第29話 十枚より先に鳴る
星冠暦826年・収穫月9日・水耀日
「きゅう、じゅう!」
朝のクラウゼル魔法具店で、ミアが元気よく数えた。ただし見ているのは卓の上の紙ではなく、窓辺に残った二つの紙輪だった。
「今日が9で、明日が10!」
フィンが答えると、ミアは満足そうにうなずく。
その横では、エルナが別のものを数えていた。
「八、九、十。こっちも十枚」
そろえた紙を卓の端へ置くと、その向かいに座っていたトビアス・ヘルンが大きな箱から次の紙を取り出した。
箱の中には、色も手触りも少しずつ違う紙見本が重なっている。生成りのもの、灰色がかったもの、表面のざらついたもの。今日はこれを十枚ずつ小さな束へ分けたいらしい。
「十枚くらいなら数えるだけなんだけどな」
トビアスは苦笑した。
「途中で客に呼ばれると、七だったか八だったか分からなくなる。それでまた一からだ」
「だから手を借りに来た、と」
オスカーが箱を覗き込む。
「そういうこと。紙を切る方もまだ残ってるからな」
「だったら皆で数えれば早いんじゃない?」
エルナの答えが、一番簡単だった。
実際、トビアスもそのつもりで来ている。
ところがオスカーは十枚にそろえられた紙を眺め、顎へ手をやった。
「数えたあと、そのまま束になればもっと楽だな」
エルナが父を見る。
「今、余計なこと考えた?」
「楽にする方法を考えてるだけだ」
「お父さんのその言い方、昨日も聞いた気がする」
「昨日とは違うものを考えてる」
「そこは否定しないんだ」
フィンが笑い、トビアスまでつられたころには、オスカーは紙を一枚持って工房へ向かっていた。
昼前に戻ってきた彼が抱えていたのは、浅い木箱のような試験台だった。
上面には紙より少し広い平らな空間があり、手前に細い付印部、側面に小さな蓄魔石と解除扣が付いている。それだけなら、昨日使った拡大試験枠よりずっと地味だった。
「ここへ触れたものを、最初にごく弱い力で押し返す」
オスカーは付印部を示した。
「その力だけで接触面から浮くくらい軽ければ仮印がついて、台の上に一段だけ受けができる。重ければ印そのものが成立しない」
「おてても?」
ミアが自分の手を見せる。
「この力じゃ持ち上がらないから駄目だ。紙みたいに軽いもの用だな」
「紙だって分かるの?」
「それも分からない。ただ軽さの条件に入るかどうかだけだ」
子どもたちを卓から少し離れた場所に残し、オスカーは試験用の紙を付印部へ触れさせた。
手を離れた紙は落ちず、木の台から指一本ほど浮いたところで、何もない空間へ預けられたように止まった。二枚目はその少し上へ、三枚目はさらに上へと収まり、枚数が増えるにつれて、薄い空気の棚が重なっているように見えてくる。
ミアが目を輝かせた。
「かみのおうち!」
「十階建てだけどな」
フィンが言う。
十枚目が付印部を離れると、紙を支えていた十段がそろってゆっくり下がった。ばらばらだった紙は木台の上できれいに重なり、それとほとんど同時に側面から小さな音が鳴る。
ちりん。
「おお、これは楽だな」
トビアスが身を乗り出した。
「まだ一回だ。本番で動いてから褒めてくれ」
「自分で作ったくせに慎重だな」
「慎重になったんだよ」
オスカーは苦笑しながら出来上がった束を取り出し、次の十枚を受けられるよう試験台を起こし直した。
その少し上の棚では、ルクスが朝から白い翼を整えている。
嘴が胸元の羽を何度か梳いたとき、小さな綿羽が一枚だけほどけた。
ふわりと棚を離れた羽は、誰にも気づかれないまま卓へ向かう。軽い風に押されて木枠の手前まで流れ、最後には付印部へそっと触れた。
試験台が与えたごく弱い押し返しだけで、綿羽は簡単に浮いた。
その軽さは条件の内側だった。
一つ目の仮印を受けた羽は、木枠の縁に隠れるほど低い最初の受けへ収まり、白い紙片のように静かになった。
そこへエルナが紙見本を持ってくる。
「十枚。二回数えた」
「そこまでしなくても」
トビアスが笑った。
「道具を試すんだから、人間が何枚渡したかは決めておかないと」
「そう言われると正しいな」
紙を一枚ずつ受け取り、トビアスが付印部へ送っていく。
今度の紙見本は試験用より薄く、浮いた紙と紙の間から下の色が少し透けていた。それでも支えは安定している。
エルナは手元の残りを確かめながら数を追い、八枚を渡したところで次の一枚をつまんだ。
「次、九」
九枚目が付印部を離れた直後、重なっていた紙がそろって静かに降り始めた。
「え?」
エルナの声に重なるように、ちりん、と小さな音が鳴る。
木台の上にはきれいな一束ができている。
けれどエルナの右手には、渡すはずだった紙がまだ一枚残っていた。
「……これ、十枚目」
トビアスは出来上がった束とエルナの手元を見比べ、眉を寄せた。
