちんと一緒に留めていた。
そして形戻しの術式も、「これは新しく作った部屋だから連れていくな」とは考えない。
自分に残っている昔の形へ戻っただけだった。
「おへやが、おへやにつれてかれた」
ミアが言う。
リディアは笑った。
「そう見えたわね」
「なおる?」
「数針だけだから大丈夫よ」
今度は魔法を使わない。
リディアは赤と生成りの交わりを一つずつ緩め、誤って古い袋まで留めたところだけをほどいた。
古い収納部が自由になると、新しい袋の左端もするりと元の位置へ戻る。
ミアは古い袋へ手を入れ、底まで残っていることを確かめた。
「なおった」
「こちらも、ちゃんと残しましょうね」
リディアは薄い板を一枚借りた。
板を縫う場所へ挟むのではなく、裏側にある古い袋を少し持ち上げて、針を通す場所から離しておくためだった。
新しい布と本体布だけが重なっていることを裏から確かめ、ほどいた数針を縫い直す。
今度は赤と生成りの糸が、二枚だけを留めた。
念のためもう一度、古い形戻し術式へごく少量の魔力を送った。
六つの古い袋が、それぞれ不揃いな形へ戻る。
七つ目は動かない。
昔の形を知らない普通の布袋らしく、壁へ垂れたままだった。
「できた!」
ミアが今度こそ近寄る。
横長の新しい袋へ、1番から9番までの輪を移していった。
丸い色紙がいくつも重なっても、まだ窮屈ではない。
最後に、一昨日から使っていた大きなぐるぐるの札を古い深袋から外し、新しい袋の口へ付け替えた。
「わっかのおへや」
ミアが満足そうに言う。
九つを入れても、片側にはまだ一つぶんほどの余白があった。
ミアはそこへ何も入れなかった。
指先で空いている場所を軽く押し、窓辺を見る。
10番が風に揺れている。
「ここ、じゅう」
午後のあいだ、その一つぶんの空間はずっと残っていた。
ミアが床で絵を描いていても、ときどき顔を上げれば新しい袋が見える。
フィンが外から戻って水を飲んだときも、エルナが長椅子で頁をめくっているときも、九つの色の横だけが少し空いていた。
誰も別のものを入れなかった。
夕方になり、風見鶏通りの屋根から伸びる影が長くなった。
開いた窓から風が入る。
10番の輪が、小さく揺れた。
ミアは椅子を寄せ、最後の一つを両手で外した。
紐には何も残らなかった。
しばらく空になった窓辺を見上げてから、10番を壁まで運ぶ。
朝から残してあった場所へ、最後の輪をゆっくり差し込んだ。
丸い形はつぶれなかった。
十個の色が、袋の口から少しずつ覗いている。
ミアは両手で袋を広げ、中を確かめた。
「ぜんぶいる」
九月の初め、夏休みが少なくなっていくのを数えるために作った輪だった。
休みの日そのものを明日へ持っていくことはできない。
けれど、十日かけて一つずつ外した輪は、ここには全部残っている。
リディアはミアの隣へしゃがみ、新しく増えた袋の端を軽く整えた。
「ちゃんと十個のお部屋になったわね」
「うん」
ミアは窓を見た。
そこには、もう紙輪はない。
それから壁を見る。
こちらには十個全部がいる。
その違いだけで納得したらしく、ミアは夕食の匂いがする方へ駆けていった。
食卓の方から、明日の朝の話が聞こえてくる。
「俺、ちゃんと起きるから」
フィンが言うと、エルナが笑った。
「明日の朝に言って」
「起きてから言ったら遅いだろ」
「今言っても起きられる保証にはならないよ」
夏休みは今日までだった。
それでも、まだ誰も眠っていない家の中には、もう少しずつ次の朝の話が増えていた。
窓辺のルクスは、空になった紐と、七つ目の袋から覗いている十個の輪を見比べた。
古い一部屋に新しい一部屋が引っぱられた騒ぎも、そのあと十個が無事に収まったところも、最初から見ている。
白い翼を身体へ落ち着けると、最後に新しい袋へ目をやった。
「十個そろったなら、その家は満室だ。今夜くらい増築は休め」