「俺、九枚しか入れてないよな?」
「九枚。最初に十枚取って、私の手にまだ一枚ある」
エルナの返事は迷わなかった。
オスカーはすぐ試験台へ触れず、側面の光が消えたことを確かめて解除扣を外した。
フィンも離れたまま、卓の上を見ている。
「じゃあ、紙が一枚消えたんじゃないんだ」
エルナは手元の一枚を見下ろした。最初に十枚を取り、九枚を渡して、一枚が残っている。その三つは自分で二度数えた事実で、台が早く鳴ったからといって変わらない。
「紙を十枚受け取ったんじゃない」
エルナの目が試験台へ戻る。
「紙じゃない何かを、一枚分先に受け取ってたんだ」
トビアスが出来上がった束を持ち上げると、その下から白いものがふわりと滑り落ちた。床へ届く前にオスカーが手のひらで受け止める。
小さな綿羽だった。
「あ」
ミアが棚を見上げた。
「ルーちゃんの!」
呼ばれたルクスは、オスカーの手にある羽を見てからミアへ目を移し、いかにも面倒そうに金色がかった目を細めた。
「これか」
オスカーもようやく納得した。
成功試験を終えて台を起こし直したあと、この羽が付印部へ落ちたのだろう。人間なら紙見本ではないと一目で除けるが、試験台が確かめるのは用途ではなく、弱い押し返しで浮くほど軽いかどうかだけである。
綿羽が最初の一枠を使い、そのあと紙が九枚入った。
それだけで、台にとってはきちんと十入力だった。
「羽一枚と紙九枚で一束か」
トビアスが笑う。
「紙屋としては返品したい組み合わせだな」
「返品先はルクス?」
ミアが尋ねる。
棚の上から冷たい視線が落ちてきたので、トビアスは咳払いで笑いを隠した。
エルナはまだ自分の手に残った十枚目を見ていた。
「私、最初は紙が薄いからかなって思った」
「それも調べる候補にはなるな」
オスカーが答える。
「でも、十枚取ったことは合ってた」
「そこを捨てなかったのが正解だ」
難しい原因を先に当てなくても、確かめた事実が一つ残っていれば、その先を狭められる。
エルナは少し照れたように最後の一枚を箱へ戻した。
昼食のあとも紙の束は少しずつ増えていった。
オスカーは付印部の上へ小さな庇を足し、上から羽や紙片が直接落ち込みにくくしたうえで、起動時に何かが触れたままなら最初の受けを作らないよう条件を足した。長い説明を聞いていたのは初めのうちだけで、ミアの興味はすぐ完成した束の方へ移っている。
「これ、いち、に、さん……」
「束まで数え始めたら終わらないぞ」
フィンに止められ、今度は紙の色比べが始まった。
次に用意した十枚では、最後の一枚がエルナの手を離れるのと小さな音が鳴るのがきれいに重なった。それ以降、試験台が十枚を無事に束ねても、誰も一束ごとに歓声を上げなくなった。
トビアスが次の紙を送り、オスカーが出来上がった束を箱へ移す。エルナがその間に新しい十枚をそろえ、フィンとミアは生成り色をパンだの、薄灰色を雨雲だのと勝手な名前で呼び始める。
そんな話し声の中で、ときどき十枚の紙だけが少し空中へ離れて並び、何事もなかったように一つの束へ戻っていった。
うまく働いている魔法は、失敗しているときよりずっと目立たなかった。
午後の日差しが店の奥へ長く差し込むころには、朝にはばらばらだった紙見本が箱の中へいくつもの小さな束となって収まっていた。
最後の一束を受け取ったトビアスは、箱を抱え直しながら「助かった」と笑った。
「今度は紙だけだな」
「羽まで商品にする気はないからな」
オスカーが返す。
棚の上からまた視線を感じたトビアスは、「冗談だよ」と片手を上げ、そのまま風見鶏通りへ帰っていった。
店の扉が閉まると、それまで紙で埋まっていた卓が急に広く見えた。オスカーが蓄魔石を外した試験台を工房へ戻す間にも、夕方の風が居間まで抜けていき、その先で窓辺の二つの紙輪を揺らしている。
朝にミアが数えた、9と10だった。
「きょう、こっち」
ミアは9番を外すと、「おえかきのおうち」の深い袋へ運んだ。そこには1から8までの輪が重なっていて、今日の一つが加わると、窓辺に残るのは10番だけになった。
「ほんとに一個になった」
振り返ったミアの声に、フィンも窓を見上げる。
「明日で最後だな」
エルナは揺れている10番をしばらく眺めていた。
朝から何度も十を数え、紙ではない一枚まで十の中へ紛れ込んだ一日だった。それでも窓辺の数字だけは、いつもの夕方と同じように一つ減っている。
夏休みは、あと一日。
ミアはその10番を見てから、ふと思い出したようにルクスの棚へ近づいた。
「ルーちゃん、もうふわふわない?」
白い身体を下から覗き込まれたルクスは、しばらく黙っていたが、やがて翼を隙間なく身体へ畳んだ。
「探すな。勝手に一枚へ数えたのはあの台だ。俺まで数えるな」




